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2章 夏にむかう風

 まだ冷たい春の風は、時々暖かい太陽の光りを連れてきて、心配する事なんて何もないんだと、背中を撫でる。気まぐれな優しさが永遠に続くと勘違いして向かった職場は、やっぱりひんやりとしていて、指先を迷わせる。

  

 昼休み。

 城山が香純の元へやってきた。

「体調は良くなったかい?」

 城山は香純の肩に手を置いた。

「大丈夫です。昨日はありがとうございました。」

「月代さん、来週の金曜日に係長会があるんだけど、良かったら参加しない?会って言ったって、若手の連中が集まって愚痴をいうだけなんだけの飲み会なんだけど。」

 昨日、お世話になった城山には申し訳ないけれど、たいして話した事もない人達と集まるなんて苦手だった。

「ごめんなさい。私はそういうの、いいです。」

 香純はその誘いを断った。

「そんな事言わないで。飲み会には澤山さんも来るんだよ。今年は月代さんが係長になって、女は自分だけじゃなくなったって、喜んでいるんだから。返事は参加でいいね。後で時間と場所、メールするから。」

 城山の話しを聞いていた津村は、

「いいよな。できる奴の集まりって感じがしてさ。」

 そう言って弁当を食べ終えた。

「津村くん、そう言えばあの人なんて名前なの?どこの課?」

「なんだ、知らなかったのかよ。総務課にいる城山さんだ。次の課長候補だって言われている。」

「ふ~ん。」

「昨日は、何時に帰ったんだ?」

「12時くらいかな。」

「ずいぶん、時間がかかったんだな。少しは部下に仕事を振れよ。」

「そうだね。今度からそうする。」

「もしかして、今日の昼って、それだけか?」

 ゆで卵を一つ鞄から出した香純は、ゆっくりと殻を剥き始めた。

「これくらいがちょうどいい。」 

 始まってもいない恋が終了してから、しばらくは何を食べても味がしなかったのに、コンビニのゆで卵についたほんのりとした塩気が、孤独という味覚を思い出させた。追いかけても叶う事ない恋だったのなら、夢を見ていた15年間は、なんて無意味な時間だったのだろう。

「少しはまともな料理でもしたらどうだ?」

「津村くんのお弁当は、彼女が作ってくれてるの?」

「バカ、母親だよ。」

「これからは自分で作ったら?」

「なんでだよ。母ちゃんの楽しみ取ったら可哀想だろう。」

「女が料理をするっていう固定観念から、少し離れてほしいんだけど。」

「お前、ひねくれてんな。だからずっと1人なんだろう。」

「1人でいて何か悪い法律でもあるの?」

 香純は散らばったゆで卵の殻をティッシュで包むと、それを捨てに行こうと立ち上がった。

 昨日ほど、ひどい目眩はしなかったが、急に立ち上がったせいか、少し体がふらついた。

「大丈夫か?」

「うん。」

 女だからと言われたくないくせに、女である事を忘れて欲しくないと、矛盾した思いが胸と背中を挟んでいる。


「ほら。」

 15時を過ぎた頃。津村は暖かいココアを香純に渡した。

「えっ?」

「顔色悪いぞ。なんか腹に入れないと、仕事の効率だって悪くなるんだし。」

「そうだね、ありがとう。」

 香純はココアの缶で手を温めた。

「貧血か?」

「たぶん。」

「ちゃんと病院に行けよ。」

「大丈夫。毎月の事だから。」

「女っては大変だな。」

「男だって大変でしょう。」

「俺さ、そういう事で休暇取る奴はわがままだって思ってたけど、月代を見てたら、帰って寝ればいいのにって、本気でそう思うわ。」

「そう?じゃあ、帰ろうかな。」

「そうしろよ。あとは俺がやっておくから。」

「それができたらねぇ。あの課長に、あの日だから休みたいなんて、言えないよ。」


 日曜日。

「月代さん。」

 仕事をしていた香純の隣りに、城山が座った。

「ここ、津村の席だっけ?」

「そうです。」

「やりにくい?同期の男よりも先に出世しちゃったら。」

「それは、どうかな。」

「月代さんは思わなくても、津村はけっこう意識してると思うぞ。」

「…。」

「髪、ずいぶん切ったんだね。」

「昨日、ばっさり。」

 彼がいなくなった美容院には、もう行くのをやめた。わりとすぐに予約が取れる店を探して、しばらく放っておいてもいいくらいに、長かった髪を短く切った。肩を通り抜ける風は、凍っている心に新鮮な空気を送り込んだ。寂しさの粒子をたくさん吸い込んだ夏にむかう風は、強がりを含んでいるわりに、とても心地よかった。

「金曜日、楽しみだな。」

「城山さん、私やっぱりそういうの苦手で。」

「月代さん、俺達は少しだけ責任ある立場になったんだよ。横の繋がりを持つってけっこう大切だし、いざという時には、きっと役に立つから。」

「そうでしょうか。」

「みんな月代さんの味方になってくれるよ。」

「…。」

「今日はまだ残るの?」

「もう少し。」

「じゃあ、仕事が終わったら総務においでよ。この後、一緒にご飯でも食べに行こうか。」

 城山の言葉に香純は顔の前で手を横に振った。

「月代さん、この前ベッドまで運んだんだから、お礼くらいしてよ。」

「そっか、そうでしたね。」

「じゃあ、待ってる。」

 城山はそう言って席を離れた。

 どうしよう。持ち合わせ、どれくらいあったかな。

 香純は財布の中を確認した。

 2人分なら、これくらいで大丈夫か。良かった。美容室に行くためにいくらか下ろしてきてたけど、カットだけだったから、そんなにかからなかった。

 香純はパソコンに向かい、急いで打ち込みを始めた。あんまり遅くなると、お店が限られてくるから、早く仕事を片付けてしまおう。


 16時。

 香純は書類を読んでいた城山の見える場所までやってきた。こっちと手招きをする城山に、香純は首を振って出入り口の近くで待っていた。

 身支度を終えた城山は、柱の陰に隠れていた香純の隣りにやってきた。

「入ってくればいいだろう。」

「ここはよその場所だから。」 

「月代さんは自席にいる事がほとんどだけど、けっこうみんなチョロチョロしてるんだよ。うちの課長は壁が低いから、わりといろんな人がお喋りにやってくる。おたくの課長も、よくここに来るよ。」

「そうなんですか。」

「そうだよ。あの人ってさぁ、すごく上手だと思うよ。」

「どうしてですか?」

「失敗は部下のせい。成功は自分の手柄。」  

 香純は城山の顔を見てクスッと笑った。

「私の事も愚痴ってますか?」

 城山は何も言わずニコリとした。

 

 居酒屋に着くと、食事だけして帰るくらいだと想像していたのに、城山は代行を呼んで、お酒を頼み始めた。

「城山さん、明日は仕事ですよ。」

 香純がそう言うと、

「少しくらいならいいだろう。」

 城山はメニューを香純に渡した。

「月代さんもなんか飲みなよ。お酒が入ったら、少しは溜まっているものを吐き出せるだろう。」

「周りは私のせいでストレスが溜まっているのに、自分の都合ばかり、優先させられませんから。」

 香純はそう言ってメニューを城山に返した。

 いくつかの料理が運ばれてきて、香純は黙々と食べていた。さっきからビールばかり飲んでいる城山に、

「食べないんですか?」

 香純はそう聞いた。

「食べるよ。」

 城山は食べ始めた。

「お酒は飲めないの?」

 城山が香純に聞いた。

「そんな事もないけど。」

「じゃあ、1杯くらい付き合ってよ。1人で飲むのってけっこう寂しいんだよ。」

「1杯だけです。」

 香純の返事を聞いて、城山は嬉しそうにビールを注文した。

「体調は大丈夫なの?」

「大丈夫です。」

「ちゃんと病院に行ったら?」

「う~ん、ちょっと。」

「怖がる年でもないだろう。いい大人なんだし。」

「いい大人だから、怖いんですよ。」

「ついて行こうか?」

 香純は思いっきり首を振った。

「男の人がくるところじゃないです。」

「なんだよ、それ。病院なんて、みんな普通に行くだろう。」

「城山さん、私が行くのは婦人科ですけど。」

「なんで?貧血なら内科なんじゃないの?」

「貧血になるには理由があるんです。2.3年前だったかな、あんまり辛くて病院に行ったら、これ以上貧血や痛みが改善しなければ、手術になるかもって言われました。」

「あぁ、そういう話し。」

「手術をすれば、やっと痛みから解放されるはずなのに、なんだかそれ以来、病院に行くのが怖くなって。」

 城山は少し考えたあと、

「ねぇ、手術って事は、…どうなるの?」  

 城山が言葉を選んで聞いているのがよくわかる。

「子供は産めないでしょうね。」

 香純は運ばれてきた瓶ビールを城山のコップに注いだ。

「月代さんはそれでもいいの?」

 城山が香純が持っている瓶ビールを代わりに持ち、香純のコップに静かにビールを注いだ。

「答えなんて簡単に出せませんよ。毎月その日が来る度に、自分が女であることを拒絶したくなるけど、いろいろ考えると、その先がけっこう怖いんです。諦めが悪いですね、私。」

「彼氏は?」

「いませんよ。いたら、もっと悩んでいますよ。」

 片思いだった同級生には、結局、気持ちを伝える事はしなかった。自分の状況をもしかしたらわかってくれるかもと願いつつも、こんな自分は、彼の期待する未来を壊してしまうようで、冗談を言って笑い合うたびに、好きだという気持ちを押し込めた。

「その事があって、彼氏を作らないとか?」

 城山はそう言ってビールを飲んだ。

「違います。こんな自分ですから…。」

 どうせ、城山には、自分の気持ちなんてわからない。

「月代さん、俺は家庭ってものにはあんまりいい思い出がないんだよ。結婚して自分に伸し掛かる責任は、未来を描けば描くほど重くなってくる。何となくそういう事から避けて生きていてもいい理由を、ずっと探しているのかもしれないね。良かったら、俺と…。」

「ん?」

 ビールが入ったコップに口をつけていた香純の目を細くなった。

「城山さん、少し酔っぱらってますか?」

「酔ってなんかいないよ。ねぇ、すぐに返事がほしいとは言わないから、ちょっと考えてみてよ。」

「城山さんが言ってる事って、事実婚って事?都合のいい関係でいるって事?」

「アハハ、それは違うよ。俺が言いたいのは、2人だけで生きていこうって話しだよ。」


 城山は3杯目のビールを飲み干すと、そろそろ出ようかと、会計に向かった。財布を出した香純の手を止めると、

「付き合ってもらったのはこっちだから。」

 城山はそう言って会計を済ませた。

「あの、私も出します。」

 香純はもう一度財布を出すと、

「俺にもプライドがあるんだよ。」

 城山は香純の財布を引っ込めた。

「男とか、女とかそういうのって一番嫌じゃないですか?」

「そうだね、そう思う。だけど、男とか女とか、うまく使えばいいじゃないか。」

 城山はそう言って笑った。

 タクシー乗り場まで歩いていた2人の後ろには、夏にむかう風が長く長く影を伸ばしていた。


 帰る方向が同じだからと、2人で乗り込んだタクシーの中で、

「さっきの話し、ちゃんと考えてみてよ。」

 城山が言った。

「…。」

 城山はそう言って先にタクシーを降りていった。

 

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