12章 君に渡す言葉
10月の連休。
ベッドに寝転び、スマホで部屋を探していると、玄関のチャイムがなった。
郵便でも来たのかと思い、覗き窓に左目を近づけると、ドンドンと玄関のドアを叩く音がする。
香純は思い出したようにドアを慌てて開けた。
「津村くん。」
ズカズカと部屋に入ってきた津村は、テーブルに紙袋を置いた。
「母ちゃんから。」
そう言って津村は香純を近くに呼んだ。
「何?」
紙袋を開けると、見慣れたタッパーが見える。
香純は津村の顔を見ると、津村はいつもと変わらない笑顔でこっちを見ていた。
「誕生日、おめでとう。」
「あっ、そっか。今日から31か。」
香純がそう言うと、津村はポケットから箱を出して、香純に渡した。
もしかしたら、箱の中には指輪が入っているのかと思い、香純は箱を開けず、津村に返した。
「いいのか、返したりして。」
「だって、そんな事、無理だから。」
笑いながら椅子に座った津村は、
「また味がわかんなくなってるって、城山さんが言ってたよ。」
「城山さんが?」
「そう、全部聞いた。」
「全部って?」
「子供の親は俺なんだよ。月代と同じ辛さを、これからは背負っていかないと。」
「城山さん、話したんだ。」
「この前残業してたら、城山さん来て、いろいろ話したんだ。月代に振られた事も話してた。」
「ちゃんと話せなくてごめん。」
津村は香純の手を掴むと、
「食べようか。ケーキなんか買ってきても、どうせ味なんてわからないんだろう。」
香純は皿と箸を持ってきた。
「俺の分は?」
「あるよ。」
香純は津村に皿と箸を渡した。
タッパーを開けると、優しい醤油の匂いがした。
ツヤツヤと輝いてる薄い茶色の服をまとった玉子をひとつを皿に乗せ、香純は口に入れた。
味覚はもどっていないはずなのに、懐かしい味を感じる。
「全部たべていい?」
そう言った香純は、津村の顔を見る事ができず、ポロポロと涙を流していた。
「ダメだよ。俺も食べるから。」
キッチンへとむかい、津村から見えない様にしゃがみ込んだ香純は、膝を抱えて泣き続けている。
津村が香純の背中に手を置いて、しゃがみ込んだ。
「許して、津村くん。」
香純はそう言うと、涙は堪えきれず嗚咽になる。
「今回だけだよ。大事な事は、ちゃんと話してほしい。」
「わかってる。津村くん、美味しいよ。お母さんにお礼言わなきゃ。今度連れて行って。」
香純は津村のポケットに手を入れて、さっきしまった箱を探した。
「やっぱり、欲しくなったのか?」
「うん。」
津村は香純に箱を渡すと、リビングに戻っていった。
「言ってくれないの?」
「さっき言っただろう。」
香純がそっと箱を開けると、中から髪の毛をくくったものが出てきた。光りによっては銀色にも見えるその硬い毛を手にとってみると、こっちを見ている津村の誂うような視線を香純は感じた。
「もしかして、馬の鬣?」
「そうだ。月代、白い馬が好きだって言ってただろう。だから、知り合いに頼んで、やっと手に入れたんだ。その馬、この前大きなレースをぶっちぎりで勝ったらしいぞ。」
香純は鬣を大切に箱にしまうと、津村の隣りにきた。
「津村くん、ありがとう。お守りにする。」
「勝ち続けるって難しいよ。いつかはこの馬も引退するんだろうし。」
「そうだね。」
「今はそれが永遠に続くと、思って生きるしかないだろう。」
「そうだね。」
「何期待してたんだ?」
「言わない。ねぇ、馬、見に行きたなぁ。」
「今日は混んでるからやめた方がいいよ。」
「いいの、行きたい。」
地元にある小さな競馬場とは違い、中央競馬が開催される大きな競馬は、肩同士がぶつかるくらいに混み合っていた。津村に手を引かれてむかったパドックにでは、馬がポクポクと歩いている。
「馬は作戦を考えているのかな。」
「どうだろうな。終わったら人参くらいはもらえるだろうって、そんなふうに思っているのかも。」
「馬は勝っても、何も残らないんだね。それなのに、何のために一生懸命走ってるんだろう。」
香純はその先を見つめていた。
最終レースまで競馬場にいた2人は、いろんな物を口にして、家に戻っても腹がいっぱいだと笑った。
味覚はなくても、津村といるとお腹が空いてくる。空腹に誘われて口に入ってくる食べ物は、ほんの少しだけ塩辛いか甘いのかが、わかったような気がしていた。
家に着いて、冷蔵庫に入っていたタッパーをあけた香純を見て、
「まだ食べるのか。」
津村はそう言って笑った。
いろんな事が、色をつけ始めた。
「津村くん、あと少し待ってくれるの?」
「すっと待ったんだ。忘れるわけないだろう。」
「だってこの前、」
「あれは、月代が勘違いしたんだろう。少し広い家を探そうとしてたのに、あれから電話も出なくなって。」
「一緒に暮らしてくれるの?」
「そうだ。何度も責任取るって言っただろう。箱の本当の中身は俺の家にある。」
「ねぇ、じゃあちゃんと言って。言葉でほしい。」
「月代が先に言えよ。」
「どうして。そう言うのって、男が先に言うもんじゃない?」
「普段は男だとか女だとかそう言うの嫌がるくせに、こういう時は女を出してくるのかよ。」
「いいじゃない。別に。」
津村は香純の肩を掴んで正面に向けると、
「1回しか言わないからな。」
津村は香純に口づけをした。
「好きだよ、すごく。」
照れた津村の頬に手をあてた香純は、津村の唇に近づいた。恋が永遠じゃない事もわかっている。それでもひたすら走るしかないその先には、どんな明日が待っているのだろう。
4月。
残業をしていた香純の所に城山がやってきた。
「ついてないね。教育委員会に異動とは。」
城山はそう言って、書類を香純の机に置いた。
「メールでも良かったのに。」
香純が言うと、
「月代さんは文章を最後まで読まないから、きっと間違えると思ってね。」
城山が言った。
「2人で住んでいるんなら、住宅手当はどちらか1人にしないとダメなんだ。」
「私の分は申請してなかったはずですけど。」
「それがね、しっかり丸がついてるんだよ。きっと惰性で書いただろう。」
城山が書類を見せると、香純は丸印を見て笑った。
「ごめんなさい。つい。」
「じゃあ、バツをつけて、訂正印を押して。」
「これでお願いします。」
香純が書類を書き終えると、
「こういうの、何ていうか知ってる?」
「えっ?」
「月代さんと津村の事は、事実婚っていうんだ。」
「ん?」
「月代さんが教えてくれただろう。こんな風に言われるんだって。」
「同棲も、事実婚も同じなんだね。」
「2人はもう結婚してるみたいなもんじゃないか。ここじゃあ、公認の仲なんだし。」
「ここはね、噂好きが集まって言ってるだけですよ。」
隣りの席に座った城山は、
「体調はどう?」
「大丈夫です。味もわかる様になってきました。」
「そっか、それは良かった。」
「城山さんが、話してくれたんですね。」
「津村が1人で残ってた日があってね。その時に言ったんだ。余計なお節介だよな、俺。」
「津村くんはどんな顔をしてましたか?」
「あいつさぁ、俺に頭を下げたんだよ。月代にも俺にも言いたい事はたくさんあったんだと思うよ。でも、とにかく頭を下げて。そんな風にされたら、俺の出番はもうないんだよ。」
「謝らなければいけないのは、私の方です。本当にごめんなさい。」
「もういいから。あの日の俺は、人生で指折りのいい男だったと思うんだけどな、月代さんにはそれがわからなかったか。」
城山はそう言うと、香純の机をあけた。中に入ってる飴を取り出すと、それをひとつ口に入れた。
「勝手ですね。」
「来客が少ないからって、油断してたらダメだよ。電話に出たら、相手に口に何か入ってるってわかるから。」
城山の膨れた頬を見て、香純は笑った。
「城山さん、昇格おめでとうございます。」
香純はそう言うと、立ち上がり頭を下げた。
「だから急に立ち上がるなって。俺はもう、月代さんを運んだりしないからね。」
21時。
津村と職員玄関であった。
「今終わったの?」
香純が聞いた。
「あとは明日にして帰る事にした。月代は?」
「私もお腹が減ったから帰る事にした。」
「なんか食べて帰るか?」
「ううん。昨日の残りが冷蔵庫にある。」
職員玄関が施錠され、横にある通用口から出ていく事しか出来なくなるこの時間には、残っていた職員が吐き出される様に職員玄関から足早に夜に消えていく。そうでもしないと、ここから先の時間は、ため息と愚痴が机の上を占領するから。
香純と津村は少し離れて、駐車場まで歩いていった。まだ正式な届けをしていない2人は、別々の車で家に向かった。
「月代。」
シャワーを浴びてきた香純に津村が言った。
「いつまで月代のままでいるつもりだ?」
「津村くんは、いつまで月代って呼び続けるの?」
「そういえば、月代の下の名前って何ていうんだよ。」
香純はケタケタと笑いながら、
「じゃあ、ずっと私はこのままでいいよ。」
そう言ってソファに座っている津村の隣りに並んだ。
「そういう訳にはいかないだろう。」
津村は香純の背中を抱いた。
「ねぇ、もう少しこのままでいてもいい?」
「結婚の事か?それとも。」
津村は香純の髪に顔を埋めた。
「どっちだと思う?」
「どっちだろうな。」
「このまま聞いて。」
「ん?」
「やっぱり、言えないよ。」
「なんだよ。期待したのに。」
「明日、明日でいい?」
「わかった、明日な。」
明日の事なんて、本当はわからない。でも、この人となら、明日も明後日も、好きだという気持ちが続いていく気がする。
もうすぐ、暖かい季節が来るというのに、冬の終わりに響いた雷は、体の芯まで冷やす様な冷たい細雪を連れてきた。
「雷か?」
津村は香純を抱きしめた。
「雪が降ってきたね。」
「せっかく少し暖かくなったと思ったのにな。」
「温かいよ。津村くんがいるから。」
終