6章 入道雲
夏に吹く湿った風は、まとわりつくような暑さを連れてくる。
町全体を冷やしてくれる冷たい雨を求めてたはずなのに、突然降り出した夕立は、乾いたアスファルトの熱を舞い上がらせ、息ができないくらいの湿度を記録した。
「係長、また有休?」
休暇届を提出すると、課長は怪訝そうな顔をしていた。
「定期的に休む理由があるなら、話してくれないかな。」
「突発的な事ですから、ご迷惑かけてすみません。」
「このあたりは議会が入って来るんだよ。今までは関係なかったのかもしれないけれど、これからは君も出番だからね。」
「わかりました。」
昼休み。
「月代さん、今度の係長会も欠席するの?」
城山がやってきた。
「ちょっと、用事があって。」
城山は津村の方に目をやると、
「こういうのだって、仕事のひとつなんだよ。それに、ちゃんと繋がりを持っておかないと、いざという時に、誰も助けてくれないからね。今回は少しでいいから顔を出してよ。」
香純の前で命令する様に城山が話していると、
「月代は、ずっと体調悪いみたいなんですよ。きっと職場には言いにくい事なんだと思います。そう言うの、先取りしてわかってやるのが、男なんじゃないですか。」
話しを聞いていた津村が城山にむかって言った。
「そっか、そうなんだ。ごめんね。」
城山は去っていった。
「津村くん、ありがとう。」
香純がお礼を言うと、
「なんなら課長にも言ってやろうか。」
津村は笑ってそう言った。
「ううん。いい。」
「有休じゃなくて、病欠にしたら、文句も出ないだろうに。」
「理由を書く欄があるでしょう。ここにいると、秘密を守ってくれるようで、内部の秘密は、バラしてもいいルールが通じるから。」
「胃炎とかって書いておけばいいんだよ。だってさ、人の秘密をバラすのも、嘘をつくのも俺は同罪だと思うけどね。変な噂を流すのも。」
課長が昼休みから戻ってくると、2人は何事もなかったようにパソコンを見つめた。
「月代くん、昼一で会議、準備できてる?」
「午前中には机は並べてあります。」
「じゃあ、行こうか。津村も上に上がるぞ。」
「月代さん。」
夕方、澤山がやってきた。
「ちょっといい?」
澤山は香純を休憩室に連れてきた。ほんのりと香水の香りの漂う女子更衣室の奥にある休憩室は、仕事をサボるために時間を過ごしていても、男性職員は中に入ってこれない。上司のほとんどが男性職員の市役所では、それをうまく使ってやり過ごす人も一定程度いる。元々女はお喋りな生き物だ。雑談さえも話し込んで止まらなくなり、それも必要な情報交換だと言ってしまえば、男はそれ以上口を出せない。
ケラケラと笑い声が聞こえる休憩室の様子が気になり、苦言を呈した課長もいたが、前に立ちはだかる女子更衣室には、男達は足を踏み入れる事はできないのを知ってか、相変わらずここは憩いの場になっている。
男性の休憩室には、女の職員でもズカズカ入っていくことはできるのに、いくら平等と言ったって、みんな都合よく男と女を利用するんだ。
「城山くんとなんかあった?」
澤山が言った。その質問は、香純にとって想定外だった。自分はてっきり、係長会に出席しない事を責められると思っていたのに。
「何もないですよ。」
「益田くんがね、月代さんが会に来なくなったのは、城山の子を妊娠してるからじゃないかって。」
突然湧き上がった噂話しに、香純は思わず声に出して笑った。
「益田くん、見たらしいのよ。病院で暗い顔してる月代さんを。」
「違いますよ、澤山さん。私、筋腫があって、それに貧血なんですよ。病院にいたのは、その診察です。」
「えっ!なんだ。益田くんの早とちりね。おたくの課長も勘違いしてるみたいだし。産婦人科にいたら、どうしてこうも妊婦だって思うんだろう。それに、おめでたい事だから、噂を流してもいいと勘違いして。」
「面白いですね。その話し。」
「月代さん、じゃあ、どうして会にこないの?」
「私、苦手なんですよ。皆と違って意識と高くないし、どちからといえば、衝突しないように、人を避けて生きてる方ですから。」
「クラスに1人は居るのよね。皆と同じタイミングで手を上げる人って。でもね、目立たない様にしてても、たまには意見聞かせろよって、いつかは前に出されるから。」
「無難な意見を言える練習をしておきます。」
香純がホッとしたような顔をすると、
「ねぇ、月代さん。城山さんとは本当に何もないの?」
澤山が聞いた。
「ないですよ。」
「じゃあ、今は誰もいないの?」
「ずっと誰もいません。」
「月代さんは平均点の答えね。男性が求めるのって、そういう普通の子なんだろうな。弱すぎても面倒くさいし、強すぎても一緒に居づらいし。」
「澤山さんは結婚されているんですよね。」
「そう。うちの旦那は建設の部長。昔はね、部長の妻は家庭に入るものって暗黙のルールがあったんだけど、私はそのルールを破ったの。ていうか、旦那とは再婚同士なんだけど。そういう意味でも、世間的にはルール違反だね。」
「女が家に入るっていうのは、ルールじゃなくて、都合ですよね。」
「そうね、月代さんの言う通り。私達、これから仲良くやりましょう。」
香純が席に戻ると同時に、終業のチャイムがなった。
机に溜まった書類を見ると、香純はスマホを確認した。
“先、帰ってるから。”
津村からのラインがあった。
“わかった。”
そう返信して机にむかっていると、周りがいなくなったのを見計らって、城山がやってきた。
「さっきはごめんね。」
「いえ、私こそこそすみません。」
「まさか、津村に注意されるとは思わなかったよ。」
「城山さん、誰にも言ってませんか?」
「月代さんと、津村の事?」
「そうです。」
「言ってないよ。まぁ、そのうちバレると思うけど。」
「ここじゃあ、私が城山の子供を妊娠した話しになってるみたいなんです。津村くんも噂の事、知ってたのかな。」
「俺はね、月代さんと付き合ってるって、益田にそう言ったんだ。いつだったか、益田が偶然、病院で月代さんを見掛けたって言ってきたから、それ以上はあんまり踏み込むなよって、俺が言っただけ。」
「そんな言い方をしたら、疑うじゃないですか。」
「別にそう思わせておけばいいだろう。」
「困ります。」
「で、月代さんの津村の事、本気なの?」
「仕事します。少しでも早く帰りたいから。」
「送っていくよ。終わったら総務に来て。」
「行きませんし、終わったら迎えに来てもらう約束です。」
城山はムキになる香純をクスクス笑い、席を立った。
「待ってるから。」
21時。
まだ仕事は終わらなかったけれど、香純はパソコンを閉じて、玄関に向かった。今日はお腹が空いて仕方なかった。
「迎えにくるなんて嘘だろう。」
横断歩道で歩いていた香純の前に、城山の車が停まった。
「乗って。」
城山は窓を開けて、香純に乗るように指示をしているが、香純は首を振って歩き始めた。
人気のない通りまで歩いてくると、城山は車から降りて、香純を助手席に乗せた。
「けっこう頑固だね。」
「城山さんこそ、断ってるのに、しつこいですよ。」
「そう言えばあの夜のお礼、まだなんだけど。」
「それは、今度、何か用意します。」
「わざわざ用意なんかしなくても、少し話しを聞いてくれるだけでいいからさ。」
「何の話しですか?」
「よし、交渉成立だね。津村に遅くなるって連絡しておけよ。」
夕食時のピークが過ぎたファミレスには、いくつかの若者のグループがまばらに座っていた。
「何食べる?」
呑気にメニューを広げた城山に、
「城山さんが決めてください。今日は何でも奢りますから。」
香純はそう言って水を飲んだ。
「津村が何か作って待ってるの?」
「いいえ、待ってる時もあるし、先に食べてる時もあります。実家に帰ってる時もあるし、いろいろです。」
「じゃあ、玄関を開けるまで、津村がいるかどうかはわからないってわけ?」
「そうですね。」
「それって身勝手だと思わない?月代さんは都合のいい存在なんだよ。」
「それを望んだのは私ですから。」
「今日はどうかな?」
「わかりません。もし待っていたら、こうして城山さんと会っていた事はきちんと話すつもりです。」
「月代さんは真面目だね~。バレなきゃ何をしたっていいだろう。」
「バレますよ。こんな小さな町ですから。それに、市役所っていう小さな集団は、そんな話しが大好きじゃないですか。」
「噂の事、そうとう怒っているんだね。」
「病院は変えるつもりです。」
「そこまでしなくても…。」
「わざわざ市立病院を避けたのに、大きな病院は誰に見られているかわかりません。迂闊でした。」
「そんなに必死で隠さなくてもいいんじゃない?秘密をバラす方が悪いんだし。」
「悪いですよ。悪いですけど、ここだけの話しが市役所の中では当たり前になっているんです。」
「俺達がこうして2人で会っていることも、そのうち津村にバレるかもね。」
城山は運ばれてきたハンバーグを香純の前に置いた。同じものが自分の前に運ばれてくると、
「食べようか。」
そう言って水を飲んだ。
いつもよりも早いペースで口に運んでいく香純を見て、
「そんなにお腹が空いていたの?」
城山が言った。
「話してませんでしたか?少し前まで、味がわからなくて、うまく飲み込めなかったんです。」
「そうだったんだ。今は大丈夫なの?」
「貧血が改善したら、治まるみたいです。」
「月代さんの貧血って、そんなに酷かったんだね。津村は知ってるの?」
「知ってますよ。」
「子供の事は、納得してるの?」
「話しはしています。だけど、その先の話しは、深く考えていません。今はまだ、手術という話しにもなっていないし。」
「どれくらいになったら手術が必要なの?」
「痛みと貧血しだいかな。」
「早く結婚してしまえよ。それとも、俺と結婚しようか。どうせ、名ばかりの制度なんだからさ。」
「そんな簡単な話しじゃないです。」
「簡単な約束事だろう。そんな約束事だって、破ってしまっても許し合えばいいんだし。」
「女は名前も変わりますよ。」
「あぁ、月代って名前はそのままでいたいよね。キレイな名前だからね。月代さんの名前見た時、きっと儚げな美人なんだろうなって思ったんだけど、初めて見た時は、少し近寄りがたい雰囲気があったよ。話してみると、わりとしっかりしていたけど、そのせいなのかな、この人は本当に人を避けてるんだって、余計にそう思った。」
「この名前、ずっと嫌でした。」
「じゃあ、さっさと変えてしまいなよ。」
「そういう問題じゃなくて、お互いいろいろ捨てるものもあるんです。憧れや好きだからっていう理由で、簡単に結婚なんてできません。」
香純のスマホがなっていた。津村からだった。
「ごめんなさい。」
香純が立ち上がって店の外へ行くと、
「迎えに行こうか。」
津村の声が聞こえた。
「ううん。大丈夫。もうすぐ帰るから。」