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9章 稲妻

 仕事に行く準備をして玄関を出ると、城山が立っていた。

「病院へ行くなんて、やっぱり嘘だったんだね。」

 何も言えず俯いた香純は、その場にしゃがみ込んだ。1人でいたら、誰かに寄りかかるなんてしないのに、誰かが近くにいたら、急に寄りかかってしまいたくなる。

「月代さん、そんな状態で仕事したって、周りに迷惑かけるんだよ。病院に行って、診断書をもらおうよ。ここは大きな町だから、誰も噂する人なんていないから。」

 城山は香純を家に入るよう伝えると、タクシーを呼んだ。

「昨日のうちに、ネットで病院を予約しておいたんだ。月代さんは、職場に休むって連絡をして。」


 病院の待合室には、たくさんの妊婦さんが診察の順番を待っている。

 城山が見つけてきた産婦人科専門の病院には、ゆっくりとした音楽が小さく流れ、一つ一つの案内が、とても丁寧だった。

 夫の様に寄り添う城山は、

「津村には話したの?」

 そう言って香純の顔を覗いた。

「ちゃんと結果が出てから話すつもりです。」

「そうだね、それがいい。」  

 香純の背中をさする城山の手は、とても力強く感じる。本当は何もかも津村に話して、楽になってしまいたいのに。

 診察室に呼ばれた。穏やかな口調で話す女医から、

「おめでとう。8週目になる頃ね。」

 そう言われた。

「エコーで様子を診るから、隣りに入って。」

 いつもなら、諦めの境地で上る診察台が、今日は下着を脱ぐ手が震えた。

「筋腫があるのね。」

 女医はそれ以上話しをしなくなった。

 診察室へ戻ると、用意されているはずのエコー写真はなく、

「今日は1人来たの?」

 そう聞かれた。

「いえ、友人と。」

「その友人は信頼のできる人?」

「えぇ、まあ。」

「残念だけど、赤ちゃんの心拍が確認できないの。このままお腹の中に置いておくわけにはいかないから、手術をしましょう。今日は午後から手術室が空いてるから、お友達にサインを書いてもらって、すぐに準備をしましょう。」

 

 待合に戻り、城山の隣りに座った香純は、

「お願いがあります。」

 そう言って城山の方をむいた。

「どうした?」

「これからお腹の中の赤ちゃんを取り出す手術をするから、城山さんに承諾書を書いてもらいたくって。ごめんなさい。こんな事、本当は迷惑なのはわかってます。でも、今はそれしか…。」

「取り出すって?」

「もう生きてないみたいだから。」

 香純は涙が溢れない様になるべく淡々と話した。ここは幸せな人がたくさんいるんだから、泣いたりなんかしたら、皆が自分を哀れな目で見るだろうから。

「わかったよ。」

 全てを察した様に香純の肩に手を置いた城山は、それ以上何も言わなかった。


 麻酔の点滴が打たれ、シャッターが閉まるように何もかもから遮断された。

 夢の中では、喉から渇いて仕方かった。コップに水を入れているはずなのに、飲もうと口をつけると、コップは空のまま。何度もそれを繰り返すと、誰もいない砂漠の中で、砂を掬って飲んでいた。

「月代さん。」

 城山が呼ぶ声で、目が覚めた。

「終わったよ。」

 城山はそう言うと、

「城山さん、いろいろありがとう。もう、行かないとダメだね。」

 泣かないと決めていたはずの涙が、とめどなく溢れてくる。

「津村にすぐ来てこいって、俺から言おうか?」

「ううん。言わないで。」

「どうして?」

「今はまだ、話せない。」

「時間が経てば、言い出しにくくなるんだよ。それに、2人に取って大事な話しだろう。」

 布団を被って、声を押し殺している香純を見た城山は、

「わかったよ。」

 そう言って布団の上から香純の背中を撫でた。


 病院から出た後、家まで送ってくれた城山は、最終列車に間に合うからと帰って行った。

 気持ちの悪さは少しずつ消えていったけれど、下腹はいくらさすっても痛みが治まらなかった。

 もう、なんにもないんだよ。 

 あの時、薬を飲み過ぎたのがいけなかったのかな。

 CTを撮った事がいけなかったのかな。

 津村がお酒をたくさん飲んでいた事も考えず、感情に流されてしまった自分は、大きな罪を犯してしまった。暗闇の中で消えていった命は、一生、私を責め続ける。


 スマホがなった。

 津村からの着信だとわかると、動悸がして出る事ができなかった。  

 その後、何度もラインがきたけれど、結局朝まで返信はできず、仕事に向かおうと歩いている途中で、

 “ごめん、寝てたから”

 それだけの言葉を送った。


 吐き気が治まり、何事となかったように仕事をしている。昨日、自分がした事は誰もしらない。大変な事をしたはずなのに、それを咎める人もいないし、黙ってやり過ごしてさえいけば、せっかく自分の元にやってきた命の事なんて、いつの間にか忘れていくんだろう。

「月代さん、大丈夫ですか?」

 隣りの席の廣川唯ひろかわゆいが聞いてきた。

「大丈夫、ちょっと貧血。」

「そうですか。私も貧血があって、あの日はお休みを取るんです。ここは、休暇願いに書いてだせば、上司は何も言いませんよ。まっ、それを悪用してる人もいるんですけどね。」

「大きな所は違うのね。」

「人に関心がないんですよ。部所はすぐに異動になるし、人によっては地方に出向だってある。熱心に仕事をしてる様で、早めに異動願いを出しておけば、嫌になった時にリセットできるから。」

「引っ越しのほうか、大変じゃない?」

「利口な生き方ですよ。」

「月代くん。」

 課長が香純の席にやってきた。

「会議には出れそう?」 

「あっ、そうだ、今日でしたね。」

「無理しなくてもいいよ。廣川くんがいろいろと準備をしてくれたからね。」

「廣川さん、ごめんなさい。どうもありがとう。」

「課長、係長は月代さんなんですから、ちゃんと出席させてください。」

「そうだね。それなら月代くんの役割は、廣川くんがサポートして。」

「わかりました。課長、お昼ご飯くらい奢ってください。おかげで昨日も残業だったんですから。」

「廣川さん、私が奢りますよ。休んでてごめんなさい。」

「いいんですよ、月代さん。課長にはたくさんの借りを作っているんで、それでです。」

「わかったよ。じゃあ、Aランチ奢るから、月代くんも一緒にお昼にしようか。」


 会議のため、少し早めにお昼休憩をとると、まだ混み合っていない食堂の端に、3人は座った。

 むこうでは、昼一の会議の時は、お昼休みなんて取っていなかった。ここは、部所ごとに対応が違うとは言え、静かな時間が、いつもゆっくりと流れている。

「この前、ここにきてた人は彼氏?」

 廣川がいった。

「違います。」

「むこうの人よね。」

「そうです。」

「病院に付き添ってくれるなんて、優しい人よね。」

 香純は少しビクッとした。

「私も一緒にいたんだけど、覚えてない?」

「えっ、そうだったんですか?」

「そうよね、あの人が来て、交代したんだから。」

「知りませんでした。廣川さん、ありがとうございます。」

「こういう女ってダメね。私が倒れても、ふざけてるって思うでしょう?」

 廣川は課長の方を見た。

「廣川くんは強いからね。」

「課長、それ遠回しにしてるセクハラ。」

「言わせる様に仕向けたのは廣川くんだろう。」

「そうだけど、そんな事ないよとか、言えないの?」

「そんな事ないよ。」

 笑いながら言った課長に、

「もう遅いから。」

 廣川はケタケタと笑った。

  

 体調が良くなった週末。

 津村が突然やってきた。

 城山から話しを聞いたのだろうか。結局、あの日の事は話せないまま、津村の気持ちを探ってみては、怖くて他愛もない話しを繰り返した。

「忙しかったの?」

「ううん。そんなに。津村くんは?」

「この前まで、少し。」

「税務は6月がピークだもんね。」

「そうだね。今年は俺以外のメンバーも変わなかっから、スムーズに進んだよ。」

「慣れた人が多いって、大事だよね。」

「月代?」

「何?」

「この前、せっかく来てくれたのに酔っててごめん。」

 香純の体が固まる。

「覚えてないの?」

「あんまり。」

「それなら良かった。」

「なんで、良かったんだよ。」

「思い出さない方がいい。」

「俺、そんなにひどい事したか?」

「してないよ、なんにも。」

「月代?」

「ん?」

「なんか隠してないか。」

「隠してる事なんて何もないよ。」

「嘘つくなよ。この前、城山さんと会っただろう。」

 城山はお喋りだ。気を利かせて言ったつもりなのかもしれないけれど、どうしてそこまでお節介なのか。

「ごめん。」 

 城山はどこまで、津村に話したんだろう。突然ここへ来たって事は、やっぱり全て話してしまったのだろうか。早めに伝えなかった自分も悪いけれど、もう少しそっとしてほしかった。

「泊まっていったのか?」

「えっ、何言ってんの?そんな訳ないじゃい。会議でこっちにきてただけだよ。」

「そっか。そうだよな、泊まるわけないか。城山さんは、月代から何か聞いてるかって含んだ言い方してたから。」

「疑ってた?」

「疑うさ。だけど、何もなかったんだろう。」

「そうだよ、何もなかった。」

 言い出せない言葉が、ずっと胸の中で踞っている。

 ちゃんと話さないといけないと思えば思うほど、自分が犯してしまった罪を少しでも軽くしようとアリバイを探している。 

 津村は香純の手を握った。

 目が合うと、優しく微笑んだ津村の顔を、真っすぐに見ることができない。

「なんでそんな顔するの?」

「なんでって、こういう顔だろう。」

「ごめん。」  

 俯いた香純の顎を上に上げた津村は、香純の唇に近づいた。

 津村の胸を押し返した香純は、

「あんまり近いと、寂しくから。」

 そう言ってキッチンへ向かった。


 夕食の後。

「津村くん。」  

 洗い物を終えて、香純は津村の隣りに座った。

「お酒、なんで飲まないの?」

「月代と会う日は飲まないって決めてたんだ。」

「どうして、飲んだらいいのに。」

「子供ができたら、情けない親父になんてなりたくないからな。」

 津村はそう言った。

「結婚しようか。」

「何言ってんの、バカ。」

「バカはないだろう。」

 香純の背中を抱きしめた津村の手に、涙が落ちた。

「津村くん、子供なんてできないよ。それはわかってる事でしょう。子供がほしいなら、別の女の人と結婚して。」  

 涙が止まらない香純を自分の正面にむけると、

「ごめん、そんなつもりで言ったじゃないんだ。」

「津村くんは悪くないよ。悪いのは、私だから。」

 喉に引っ掛かった言葉が、飲み込めない余計に涙を溢れさせる。

「あのね、この前、」

 香純が言い掛けると、津村は香純を抱きしめた。

「もういいから。一緒にいるだけで、俺はそれでいい。」


 背中をむけて眠っている津村の方を見つめながら、香純も背中をむけた。

 誘いをあやふやに断った後の津村は、表情は穏やかに見えたけど、落ち込んでいるように感じた。

  


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