8章 足跡
永遠に続くと勘違いした雪の季節は、気まぐれが太陽が泥混じりの模様に変えた。
保育園の前に作られたヘンテコな雪だるまは、まるで汗をかいているように形が崩れてきていた。
2月の終わり。
総務課に呼ばれた香純の前には、城山と総務課長が座っていた。
「月代さん。4月から本庁へ2年間の出向になるから。」
「私がですか?」
「そうだよ。本庁からも女性の係長がくるみたいだし、うちも女性の係長を出そうと思ってね。澤山さんには家庭があるだろう。だから、月代さんに行ってもらいたいと思ってね。」
何も言わずに自席に戻った香純を、課長が呼んだ。
「何の話しだった?」
「異動の話しです。4月から本庁へ出向だそうです。」
「そうか。それじゃあ、月代さんは男と同じレールの上に乗ったんだ。」
「課長は出向した事があるんですか?」
「もちろんあるさ。それがいずれここに座る条件だと言われているし。月代さん、むこうで少し成長して、ちゃんと帰ってきてよ。去年はいろいろあってやりづらかっただろうし、気持ちを切り替えるためにちょうど良かったじゃないか。」
課長の話しを聞いていた津村は、香純が戻ると席を立った。
“どういう事?”
津村からのラインに、
“帰ったら話す。今日は残業しないから。”
香純はそう返信して、仕事を続けた。
3月。
「ここは、俺が借りる事にするよ。月代が戻ってくる場所だから。」
「津村くん、2年って長いね。」
荷物を詰めていた香純は、手を止めて津村の方を見た。
「お互い、信じるしかないだろう。」
目を合わせようとしない津村に顔を近づけて、
「好きな人ができたら、早めに言って。まだ傷は浅いから。」
香純はそう言って段ボールの蓋を閉めた。
「バカ言うな。別れるなんて、重症だぞ。立ち上がる事になんてしばらくできないだろうし。」
「やっぱり行きたくないなぁ。」
「月代が弱音を吐くなんて、そんなに俺の存在が大きくなっていたのか。」
やっと目を合わせてくれた津村を見つめると、香純は手を止めて隣りに座った。
「ずっと一緒にいたからね。いろんな事、教えてもらったし。」
「じゃあ、結婚して仕事なんて辞めてしまえよ。月代を食べさせていく事くらい、俺はできるから。」
「ダメだよ。甘えるなんて。居心地が悪い。」
4月から津村は異動になり、係長になった。
3月の終わりに降った雪は、4月になっても住み慣れたアパートから市役所へと続く道端に、無残な姿で残っていた。
自分の仕事の整理もあるというのに、津村は荷物をあるだけ車に積めて、香純の引っ越し先にやってきた。
都会のアスファルトには雪なんて残っていない。なんで自分なのかという悔しさが、ずっと胸の中を行ったり来たりしている。
よりによって、生理の日と引っ越しが重なった。
後からやればいいだろうが利かない性格は、ずっと探し物をしながら、荷物を片付けている。
「少し、休んだら?」
津村が何度も声を掛けてくれるのに、大丈夫だとその手を払い除ける。
「月代。」
「何?」
「俺、来月のどっかこっちにこようか。」
「本当?」
「なんだよ。ずいぶん素直になったんだな。」
「そっか。津村くんだって歓送迎会があるんだっけ。係長会にも行くんだろうし。私の気持ちばかり、優先できないね。」
「そんなの、なんとか都合つけてくるから。」
「じゃあ、私が行ってもいい?ここはなんだか落ち着かない。」
「無理するな。最初からこんなだと、2年なんて持たないかもな。結婚するか?少し早めに戻ってこいよ。」
「また、それ。」
夜。
やっと横になれる場所を作ると、香純は背中を丸めて横になった。
「大丈夫か。」
「うん。さっき、薬飲んだから。」
「月代、朝から思ってたんだけど、薬、飲み過ぎてないか?病院からもらってる痛み止めの他に、市販の薬も飲んでるだろう。」
「今日は仕方ないの。」
「そんな事、もうするなよ。」
「わかってる。」
香純の背中にそっと手を置いた津村に、
「前にもこんな事、あったよね。」
香純が言った。
「こっちでも、ちゃんと病院に通えよ。」
「うん。」
次の週の金曜日。香純は最終列車に乗って、津村の元へ向かっていた。
新しい職場では、たいして仕事も与えられず、腫れ物に触るような周りの態度に、こんな役割は自分でなくても良かったのにと、心がささくれ立つばかりだった。
本庁には女の管理職も少しいた。その女性は、当時では珍しい、大学を出ている才女なんだろう。女だからとか、女なのにとか、そんな事はささやかれる事はないけれど、よその森からひょっこりやってきた間抜けな狸の様な自分は、この森には馴染む事が出来ず、またポテポテと元いた森へ帰っていく様だった。
どれくらい待ったのか。
津村が横で眠っている事に気がついたのは、明け方だった。
そうとうお酒を飲んでいるのだろう。シャワーを浴びているはずなのに、体からアルコールの匂いがする。
去年の自分も、なんとか周りに打ち解けようと必死だった。張り切れば張り切る程、気持ちがついていかなくなる。
香純は津村の胸に顔を埋めると、それに反応したように津村は香純の体を包んだ。
「津村くん、起きてるの?」
香純が津村の唇に近づくと、津村は急に香純の体の上になった。
「俺、酔ってるから何をするかわからないぞ。」
津村はそう言うと、香純の服を脱がせた。
何かを待っている様な津村の顔を見つめると、
「妊娠したら責任とるから。」
津村はそう言って、香純の唇を塞いだ。
寂しさという感情は、理性を壊してしまうのかもしれない。お酒が後押ししているせいもあるのか、津村の要求に応えているうちに、冷え切った体はずっと熱を帯びた様に反応していた。
6月。
梅雨の季節になったせいか、ずっと頭が痛かった。少し前から引いている風邪は、なかなか治らず、仕事にも集中ができなくなっていた。
与えられた仕事は、何度も同じ場所で躓き、ゆっくりでいいからねと、慰めなのか、諦めなのか、新人の頃でさえ、そんなに優しく指導なんてされていないのに、ダラダラと仕事をさせてくれた。
体調が良くならないと、いろんな薬をけっこう飲んでいる副作用なのか、胃を壊したのか吐き気が止まらない。薬局から、強めの胃薬を買ってくると、風邪や鎮痛剤も含め、お菓子のラムネを食べるように、掌に転がる錠剤を口に入れた。
背中を丸めて眠っても、津村の手はいつまでもやって来ない。寂しさと共に襲ってくる吐き気は、夜中に何度もトイレへ駆け込んだ。
フラフラになりながら迎えた朝は、お腹が空いているはずなのに、全く食欲が沸かない。
職場には迷惑をかけられないと、なんとか出勤して席に着くと、
「月代さん。」
自分の名前を呼ぶ方に体をむける。
「あっ、城山さん。」
立ち上がると同時にチカチカした光が目の前に広がるった。突然、電気を消すように辺りはパチっと暗くなった。
「月代さん。」
目を開けると、病院のベッドの上にいた。
「相変わらず、貧血かい?」
城山がそう言うと、香純は辺りを見回した。
「こっちで会議があってね。出張してきてたんだよ。月代さんの事が気になってきてみたら、ぜんぜん変わってないんだね。」
「城山さん、会議は?」
「とっくに終わったよ。今日はもう1泊泊まる予定だったから、ちょうど良かった、何か食べに行こうか。」
病院を出て、タクシーに乗ると、また吐き気がして口元を押さえた。
「大丈夫?」
「はい。」
「月代さん、食事なんていいからこのまま家に帰ろうか。」
「すみません。」
家に着くと、一緒に中に入ってきた城山は、香純をベッドに座らせた。少し考えてから、城山は香純に聞いた。
「津村はこの事、知ってるの?」
香純は机の上にあるカレンダーを見つめていた。
「さっきは採血だけですか?」
「念の為ため、CTも撮ったんだ。」
こっちにきてから、新しい病院に行くの躊躇っていると、薬がなくなっていても、そのうちそのうちと先延ばしにしていた。当たり前になってきた生理の事なんて、本当は来ないほうが楽だと思っていたし、たとえ来ても、数日間、市販薬を飲んで我慢したら、また通り過ぎていくもんだと安心していた。
「明日、病院に行くんだよ。津村にもちゃんと話さないと。」
一人になった部屋の中で、何度も津村に連絡をしようとスマホを持ったけれど、飲んでしまった薬の事や、病院で撮ったCTの事を考えると、うまく話す事ができなかった。
船酔いの様な状態は続き、ぼんやりと持っていたスマホを床に落とすと、城山から着信があった。
「もしもし。」
「もしもし、月代さん。」
「津村には話した?」
「まだ。」
「そっか。あいつも忙しいみたいだから。」
「そうですか、津村くん、やっぱり忙しいですよね。」
「俺、明日は移動日で夕方の列車でむこうに帰るから、月代さんの病院に付き添うよ。一人だと、絶対に行こうとしないだろう。」
「ちゃんと行きますし、それに、城山さんについてきてもらいたくありません。」
少し沈黙があった後、
「わかったよ。じゃあ、ちゃんと行くんだよ。」
城山が言った。
「いろいろありがとうございました。」
ベッドに横になると、目を閉じるために吐き気が襲ってくる。少し目を開けて見える壁紙さえも、受け付けない匂いが漂ってくるようだ。
“もう寝た?”
津村からラインがきた。
“もう少しで寝るよ”
それだけ返信するのが精一杯で、香純は背中を丸めた。