既視感
文化人類学者である田口礼治は、地域ごとの歴史、伝承や人々の暮らしを調査するために世界中に足を運んでいる。今訪れているのは国土の大部分を密林が占めるトプリス共和国であり、長く外の国々と交流を遮断されていた歴史を持つこの国では、独自の文化や風習が根付いていた。
目的地であるレットという街に向かうには、30キロもの密林の中を歩かなければならない。肩幅が広くどっしりした体つきをしている田口だが、そんな彼でも疲労と戦いながらなんとかたどり着くような道のりだった。
彼は何より知的好奇心が強かった。大学を卒業してから10年ほど、調査のために目的地に向かってはそこで知ったことを発表するという生活に明け暮れている。それだけが生きがいであり、そのためならどんな苦労でも惜しまなかった。
密林を抜けた先に小さな湖があった。地図上ではこの湖を道なりに西に進んでいけば街に出るはずである。だが田口にはその湖が気になって仕方がなかったから、一旦今日はこの辺りで宿をとることにした。気になるというのは曖昧な表現だが、不思議なことに田口には遥か昔にこの地へ来たことがあるような気がしてならないのだ。この国に足を踏み入れたことはこれまで一度もない。だがその湖を見ていると、そんな既視感に襲われるのだった。
次の日の朝、田口は再び湖の景色を見ようと湖畔へ向かった。音もたてずに揺れる水面に陽の光が遠慮なく照りつけている。そこに自分と同じように静かに佇んで湖を眺める女性を見つけたから話しかけた。
彼女は名をアンラと行った。20代半ばくらいの華奢でどこか大人びた女性である。別の国で生まれたアンラは2年前に旅行でここを初めて訪れ、この湖に不思議な縁を感じてここに住み続けているという。それは田口と同じような既視感のようである。
「あなたもこの湖にそのような不思議なものを見出されるんですね?」
田口は自らの奇々怪々な感情を共有できる人物に出会えたことに驚きを隠し得なかった。
「私はかつてこの湖に沈んでいった。馬鹿げていると思うでしょうが、2年前にこの湖を見た時からずっとその光景が頭から離れないんです」
アンラは尋常とは思われないことを口に出したが、田口は馬鹿げているなどとは思わない。むしろ彼女の発想には深い理由があるに違いないと学者としての魂を奮い立たせた。
「この地域の過去の文献を洗いざらい調べてみましょう」
「いいんですか。そのようなことをお願いしても」
「僕は最初からそのためにここへ来ているんです。この湖、そしてあなたに会ったことでより研究への意欲が湧きました」
「ではレットまで行けば大きな図書館があります。そこでなら何か分かるかもしれません」
田口はレットにある古びた図書館へ向かった。遥か昔から現在に至るまでの文献が巨大な本棚を埋め尽くしている。そして文献を読み漁ることでこの地域のさまざまな伝承が見つかったが、あの湖にまつわるものはなかった。だが図書館に籠もること3日目になって、田口は湖にまつわる伝承を見つけることができた。
それは二千年前のことだという。かつてこの地域に大飢饉が起こり、それを神の怒りと恐れた住民たちは湖に生贄を捧げることにした。住民たちは湖そのものを神として崇めており、生贄は湖に沈められなければならない。
生贄に選ばれた女性は村のためとそれを受け入れたが、その夫は猛反対したことで牢に捕らえられた。だが夫は生贄が捧げられる日になって、妻を救い出すためにその牢から脱げ出して湖へと向かった。しかし時すでに遅く、生贄となったその男の妻は湖へ向けて歩き始めていた。
夫は叫びながら止めようとしたが取り押さえられ、その妻は湖に沈んで生贄となった。そして夫もその後牢の中で淋しく1人死んでいったという。
翌日田口はアンラに会ってその伝承について話した。あくまで伝承にすぎないのだが、2人はどちらもこの話を作り話だと疑ってはいなかった。
「本当に馬鹿げているでしょうが、僕にはこれが他人の話だと思えないんです。自分の身に起きた出来事のような気がしてならないんです」
「私もです。ぼんやりとですが、それでも確かに覚えています。私は本当にあの湖に沈んだんですね」
「ああ、きっとそうだろう」
2人はそれからすぐこの地で結婚し、その後幸せに暮らした。