7章 痛みの行方
香純は急いで会計を済ませると、なかなか立ち上がらない城山に、
「お疲れ様でした。」
と、その場を離れた。タクシーを捕まえようと道沿いに歩いていると、
「送っていくよ。」
そう言って、城山が車を路肩に停めて自分を呼んだ。
「早く乗って、ここは車が多いから。」
「すみません。」
香純がそう言って車に乗り込むと、
「津村、怒ってたのか?」
城山が言った。
「怒ってません。待ってるって、それだけ。」
「今日は実家にいれば良かったのに。面倒くさい奴だな、本当。」
「私と津村くんの事ですから。」
香純はそう言って次曲がり角を指差した。
「ここでいいです。後は歩いて帰りますから。」
「そんな事言うなって。」
「城山さん、私、悪い事してますよね。」
「そうだね。男と2人きりで会うのって、そりゃいい噂にはならないね。」
「だったら、こうして会うのはやめましょう。」
「ずいぶんだなぁ。月代さんと津村の関係は公にはしていないんだし、俺と会っていても、別に問題はないだろう。津村との間のルールなんて、俺には関係ないし。」
「あんまり困らせないでください。」
「困らせてなんていないよ。楽しんでるんだよ。」
「悪趣味。」
「自分と同じ色を持っていると思った人がね、違う色に変わっていくのを見たくないんだよ。それも、どこにでもある似たような色にね。」
「ごめんなさい。」
「どうして謝るの?」
「よくわからんないけど、謝らないとダメな気がして。」
「津村とうまくいかなかったら、すぐにこっちにおいでよ。」
香純は近くの曲がり角で車を停めてもらうと、城山にお礼を言って、車が入ってこれない道を歩いていった。
家に帰ると、津村が本を読んで待っていた。
「ご飯まだだった?」
津村が香純に聞いた。
「食べてきた。城山さんと。」
「城山さんと?」
「前に玄関で倒れてここまで運んできてくれた事があって、そのお礼。もう、2人で会う事は絶対にないから。」
「城山さんって、ここに来た事あるの?」
「うん。4月の初めの頃。津村くんと付き合う前かな。」
「前の事なら責めたりはしないけど、城山さんは俺達の事を知ってて、絡んでくるとしか思えないんだ。噂だって、自分で流してるみたいだし。同じ課の上司と部下だし、公にすると仕事がしづらくなるんじゃないかって今までは黙っていたけど、これから正々堂々と2人で暮らさないか?どうせ、この先結婚するんなら、子供だって早い方がいい。」
子供と聞いて俯いた香純に、
「俺も協力するから。」
津村はそう言って香純の頭を撫でた。
「津村くん、ごめん。嫌な思いさせちゃったね。これからは真っすぐ家に帰るから。一緒に暮らすのはもう少し待って。親にもちゃんと話しをしないといけないし。」
「そうだったな。だけどさ、変な噂を否定しないと。」
「言わせておけばいい。そのうち新しいネタができたら、そっちの方に流れていくんだから。」
微笑みながら次のページを捲った津村が読んでいる本を覗くと、難しい内容の話しだった。
「外国の本?」
「そうだよ。」
薬のおかげで、毎月定期的に来るようになった生理は、数日間を乗り切れば、またいつもの生活に戻る事ができる様になった。
だけど、この数日間が、起き上がるのも辛くなる程に、これでもかと自分を苦しめてくる。
津村には、いつも生理が終わるまで、家に来ないでほしいと言ってある。今回はたまたま週末にぶつかったせいで、心配した津村が、母親が作ってくれた食事を運んできた。
金曜日の夜。
ベッドの中でパンやチョコを食べて過ごしていた事が、朝、家に入ってきた津村にバレた。
「昨夜も遅かったの?」
「うん。少し。」
「皆に仕事、振ればいいだろう。」
「そうだけど、今は伝える余裕もないから。」
香純はお腹を丸めてベッドの中に踞った。
「薬飲めよ。」
「うん。」
起き上がろうとした香純を止め、
「どこにあるんだ。」
津村が薬を探し始めた。
「そこの引き出しに入ってる、ピンク色の、」
「あっ、これか。」
「そう。」
「待ってろ、水持ってくるから。」
いつもは一人で、這いつくばってでも持ってくる薬を、津村は簡単に掌に入れてくれた。
「ごめん、津村くん。」
「こういう時、お礼を言えよ。」
「そうだね。ありがとう。」
「寝てろよ。」
「うん。」
こんな繰り返しを、一体いつまでしたら、神様は許してくれるんだろう。触れてほしいはずの津村の手が、ずっと遠くにあるように感じる。
この日が来る度に重く感じる私の子宮は、きっと自分では思い出せない罪を抱えて、鉛の様な塊になっているのだろう。
「月代。」
「何?」
「撫でてやろうか。」
「大丈夫、そんなに弱い人間じゃないよ。」
優しい津村の言葉にも素直になれない。本当はこの子宮を取り上げてくれるくらい、下腹を掻き乱してほしいのに。
そっと背中に手を置いた津村は、
「こういう日って、味がわかんないんだろう。」
香純に言った。
「なんで?」
「いつもは苦いって食べないチョコも、ずいぶんと爆食いしてるみたいからさ。」
「えっ、嘘。そっか、昨日コンビニで間違えて買ってきたんだ。」
「今日は母ちゃんが玉子たくさん持たせてくれたから、それを爆食いすればいい。」
「ねぇ、津村くん。人も卵で生まれたらいいのにね。」
「鳥や虫にもそれなりの悩みがあるんだよ。」
「津村くんは大人だね。」
香純はそう言うと眠り込んだ。
夕方。
目を覚ました香純の隣りに、津村が眠っていた。
そっと津村の頬に手を触れると、津村は背中を向けて眠ったままだった。
香純は静かに起き上がり、トイレへ向かった。
ふらつきながら、戻ってくると、津村の母親が持たせてくれたタッパーを開けた。敷き詰められるように並べられた味付け玉子は、ツヤツヤした顔でこっちを見ている。津村はきっと、お母さんから愛情をたくさん受けて育ったんだろう。息子のために、こんなにたくさんの玉子を用意してくれるなんて。
香純はそのひとつを小皿に乗せると、そのまま口に運んだ。
「美味しい。」
自然と出た言葉を聞きつけて、津村が起きてきた。
「これ、どうやって作ったの?」
「放っておけばできるって言ってるけど。」
「そうかな。中まで味がしっかりついてる。」
「今度、家にくるか?」
「いいの?」
「いいよ。彼女なんだし。」
「だって私、子供は産めないかもしれないんだよ。」
「母ちゃんはそんな事こだわらないよ。」
「そう言えば、津村くんって兄弟いるの?」
「いたよ。双子の弟。もう亡くなったけど。」
「ごめん、何も知らなかった。」
「小2の時だったかな。父さんと釣りに行って、2人とも波にさらわれた。」
「えっ、本当に?そんな辛い事があったなんて、ぜんぜん思わなかった。」
「俺もいい加減、母ちゃんを子育てから解放してやらないと。」
「子育てからの解放なんて、できないと思うよ。津村くんの事が一番大切なんだから。私みたいな女を紹介したら、孫は見れないかもしれないし、お母さんの様に津村くんを大切にできないって、見透かされるかも。」
「月代といるとさ、いろんな引き出しが開くんだよ。それは母ちゃんも思ってたみたいで。それは自分にはできない事なんだって母ちゃんは言ってるよ。孫の事は…、結婚って、そればかりじゃないだろう。命なんて、作るものじゃないんだし、もらうものなんだから。」
少し考え込んだ香純の前にある小皿に、津村は一つ玉子を乗せた。
「指輪じゃなくて、ニワトリをプレゼントしたらって笑ってたぞ。」
「やだ。鳥の目って怖いんだけど。」
「イライラしてる時の月代の目も、けっこう怖いよ。昨日なんて、最悪だよ。」
「そうだった?」
「何となく皆で、今日はそっとしておこうって雰囲気になる。」
「そんな、きつく当たっているつもりはないんだけど。」
「当たってはこないよ。なんか探し始めたら、何となく周りは感じるんだ。今、係長に声掛けたらマズイかもってね。昨日はそれで酒井と目が合ったよ。」
「ごめん。気をつける。」
「いいんだよ、そのまんまで。ずっと同じペースでなんて生きていけないんだし。」
「津村くんにそんな事言われると思わなかった。」
「なんだよ、俺を下に見ていたのか?」
「そんな事ない。嫌な言い方してごめん。すごく頼もしくなったと思って。」
「その引き出しを開けたのは、月代なんだよ。残念ながら、閉まんなくなってしまったんだから、ちゃんと責任とれよ。」
「これ、全部食べてもいい?」
「ダメだ、俺にもくれよ。半分ずつだからな。」