3章 梅雨
朝から降り続いている冷たい雨は、水を吸い込めないアスファルトが限界だと悲鳴を上げて、道路にいくつもの水溜りを作っている。その上にポツポツと集まってきた雨粒は、いつの間にか大きくて、波ができるかと思うほどの土砂降りになった。
「月代さん、正面にタクシー停めてあるから。」
金曜日の夕方。
城山は香純を呼びに来た。
「はじめまして。これからよろしくね。」
城山の隣りには、女性ともう1人の男性がいる。
「はじめまして。」
香純がぎこちなく挨拶すると、
「こっちは保健の澤山、こっちは水道の益田。」
城山は2人を紹介した。
澤山ひかるは香純の腕を組むと、
「月代さんが仲間になってくれて本当に良かった。」
そう言って歩き出した。
物腰が柔らかくて、誰にでも気を配れる印象の澤山は、少し見ただけでも、この人はきっと仕事ができるんだろうな、という雰囲気がある。
城山と楽しそうに話す益田元も、テキパキと仕事をこなし、若手の中では一目置かれている存在なんだろう。
そんな中にひょっこり入り込んだ間抜けな自分は、やっぱり居心地が悪かった。
店に着くと、城山は香純を隣りに呼んだ。いつの間にか真ん中の席に座ってしまった香純は、話した事もない人に囲まれて、知らず知らずのうちに城山の様子ばかり見ていた。さっきまで一緒だったはずの澤山は、益田と少し離れた席に座っていた。
「月代さんの課長は、飯嶋さんだっけ?」
近くにいた男性が香純に聞いた。
「そうです。」
「あの人、めっちゃ仕事が細かいんだよ。チクチク嫌みをいうし。」
「そうそう、どんな人があの人の下についても、褒められる事ってないんだよ。あの人の好みの仕事する奴って、会計にいる浅井さんだけだろう。印鑑が少し曲がっていただけでも呼びつけるあの女の人。」
「浅井さんは気分屋だからね。呼びつけて無言で伝票を返す時もあれば、タラタラと間違いを説明する時もある。そもそも、そんなに小さな事にこだわるもんかなって、けっこうドン引きするわ。」
「こだわるもんなんだよ。お役所だから。」
「俺、ここに来る前は民間にいたけど、役所の仕事ってやっぱりいろんな事が古臭いよ。客に出す手紙だって、読んでもわからない内容ばっかり。結局、どういう事だって、電話が掛ってくる。」
「言いたい事はわかるけど、税金もらって働いてるんだから、変な事はできないよ。」
「だったら、もう少し客の目線で仕事したらどうなんだ?わかりずらい文章と、一辺倒な説明で、自分達は規則でやってるって言い張るけど、誰のための仕事だよ。」
盛り上がる男性達の話しを、圧倒されて聞いていた香純のコップに、城山は静かにビールを注いだ。
「すみません、気が付かなくて。」
香純は、瓶ビールを城山から受け取ると、空になっている城山のコップにビールを注いだ。
「城山、もう少し酒を頼めよ。」
隣りの男性が笑いながら城山の肩を叩いている。
二次会に行こうと皆が立ち上がる頃には、仕事の話しから、誰と誰が別れただとか、新人の品定めが話題になっていた。話しが途切れないこの集団は、いつも明け方近くまで、飲んで語る流れなんだろう。
会話に入る事ができず、生気を吸い取られた様に薄っぺくなった香純は、二次会が始まってすぐに、城山にお金を渡して帰ろうとした。
「帰りは送っていくから、もう少しいいだろう。」
城山はそう言って引き留めたが、
「今日はちょっと、」
香純はおでこを押さえて、目眩がするというアピールをした。
「そっか、それなら仕方ないね。ここの分はいいから。」
城山はそう言って、香純が出したお金を香純に引っ込めた。
「タクシー呼ぼうか?」
「大丈夫です。そこの乗り場で拾いますから。」
「帰って早く寝るんだよ。」
「今日はありがとうございました。」
夏に向かっている風は、さっきまで聞こえていた興味のない話しを、少しずつ連れ去ってくれるようだった。
タクシー乗り場には行かず、そろそろ日付が変わろうとしている町の中を、香純は1人で歩いていた。目眩がするなんて嘘をついて、自分だってうまく女を利用しているじゃないか。まっ、私が女を利用する時は、男を捕まえたい理由からではなくて、面倒な時間から抜け出すためなんだけどね。
冷たくなった鼻の頭に両手をあてると、少しホッとして瞼が落ちそうになる。この辺から家までは30分以上かかる。香純は、ハァ~っとひとつ深い息を吐いた。
「月代、起きてるか。」
目覚ましかと思って手に取ったスマホから、声が聞こえる。
「ん?何?」
「昨日はそうとう飲んだのか?」
「えっ?」
「迎えに行くからすぐに支度しろ。」
香純は状況が飲み込めないまま、仕事へ行く準備をすると、玄関のチャイムがなった。
恐る恐る覗き窓を見ると、見慣れない男性がドアの前に立っている。
ドンドン!
ドアを叩く音が聞こえ、香純は怖くなり、スマホを探した。誰でもいいから助けを呼ぼうと震える手で電話を掛けようとした途端、津村から電話が掛かってきた。
「津村くん、助けて!」
「はぁ?月代、いいから玄関開けてくれよ。」
「えっ?」
香純はもう一度、覗き窓を覗くと、普段と違う格好で気が付かなかったけれど、そこ立っているのは津村だった。
玄関のドアを開けるなり、津村は香純の部屋へ入ってきた。
「寝ぼけてんのか、お前。」
「へっ?」
「俺の電話、誰と勘違いしたんだよ。それに、そんな格好をして、今日も仕事に行くつもりか?」
記憶を巻き戻しても、さっきの電話からの流れの説明がつかない。
「相変わらず、顔色悪いな。待ってるから、着替えて化粧してくれよ。」
津村はベッドに寝転んだ。
「ちょっと、津村くん…。」
「なんだよ。」
津村は不意に香純の手を引っ張り、バランスを崩した香純をベッドの上で捕まえた。
近くにいても、ひどい近眼のせいで、津村の顔の輪郭だけが見える。普段はよくマスクをしているから、どんな顔をしているのか、ひとつひとつのパーツを思い出そうと、ぼんやりと津村の口元を見つめた。
少しずつ津村の口元がはっきりと見えてきた思ったら、その唇は香純の視線から外れた。どこに行ったんだろう、そう思った瞬間、津村の唇の暖かい体温が、香純の唇に伝わってきた。
ほつれた糸の様に行き場を失くした自分の体は、どんなに起こしても起きない理性の事は諦めて、津村の求めるまま気持ちを受け入れた。
「妊娠したら、責任取るから。」
津村のその言葉を聞いた瞬間、眠っていた香純の理性が目を覚ました。
香純は上にいる津村から自分の体を避けて、起き上がった。
「嫌だよ。」
そう言って、脱がされた自分の服を手に取った。
「ごめん、月代。そういう意味じゃなくってさ。」
津村は香純の手を握った。
「津村くん、服着てよ。私も着替えるから。出掛けよう。外の空気を吸ったら、気持ちが膨らむかもしれないし。」
香純はクローゼットからパーカと少し長めのスカートを出した。
「化粧するから待ってて。そんなに時間はかからないから。」
そう言って洗面台に向かった香純を追いかけて、津村がやってきた。
「月代。」
「何?」
「城山さんとは、何もないのかよ。」
「あるわけないじゃない。」
「本当か?」
「本当。」
「じゃあ、俺と付き合えよ。」
香純と鏡越しで話していた津村は、香純の背中を抱きしめた。
「それって命令?」
香純は振り返って、津村の唇に手に持っていた口紅を塗ろうとした。
「何やってんだよ、お前。」
津村は香純の手首を握ると、唇を重ねた。香純の服の中にスルスルと入り込んできた津村の手を止めると、
「あと少しで終わるから。」
そう言って鏡に向かった。
津村の車に乗り込むと、
「どこに行きたい?」
津村が聞いた。
「朝早くきたくせに、何も考えてなかったの?」
「俺はただ、城山さんと出掛ける前になんとかしようと思っただけで…。」
津村の言葉に、
「何にもないよ。城山さんとも、津村くんとも。」
香純は少し遠くを見た。
「ねぇ、津村くん。競馬でも見に行こうか。」
「今日は雨だぞ。競馬なんてやってるのか?」
「やってるよ。雨が得意な馬だっているんだし。」
2人がついた競馬場は、地方競馬が行われている小さな競馬場だった。
雨の中、馬達がダートの地面を疾走る度に、泥まみれの水しぶきが上がる。
持っていた新聞誌は雨で文字が滲み、最終レースが終わって競馬場を後にした21時には、2人の体はすっかりと冷えていた。
「津村くん、ラーメンでも食べて行こうよ。」
香純が言った。
「月代、お前の家でなんか作ってくれよ。俺が勝った分、投資するからさ。」
「それは、私に賭けるって事?」
「そうなるかな。」
「じゃあ、うまく期待を外してあげる。」
「どういう意味だよ、それ。」
香純のアパートに戻ってくると、さっきまで見ていた競馬の話しをしながら、香純はキッチンで料理を作っていた。
津村が出来上がったラーメンのスープを一口飲むと
「お前、天才かよ。」
そう言って麺を大口で啜った。
「こんなに料理が上手なのに、なんで昼はゆで卵だけなんだ?」
「津村くん、今日は泊まっていく?」
「いいのか。」
「最初からそのつもりだったくせに。」
「バレてたか。」
「そのカバンに入ってるのは着替えでしょう。」
香純が津村のカバン指差すと、津村は照れくさそうに笑った。
先にベッドで待っていた津村の隣りに体を並べた香純は、自分を包んだ津村の腕の中で目を閉じた。
「月代。」
「何?」
「さっきの話し、何で味がしなくなったんだよ。」
「それね、」
香純は目を開けて話し始めた。津村の優しい視線がさっきから自分の顔を見つめている。
「ずっと好きな人が人がいてね。その人が急にいなくなると、味も色も音もぜんぜんわからなくなった。大嫌いな仕事がそれを紛らわしてくれたけど、味覚はけっこう戻らないもんだね。」
香純はそう言って津村の胸に顔を埋めた。
「月代、付き合おうか。大切にするからさ。」
「そういうの、求めてない。」
「なんでだよ。そうやってくっついてくるから、好きなのかなって勘違いするだろう。」
「私はね、都合のいい存在でもいいんだよ。一緒にいても、その先なんて寂しい事ばかりだし。」
津村は香純の下腹を触った。
「俺は月代がいいんだ。」
「今はね、そう言えるんだよ。そのうち友達の年賀状が家族の笑顔ばかりになると、本当に寂しくて堪らなくなるから。」
津村が香純の顎を上にむけると、香純は津村の顔をを見た。
「こんな関係だって誰にも言わないし、時々こうしてここに来てくれたら、私はそれで十分だから。津村くんが本当に好きな人ができたら、精一杯応援する。」
「月代…。」
「私、面倒くさくなんかないよ。どうせ子供なんてできないんだし、こう見えてもね、男の人と一緒に寝るのは初めてじゃないの。平均点よりも少し上でしょう。」
津村は香純の言葉を吸い取る様にキスをすると、香純の体に触れた。津村の手のぬくもりを感じる度に、退屈していた細胞達がもう一回と繰り返す様に、津村の手を求めている。
どうして。
ずっと続く優しさなんてないと知っていても、もしかしたら自分だけは特別に選ばれた人間なんじゃないかって勘違いしてしまう。
津村の体が離れた後、私はうまく笑えるだろうか。