表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/13

雨を駆ける

 雨の中を走る馬は、土色の水しぶきをあげ、いつもよりも力強くゴールを駆け抜ける。

 君が見たいと言ったこの景色は、どこを切り取っても灰色の空が広がる。

 なぁ、そんなに強がるなよ。

 体を冷やす空気の中に、自分を閉じ込めようとするな。

 虹はそう簡単にはかからないんだ。

 厚い雲が風に流れたら、濡れた鬣もいつの間にか渇いて、サラサラと音をたてる。

 君の涙の雨が止んだら、今度はその景色を2人で見に行こう。 

 

 小学2年の夏だった。

 双子の弟と、父親が亡くなった。

 何日も前から、釣りに行こうと約束をしていたのに、俺は当日、熱を出して家で寝ていた。

 布団の中で不貞腐れていた俺に、母親は泣きながら、

ゆうとお父さんが死んでしまったの。」

 そう言った。

 少しの間、父が残してくれた生命保険で暮らしていたが、そのうち母親は保育所の調理員として働き始めた。今すぐにでも、生活が困窮しているわけではなかったけれど、家にいると、至る所にある父親と亡き息子の思い出に、苦しめられるばかりだと母親は言っていた。

 ぽっかりと空いた家族の隙間を、何度も埋めようとしたけれど、弟の代わりも、父親の代わりも自分にはできないとわかると、いつの間にか、母親にも距離を置くようになった。


 俺は、地元の大学を卒業して、地元の市役所に就職した。

 家から出て1人暮らしをする事もできたけれど、毎日当たり前のように用意されている母親の食事を食べる度に、1人で生きて行けるという自信がなくなっていった。

 この歳で実家を離れられないなんて、マザコンと言われれば、そうなのかもしれないし、共依存と言われてもおかしくはない。

 母親も俺も、大切なものを失った寂しさの鎖を、未だに断ち切る事ができないでいる。

  

 家に連れてきた彼女だって何人かいた。

 母親はその子に合わせて笑っていたけれど、どの子とも、付き合いはそれほど長くは続かなかった。

 

 俺が市役所に入った日。

 隣りの席に座った垢抜けない女の子の事が気になった。高校生かと見間違える幼い顔立ちなのに、人生を3回くらいやり直した様な深いため息をついて、何か言いたげに正面をむいていた。

「どこの課?」

 俺は彼女にそう聞いた。

「子育て。そちらは?」

「俺は、産業。」

「いいなあ。窓口にお客さんが来なくて。」

 彼女はそう言うと、スーツのポケットから飴を取り出した。

「食べる?」

「あぁ、もらおうかな。」

 彼女は俺の掌の中に、飴をポトリと落とした。

「月代といいます、名前は?」  

「津村。」

 もう少し話してみたかったけれど、彼女はいつの間にかいなくなった。


 俺が福祉に移動してから4年目の春。

 月代は係長になって俺の隣りの席にやってきた。同期の奴でしかも女の月代に先に出世されてしまうと、そんなものなんてないと思っていたプライドに、少し火がついて燻った。

 初めて会った時から8年も経っているのに、月代はあの時の同じ、垢抜けなくて幼い印象を受ける。たぶん、こういう文句も言わない都合の良い女が、面倒なポジションを任されるんだろう。ついてない奴だな。

 案の定、月代は早い段階で仕事を抱え始めた。

「月代、あんまり仕事を独り占めすんなよ。」

 俺がそう言うと、

「津村くんの方がたくさん仕事を持ってるよ。」

 月代は言った。

「兵隊は俺なんだから、お前は命令だけすればいいだろう。」

「嫌だよ、命令なんて。」

「上がしっかりしてないと、下は仕事がやり辛いんだからな。」 

「そうだけど…。」 

 月代が先に出世した事を、一番意識しているのは、俺の方か。

 できないなんて言って甘えてくれたら、一気に立場は逆転するの。月代は、ぼんやりしてる様で、けっこう仕事はできる奴なのかも。 


 総務課にいる城山という係長が、月代の元へちょくちょくやって来る度に、俺は気持ちが落ち着かなかった。月代の事を意識していると感じたのは、城山が月代に話し掛けている、何回目かの事だった。

 自分の気持ちを表に出さない月代は、城山の事をどう思っているのだろう。

 休日のある日。

 俺は月代のアパートに来ていた。その日、アパートの前の路肩には、城山の車が停まっていた。俺は慌てて車を降りて、月代のアパートのドアの前に向かった。

 寝ぼけているのか、電話でおかしな事を言っていた月代は、案外すんなりと俺を中に入れた。


 月代の体に始めた触れた時。

 凍っているのかと思うくらい冷たい肌は、心の奥には誰の手も届かないように彼女を守っていた。

 少しずつ、君を覆っているその氷を溶かすと、あと少しのところで見えてきた本当の月代は、自分の集めた寂しさの中で震えていた。

 大切なものを突然失くした俺と、大切なものにうまく手を伸ばせない彼女は、空いている隙間がピッタリ重なった。

 こんなに居心地のいい空間は今まで感じた事はなかった。

 俺はこの先もずっと先も、月代といる空間で、叶わない夢を見ていたい、そう思っていた。


 10月に入ってまもなく。

「津村、残業か?」

 城山が俺の隣りに座った。

「残業です。」

「月代さんとは、会ってるのか?」

「いいえ、あいつなんか勘違いしてるみたいで、連絡も取れなくなりました。」

「こっちに仕事の報告にきた日の事だろう?」

「知ってたんですか?」

「なんとなく、こうなる予感がしてね。俺は駅にむかう彼女を待ち伏せしたんだ。お前の家の前からずっと。」

「予感がしたって、どういう事ですか?」

「別れたいと思っていたのは月代さんの方かもな。」

 俺は城山の言葉に少しイラッとした。

「理由なんて思い当たりませんよ。ほんと、あいつの勘違いで。頑固だし、意地っ張りだから。」

「まぁ、月代さんの性格もあるだろうけど、彼女はずっと自分を責めてる。」

「それは、どうして?」

「月代さんは去年流産したんだ。思い当たる事があるだろう。近くにいたら、いろんな事も2人で乗り越えていけるのかもしれないけど、ここまで離れていると、話せなかったんだろうな。」

「城山さんはなんでそれを知っていたんですか?」

「病院に付き添ったのは、俺だから。たまたま出張で、月代さんと会った日の事だ。」

 月代がこっちにきた日の夜の事や、言いかけてやめた作り笑いの月代が、チラチラと俺の目の前に浮かんでくる。

 俺は立ち上がり、城山に謝った。どうしていいかわからない感情が沸き上がり、全てを知っている城山に謝る事で、月代が抱えている罪を軽くさせたかった。

「おい。なんで謝るんだよ。」

 俺は頭を下げたまま、理由のわからない涙がこみ上げてくる。

「津村、もういいから。泣きたいのはこっちだよ。」

 城山は俺を座らせた。

「城山さん、俺、何も知らなくて。」

「月代さんは、ずっと自分を責めている。味覚がなくなったのは、きっとそのせいだろうな。」


 実家に帰った俺は、台所で探し物をしていた「な~に?お母さんのお城を荒らさないでよ。」

「母ちゃん、大きな入れ物ってあったよな。あのゆで卵を入れてくれたやつ。」

「ああ、あれ。」

 母親はいとも簡単にそれを見つけた。

「これに、また卵入れてくれない?」

「いいけど、あんたの彼女は本当に卵ばっかりね。ニワトリでも飼ったら?」

「そっか、その手があったか。」


 俺は職場で仲良くなった警備員のおじさんに頼んで、馬の鬣をもらう事にした。警備員のおじさんの実家は、牧場を経営してると聞いていたから。

「兄ちゃん、何色の馬がいいんだ。」

「白い馬です。」

「わかったよ。いい血統の馬の鬣を少しもらってくるよ。まぁ、どうせブラシについた毛なんて、すぐに捨ててしまうんだから、お安い御用だよ。報酬は、とらやのどら焼きでいいからな。」


 指輪なんて持っていっても、月代はきっと受け取らない。彼女が好きなものを並べたら、また凍りかけた気持ちは溶けてくれるだろうか。

 

 俺は月代のアパートにやってきた。

 驚いた彼女に、

「誕生日、おめでとう。」

 そう言った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ