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4章 残雪

 昨日降った暖かい雨は、最後まで残っていた雪を、きっと隅々まで洗い流してくれているのだろう。相変わらず、降り続いている雨のその先を、香純はずっと眺めていた。


「起きてたのか。」

 窓を見ていた香純の隣りに津村がやってきた。

「その格好じゃあ、寒いと思うけど。」

 Tシャツにパンツという姿でベッドから出てきた津村に香純が言った。

「ストーブつけるね。」

 香純はストーブの前にしゃがんだ。

「月代の寒がりは、貧血のせいか?」

「そうかもね。」

 隣りでしゃがんだ津村は、香純の背中に手をおいた。

「なぁ、ちゃんと病院に行けよ。なんなら俺がついて行ってもいいぞ。」

「なんでよ。」

「月代見てるとさ、なんだか辛くて。」

「仕事中、そんな嫌な感じを出してた?」

「それはないよ。仕事中はそんな素振りも見せないし。」

「じゃあ、どうして辛いってわかるの?」

「こういう事があるから、男を遠ざけてるのかなって思ってさ。」

「それはどうかな。」

「俺は月代の全部を受け止めるから、一緒に病院に行かないか。」

「これは私の事なの。大丈夫。」


 朝ごはんを作ろうと思って立ち上がると、立ち眩みがして目を閉じた。

「ほら。こういう状態でよく仕事に来てるよな。」

 香純を支えた津村は、心配そうに香純の顔を覗き込んだ。

「ごめん。いつもはちゃんと気をつけているんだけど、津村くんがいるから少し甘えたかも。」

 香純はそう言って津村から離れてキッチンへむかった。

「パンでもいい?」

「俺も手伝うよ。」

 香純の隣りに立った津村に、

「さっきからその格好で、おかしいよ。早く服着てくれない。それに、こっちはたいして事でもないから、そこに座ってて。」

 香純はそう言うと、冷蔵庫の中から牛乳を出した。

「津村くんも飲む?」

「飲むよ。」

 牛乳を入れたコップが、テーブルにひとつ置かれた。

「月代の分は?」

「あるよ。私はこっちで飲むから。」

「そっか、なんか腹に入れないと、立ってたらふらつくってわけか。」  

 

 テーブルに並べられた朝食を見て、津村は不思議そうに席についた。

「月代。」

「何?」

「毎日こんなにきちんと料理をしてんのかよ。」

「ううん。今日は特別。」

「これから毎日、食べにきてやろうか。」

「それじゃあ。津村くんのお母さんの楽しみがなくなるよ。ほら、食べて。」

 休みなく食べていく津村の前で、飲みかけの牛乳をタラタラと飲んでいる香純は、さっきからずっと窓を見ていた。

「食べないのか。」

「うん。」

「朝はね、特に味がしないの。」

 香純はそう言うと、また窓を見た。

「一人で食べるのって、けっこう寂しいんだぞ。」

「そうだね、わかってる。」

「月代も食べろよ。味はわからなくても、腹は減るだろう?」

「津村くんのお母さんって、きっと優しい人なんだろうね。津村くんも優しいから。」

 香純はそう言ってパンの耳を少しかじった。

「月代の家族は?」

「うちはね、父親も母親も普通だよ。父親は地元の企業に勤めてて、母親はスーパーでパート。姉は結婚して子供もいるし、弟は去年教師になった。」

「幸せな家庭じゃないか。」

「だからね、自分にはそれができないってわかると、顔を合わせづらくなって、しばらく連絡もしてないの。」

「家族なんだし、心配してるんじゃないのか?」

「家族って、職場よりも居心地が悪いのかも。繋がりが途切れない分、一度こじれると、距離を取るのが難しい。」

「月代はいろいろ期待されてたんじゃないのか?」

「そんな事ないと思うけど。」

「じゃあ、お前が勝手に背負ってきたんだな。」

「そういう事なのかなぁ。」

「お前が食べないなら、俺が食べる。」

 津村はそう言って香純の分の朝食を食べ始めた。

 久しぶりに職場へは行かず、ダラダラと過ごした休日なのに、津村が近くにいた事で、仕事以上に声を出した。夕方、そろそろ家に戻ると言って津村がいなくなると、床に沈んだ本当の自分を舞い上がらせようと、小雨の降るのもお構いなしに、香純は窓を全部開けた。

 津村に気を使っていたわけでもないし、自分を隠していたわけでもない。だけど、本当の自分は、こんな事で楽しんではいけないと、笑い掛けた自分の肩を叩いている。

 わかってるよ。

 私はいつも人より多くのものを望んではいないし、どちらかと言えば、孤独とか後悔とか、そんなネガティブが言葉の方が好きだし、安心できる。

 楽しいとか嬉しいとか、そうやって笑ってしまったら、ずっと保ってきたバランスが崩れてしまうから。


 月曜日の昼休み。

 香純がゆで卵の殻を剥いていると、城山がやってきた。

「この前はご馳走様でした。」

 香純が慌てて立ち上がると、津村は香純の腕を掴んだ。

「座っていいから。」

 城山がそう言ったが、香純は立ったまま話しを聞いた。

「今度の係長会は来月だから。グループラインに誘ったんだけど、ぜんぜん承認されないから、嫌われたかなって思ってて。」

 香純はスマホを手に取ると、

「ごめんなさい。ちゃんと確認します。」

 そう言って、チラッと津村の方を見た。

 城山との話しを聞いているのかいないのか、津村はパソコンを見ながらお弁当を食べている。

「月代さん、後でラインする。」

 城山はそう言うと、その場を去っていった。

“今日は残業?”

 すぐに城山からラインがきた。

“残業です。”

“じゃあ、終わるまで待ってる。仕事が終わったら、総務にきて。”

 ラインを覗き込んだ津村は、

「今日は俺も残業だ。」

 そう言って、香純のゆで卵を食べた。

「あっ、ちょっと待って、それ。」

 香純がそう言うと、

「母ちゃんに頼んだよ。これ、食べろよ。」

 津村はタッパーを香純に渡した。

「責任とれよ。母ちゃんに頼んだら、大量に作っちゃったから。」

 津村から受け取ったタッパーには6つの味付け玉子が入っていた。

「津村くんも食べよう。たくさんあるよ。」

「ダメだ。2人で食べたら怪しまれるだろう。職場では、上司と部下のままでいろ。」

“今日は用事があります。”

 香純は城山にラインを返すと、醤油の香りがする玉子に口をつけた。

 きっと、中まで味が滲みていて、美味しい味付け玉子なんだろう。少しだけわかる薄い塩味が、香純の口の中に広がった。


 20時半。

 残業を終えてパソコンを閉じると、隣りにいた津村もパソコンを閉じた。

「終わったの?」

「ああ。」

「そう言えば、契約書ってみんな済んでる?」

「上村さんの分はまだ見てないな。」

「上村さんが担当してたのって何?」

「それは月代の方が知ってるだろう。」

「そっか。」

 香純は机の中から業務分担表を出した。

「先週、業者から電話来てたのはこれか。」

「上村さん、去年も忘れてて係長が慌てて作ってたんだ。」

「津村くん、先に帰ってて。これから急いで作るから。」

「そんなの明日、上村さんにやらせればいいだろう。そうやってみんなで助けるから、あの人、ぜんぜん仕事を覚えないよ。」

「ダメだよ。上村さんは明日から有休取ってるし。」

 香純は閉じていたパソコンの電源をつけた。

「月代、俺、帰るわ。」

「うん。お疲れ様。」


 日付が変わる頃、フロアの電気を消した香純は、真っ暗な廊下を静かに歩いていた。

 なんとか仕事を終わらせた安堵感は、空腹のはずのを心を満たしていた。

 玄関を出て、コツコツと音がなるアスファルトを見つめると、昔読んだ[セメント樽の中の手紙]という話しを思い出した。

 石を砕くクラッシャーの中に吸い込まれていく恋人の断末魔は、抜け出す事のできない階級の嘆きのようだ。自分踏みつけている冷たいアスファルトには、そんな最後の言葉が至る所に埋まっている。

「月代さん。」

 城山が後を追ってきた。

「こんなに遅くまでいて、用事なんて嘘でしょう?」

 津村の事は、城山に伝えるつもりはないけれど、城山への返事はきちんとしなければならない。

「城山さん。」

「何?」

「この前の返事、」

「あぁ、あれね。月代さん、津村と付き合っているんでしょう?土曜日、月代さんの家に津村が入っていくところを偶然見ちゃってさぁ。」

「それ、誰かに言いましたか?」

「言ってないよ。月代さんに本当かどうか確かめたくて。」

「ごめんなさい。そういう女です。」

「謝る事はないよ。月代さん、もっとうまくやればいいだろう。お互い都合よく利用すればいいんだし。」

「そういうのって、どうかな。」

「送って行くよ。こんなに遅い時間なんだから、津村も許してくれるだろう。」

 

 城山の車に乗った香純は、雨に濡れたアスファルトに映る街頭の明かりを見ていた。ゆらゆらと揺れる光りは、宙ぶらりんの自分を笑っているようだった。

「俺なら、先に帰ったりはしないけど。」

「津村くんの事ですか?」

「そう。彼女が一人で残業してたら、待ってるとか迎えに来るとかするべきだと思うけどな。」

「大事な仕事を、忘れてたのは私ですから。」

「それ、本当?月代さんは部下を庇っているんじゃないの?」

「違います。私が気づかなかっただけです。」

 城山は全てを知っているかのように少し笑った。

「津村の方があの課に長くいるんだから、少し先回りしてもいいんだけどな。そういう気遣いなんだよ、あいつに足りないものは。」

「津村くんはたくさん業務を抱えているから、仕方ないんだと思います。いざという時には、助けてくれるし。」

「助けてくれる?あいつが?」

「そうですよ。」

「月代さん、そうやって津村を持ち上げる度に、あいつを傷つけてるのがわからない?」

「そうかな。」

「月代さんは無意識に、津村を下に見てるんだと思うけど。」

「そうですか、そんなつもりはないんですけど。」

 困った表情をして俯いた香純に、

「泣いちゃえいいじゃん。大概の男は、女に泣かれると放っておけないんだし。」

 城山が言った。

「私にはできません。女とか、男とか、そういうのって面倒くさいし、結局自分をよく見せたいために、皆ズルいんですよ。」

「俺は、そういう月代さんが好きなんだけどな。」

「城山さんは奇特な人ですね。幸せにはなりたくないんですか?」

「幸せなんて求めるから辛くなるんだよ。そういう風に、自分と同じ価値観を持ってる女性って、月代さんが初めてなんだ。やっと会えたって、俺は思ってる。」

「困りました。私は幸せになりたいって思い始めたから。」

「ねぇ、俺が津村よりも先に家に行っていたら、違う返事をくれたかな。」

「それはどうかわかりません。」

 香純のアパートの前に着くと、津村の車が停まっていた。

「月代、そういう事か。」

 香純の肩を掴んだ津村は、香純から家の鍵を奪うと、勝手に部屋に入って行った。

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