5章 曇天
「津村くん。」
津村の背中は、怒りが満ち溢れているようだった。どれくらい前から、ここで自分を待っていて、何の話しをしようとやってきたのか。
津村が待っていたと知っていたら、城山と2人で会ったりはしなかったのかと聞かれたら、それじゃあ、まるで城山をうまく利用しているだけになる。
城山に送ってもらったとはいえ、何もない会話だったのだから、責められる事は何もないはずなんだけど、やっぱりそういうのって、疑われてもしかたないや。
自分と津村の関係を知っていた城山には、うまく伝わったかどうかは別として、ちゃんと返事をした。これからは、津村の機嫌を損ねない様にしないと。
それにしても、たった1日、一緒に過ごしただけで、こんなにも束縛の強い男だなんて、津村はかなりのメンヘラなのかも。これはうまく言って離れないと、自分の時間が食べられていってしまいそうだ。
「ラインしたのに。」
津村が言った。
「あぁ、ごめん。」
「やっぱり合鍵作らないとダメだな。」
「えっ?」
「外で待ってるのは退屈なんだよ。」
「それだけ?」
香純は呆気に取られた。
「なんだよ、もっと責めてほしいのか?」
「そういうわけじゃないけど。」
「月代には、月代の付き合いがあるんだろう。俺が1番で、後はその他って事にしてくれるなら、別に誰といようとこだわらないけど。」
「自分は?津村くんもそういう人がいるの?私の方がその他になっても別にいいんだけど。」
「いるわけないだろう。それに、2番目って難しいんだぞ。月代みたいに不器用な奴には無理だろうな。」
「さっきの事、怒ってる?」
「いい気分はしないよ。だけど、選ぶのは月代だろう。俺だって、ほら、まだはっきりとした返事なんてもらってないんだし。勝手に来てるって言われれば、それまでなんだし。」
「ちゃんとした返事って、昨日1日中、ずっと一緒にいたじゃない。」
「もしかして、それが返事なのか?」
「嫌だったら、ちゃんと断っていたし。」
「月代と付き合うのって、なんか難しいな。」
「私、そういうの、うまく言えないから。言ったら最後だと思っちゃうし。」
「最後って、付き合うイコール結婚っていうことか?」
「違うよ。」
「相手の時間も、自分の時間も奪っていくって事になるから。」
「月代にとっては、好きな人と一緒にいる事って、相手に時間を奪われるって思うのか。」
「そうだね。ほら私、我儘だから。」
「俺は月代の時間を奪うつもりはないよ。」
「私も津村くんの時間を奪いたくないし。でもそれじゃあ、2人である意味ってあるのかな。」
「わかんないよ。だけど、理屈じゃないだろう。めちゃくちゃ燃えてる様で、実はぼんやりとした感情なんだし。」
津村の言葉に香純はクスッと笑った。
「城山さん、知ってたよ。ここに入ってくる津村くんを見て、きっとそうなんだろうなって思ったんだって。」
「城山さんが先にここに来てたんだ。だから慌てて電話した。月代、お前、30手前でモテキ到来だな。」
「モテ期?こんな欠陥品が?」
香純はテーブルに手をついた。
「なんか作ってるから、シャワー浴びてこいよ。」
「津村くんは?」
「俺は家で食べてきたし、寝るだけにここに来たから。」
「疲れたなぁ。このまま寝て、明日シャワーに入ろうかな。」
クタッとテーブルに折り畳むように顔をつけた香純は、目を閉じていた。
「じゃあ、このままベッドに運ぼうか。俺はそれでもいいんだけど。」
津村は香純の首筋に吸い付いた。
「やめてよ。後が残るじゃない。」
起き上がった香純の顔を両手で包んだ津村は、キスをしようと香純に近づいた。
「ごめん。やっぱりシャワー浴びてくる。」
香純はそう言って浴室へ向かった。
浴室から出てくると、ほうれん草の入ったパスタが用意されていた。
「どうせ味なんてわかんないんだから、レバーでも食べるか?」
「味はわからなくても、匂いで味の想像がつくから。レバーはどうしたって苦手。」
香純はお皿の前で、いただきますと手を合わせた。
「美味しいだなんて、言わなくてもいいぞ。」
少しだけ塩気を感じるパスタを口に頬張ると、津村の優しさに涙が溢れた。
「そんなに不味かったか?」
人前で泣くなんて、恥ずかしい事だと思えば思うほど、喉から込み上げる気持ちが涙に変わる。
「月代?」
「ごめん。ちゃんと病院に行ってくる。味がわからないって、すごく辛いから。」
女医がいる産婦人科の予約が取れた次の週の木曜日。受付でごった返すロビーで、高校の同級生だったアヤカと会った。
「香純、どっか悪いの?」
アヤカはそう言うと、膨らんだお腹を愛おしそうに撫でた。
「いつ生まれるの?」
「8月の末。この子は3人目。」
「そう。おめでとう。」
自分はけしておめでたくない話しを抱えてここへやってきたのに、さっきからベッタリと離れないとアヤカに、心の中で何度もため息をついていた。
採血をする様に言われると、アヤカから少し離れる事ができた。香純は売店に寄り、お茶を選んでいた。
「月代。」
名前を呼ばれて振り返ると、美容師だった同級生、山岡がカゴを抱えていた。
「さっき、松岡にも会ってさあ。皆同級生になるんだなって話してたところ。」
「生まれたの?」
「昨日の夜中。女の子だよ。松岡のところも女の子みたいだな。月代は?」
「私は、そうじゃなくて…。」
「そっか、まだ、籍入れてないのか?地元の連中には内緒にいてくおくよ。」
香純は大きな病院だからと、ここの産婦人科を選んでしまった自分に後悔をしていた。地元にある病院の産婦人科は、医師不足で分娩を休止していた。少し時間はかかるけれど、地元の妊婦さん達は、大きなこの病院で産むことが通例となっていた。
アヤカがいないことを願って産婦人科に戻ると、すぐに自分の名前が呼ばれた。
症状を聞かれた後、診察台へと案内されると、下着を脱いでバスタオルで隠したはずの下半身が、椅子の上昇と回転と共に、恥ずかしいくらいに露わに開かれた。
「生理痛がひどいのよね。」
「はい。」
「出血もけっこうある?」
「あります。」
内診をされている気持ち悪い感覚から逃げるように、香純は目をギュッと閉じてた。
「がん検診もしておくからね。」
再び診察室に戻った香純に、女医は何枚かのエコー写真を見せた。空っぽの子宮には、説明されてもよくわからない筋腫が2つあるそうだ。
「ひとつは少し大きいけど、これはもう少し様子を見る事として、もう一つは子宮の入り口の近くにあるからね。症状が辛いのはこれかもね。お薬飲んでみましょうか。あと、貧血もけっこうあるから、それも薬を出しますね。」
パソコンを見ていた女医は、
「子宮を残すようにしたいから、これから少し通ってね。今日は貧血の注射を受けていって。薬よりも効果が早く出るから。月代さん、この数値でよく立っていられたわね。」
「あの、先生。味覚がないのは、気持ちの方ですか?」
「それも貧血でも出る症状よ。メンタルの方でも診察を受けたいなら、お手紙を描くけど、どうする?精神の方は手紙なしの初心なら1年は待つことになるからね。」
「そちらはいいです。」
失恋した事で味覚が無くなったと思っていたけれど、それが貧血からくる症状だと知って、香純は少しホッとした。自分はそんなに弱い人間なんじゃないと確信を得ると、軽くなった心が、スッと立ち上がらせようとした。
「ひとつ言っておくけど、子供がほしいなら早い方がいいわね。パートナーにちゃんと伝えて。」
現実に連れ戻した女医の言葉に、歪んで見える床に踏ん張って足をつけるように、香純は診察室の扉をギュッと握った。
待合室にはうるさいアヤカはいなかった。次に来る時は、曜日を変えよう。香純はそう思い、処置室へと向かった。
「どうだった?」
夕飯の支度をしていると、津村が帰ってきた。
「薬で様子をみようだって。」
「それだけか?」
「うん。」
津村は何かを考えているようだったが、香純はそれ以上、その話しをしなかった。
「何作ってんだ?」
「オムライス。」
いつもよりも黙々と食べて香純に、
「疲れたのか?」
津村が聞いた。
「ううん。少し味がわかるようになったから。」
「そっちも薬が出たのか?」
「これも貧血の症状なんだって。今日は注射をしてもらったから、味がわかる。」
「そっか。それは良かった。じゃあ土曜日、どっかに出掛けないか。仕事も一段落しただろう。」
「そうだね。また競馬場でも行く?」
「今度は泊まりだよ。泊まりでどっかに行こうって言ってんの。」
「だって、今から宿なんて取れる?」
「取れるって。こんな時期外れ。それに、月代と少しここを離れたくってさ。」
「そうだね。1人なら行きにくいけど、2人なら遠くに行きやすい。」
「まだ、寝ないのか。」
ぼんやりとテレビを見ていた香純を、津村がベッドに誘った。
「ここを離れると時は、課長に届け出を出さないと。同じ場所を書いたら怪しまれるから、別々の場所にしないとね。」
「災害が起きた時の事か?」
「うん。前の課にいた時、すぐに来なかった人がいて、けっこう責められたから。」
「そっか。」
津村はテレビを消すと、香純をベッドまで引きずり上げた。そして、香純の胸に顔を埋めたあと、香純の唇に自分の唇を重ねた。
聞きたい事がたくさんあったはずなのに、言えない言葉が香純の体を触る事で答えを探している。
「津村くん?」
「何?」
見つめ合った2人の空間には、モヤモヤとした空気が漂っている。
「妊娠したら、責任取って。」
香純がそう言って少し笑うと、津村も少し微笑んだ。