雨を駆ける
雨の中を走る馬は、土色の水しぶきをあげ、いつもよりも力強くゴールを駆け抜ける。
君が見たいと言ったこの景色は、どこを切り取っても灰色の空が広がる。
なぁ、そんなに強がるなよ。
体を冷やす空気の中に、自分を閉じ込めようとするな。
虹はそう簡単にはかからないんだ。
厚い雲が風に流れたら、濡れた鬣もいつの間にか渇いて、サラサラと音をたてる。
君の涙の雨が止んだら、今度はその景色を2人で見に行こう。
小学2年の夏だった。
双子の弟と、父親が亡くなった。
何日も前から、釣りに行こうと約束をしていたのに、俺は当日、熱を出して家で寝ていた。
布団の中で不貞腐れていた俺に、母親は泣きながら、
「優とお父さんが死んでしまったの。」
そう言った。
少しの間、父が残してくれた生命保険で暮らしていたが、そのうち母親は保育所の調理員として働き始めた。今すぐにでも、生活が困窮しているわけではなかったけれど、家にいると、至る所にある父親と亡き息子の思い出に、苦しめられるばかりだと母親は言っていた。
ぽっかりと空いた家族の隙間を、何度も埋めようとしたけれど、弟の代わりも、父親の代わりも自分にはできないとわかると、いつの間にか、母親にも距離を置くようになった。
俺は、地元の大学を卒業して、地元の市役所に就職した。
家から出て1人暮らしをする事もできたけれど、毎日当たり前のように用意されている母親の食事を食べる度に、1人で生きて行けるという自信がなくなっていった。
この歳で実家を離れられないなんて、マザコンと言われれば、そうなのかもしれないし、共依存と言われてもおかしくはない。
母親も俺も、大切なものを失った寂しさの鎖を、未だに断ち切る事ができないでいる。
家に連れてきた彼女だって何人かいた。
母親はその子に合わせて笑っていたけれど、どの子とも、付き合いはそれほど長くは続かなかった。
俺が市役所に入った日。
隣りの席に座った垢抜けない女の子の事が気になった。高校生かと見間違える幼い顔立ちなのに、人生を3回くらいやり直した様な深いため息をついて、何か言いたげに正面をむいていた。
「どこの課?」
俺は彼女にそう聞いた。
「子育て。そちらは?」
「俺は、産業。」
「いいなあ。窓口にお客さんが来なくて。」
彼女はそう言うと、スーツのポケットから飴を取り出した。
「食べる?」
「あぁ、もらおうかな。」
彼女は俺の掌の中に、飴をポトリと落とした。
「月代といいます、名前は?」
「津村。」
もう少し話してみたかったけれど、彼女はいつの間にかいなくなった。
俺が福祉に移動してから4年目の春。
月代は係長になって俺の隣りの席にやってきた。同期の奴でしかも女の月代に先に出世されてしまうと、そんなものなんてないと思っていたプライドに、少し火がついて燻った。
初めて会った時から8年も経っているのに、月代はあの時の同じ、垢抜けなくて幼い印象を受ける。たぶん、こういう文句も言わない都合の良い女が、面倒なポジションを任されるんだろう。ついてない奴だな。
案の定、月代は早い段階で仕事を抱え始めた。
「月代、あんまり仕事を独り占めすんなよ。」
俺がそう言うと、
「津村くんの方がたくさん仕事を持ってるよ。」
月代は言った。
「兵隊は俺なんだから、お前は命令だけすればいいだろう。」
「嫌だよ、命令なんて。」
「上がしっかりしてないと、下は仕事がやり辛いんだからな。」
「そうだけど…。」
月代が先に出世した事を、一番意識しているのは、俺の方か。
できないなんて言って甘えてくれたら、一気に立場は逆転するの。月代は、ぼんやりしてる様で、けっこう仕事はできる奴なのかも。
総務課にいる城山という係長が、月代の元へちょくちょくやって来る度に、俺は気持ちが落ち着かなかった。月代の事を意識していると感じたのは、城山が月代に話し掛けている、何回目かの事だった。
自分の気持ちを表に出さない月代は、城山の事をどう思っているのだろう。
休日のある日。
俺は月代のアパートに来ていた。その日、アパートの前の路肩には、城山の車が停まっていた。俺は慌てて車を降りて、月代のアパートのドアの前に向かった。
寝ぼけているのか、電話でおかしな事を言っていた月代は、案外すんなりと俺を中に入れた。
月代の体に始めた触れた時。
凍っているのかと思うくらい冷たい肌は、心の奥には誰の手も届かないように彼女を守っていた。
少しずつ、君を覆っているその氷を溶かすと、あと少しのところで見えてきた本当の月代は、自分の集めた寂しさの中で震えていた。
大切なものを突然失くした俺と、大切なものにうまく手を伸ばせない彼女は、空いている隙間がピッタリ重なった。
こんなに居心地のいい空間は今まで感じた事はなかった。
俺はこの先もずっと先も、月代といる空間で、叶わない夢を見ていたい、そう思っていた。
10月に入ってまもなく。
「津村、残業か?」
城山が俺の隣りに座った。
「残業です。」
「月代さんとは、会ってるのか?」
「いいえ、あいつなんか勘違いしてるみたいで、連絡も取れなくなりました。」
「こっちに仕事の報告にきた日の事だろう?」
「知ってたんですか?」
「なんとなく、こうなる予感がしてね。俺は駅にむかう彼女を待ち伏せしたんだ。お前の家の前からずっと。」
「予感がしたって、どういう事ですか?」
「別れたいと思っていたのは月代さんの方かもな。」
俺は城山の言葉に少しイラッとした。
「理由なんて思い当たりませんよ。ほんと、あいつの勘違いで。頑固だし、意地っ張りだから。」
「まぁ、月代さんの性格もあるだろうけど、彼女はずっと自分を責めてる。」
「それは、どうして?」
「月代さんは去年流産したんだ。思い当たる事があるだろう。近くにいたら、いろんな事も2人で乗り越えていけるのかもしれないけど、ここまで離れていると、話せなかったんだろうな。」
「城山さんはなんでそれを知っていたんですか?」
「病院に付き添ったのは、俺だから。たまたま出張で、月代さんと会った日の事だ。」
月代がこっちにきた日の夜の事や、言いかけてやめた作り笑いの月代が、チラチラと俺の目の前に浮かんでくる。
俺は立ち上がり、城山に謝った。どうしていいかわからない感情が沸き上がり、全てを知っている城山に謝る事で、月代が抱えている罪を軽くさせたかった。
「おい。なんで謝るんだよ。」
俺は頭を下げたまま、理由のわからない涙がこみ上げてくる。
「津村、もういいから。泣きたいのはこっちだよ。」
城山は俺を座らせた。
「城山さん、俺、何も知らなくて。」
「月代さんは、ずっと自分を責めている。味覚がなくなったのは、きっとそのせいだろうな。」
実家に帰った俺は、台所で探し物をしていた「な~に?お母さんのお城を荒らさないでよ。」
「母ちゃん、大きな入れ物ってあったよな。あのゆで卵を入れてくれたやつ。」
「ああ、あれ。」
母親はいとも簡単にそれを見つけた。
「これに、また卵入れてくれない?」
「いいけど、あんたの彼女は本当に卵ばっかりね。ニワトリでも飼ったら?」
「そっか、その手があったか。」
俺は職場で仲良くなった警備員のおじさんに頼んで、馬の鬣をもらう事にした。警備員のおじさんの実家は、牧場を経営してると聞いていたから。
「兄ちゃん、何色の馬がいいんだ。」
「白い馬です。」
「わかったよ。いい血統の馬の鬣を少しもらってくるよ。まぁ、どうせブラシについた毛なんて、すぐに捨ててしまうんだから、お安い御用だよ。報酬は、とらやのどら焼きでいいからな。」
指輪なんて持っていっても、月代はきっと受け取らない。彼女が好きなものを並べたら、また凍りかけた気持ちは溶けてくれるだろうか。
俺は月代のアパートにやってきた。
驚いた彼女に、
「誕生日、おめでとう。」
そう言った。