11章 明日の色
新年度になり、履きなれないパンプスをコツコツとならし、新人がやってきた。就活で着ていたのか、まだ学生気分が抜けないスーツ姿の彼女は、1日中ニコニコと愛想がよく、周りの空気を明るくした。
廣川ら異動となり、自分の隣りには新しい職員かやってきた。入社3年目だという彼は、年の近い新人の女の子の指導として、とても張り切っていた。
自分はと言えば、1年も経てば仕事の流れはなんとなく理解ができ、お節介な廣川がいなくても、去年の書類を見ながら、なんとか仕事をこなしていた。
どうせ家に帰っても、何もする事がないし、人と話しをする時間は、ここにいる時しかないんだから、焦って何かをする必要はない。いつの間にか、職場にいる時間が増えていった。
先週の週末。
母に呼ばれて久しぶりに実家に帰った。
姉に2人目の子供ができたのと、弟が婚約者を連れてくるからと、何度も催促の電話があり、渋々、実家の玄関を開けた。
「香純、少し痩せたんじゃない?」
母の最初の言葉に、それ以上は何も言えなくなった。
あの日以来、また味のしない症状が出てきた。貧血は薬で改善しているはずなのに、神様は自分からいろんなものを奪っていく。
主治医の女医に相談すると、心療内科にかかるよう紹介状をしてもらったが、受診してところで、心理的な症状は、長い目で付き合っていくしかないと言われた。
幸せの笑いが溢れる家族の中では、自分の居場所は見当たらないどころか、その先が暗闇に続く出口でもいいから、一刻でも早くその場から逃げ出したくなる。
「香純は30になったの?」
姉が言った。
「そう。」
「もうこっちに帰ってきたら?役場も人が足りないって、ずっと募集してるんだから。」
「相変わらず、融通が利かない性格ね。今はね、本庁にいるの。せっかくここまでやってきて、また一からやり直すなんてできないよ。」
「そう言えば、潤、知ってる?」
「山並くん?」
「美容師やってる人よ。」
「そう、山並くん。」
「香純の同級生だっけ。むこうでよく髪を切ってたって話しをしてたから。」
「よく行ってた、あの美容室。」
「去年、双子が生まれたみたいよ。寝る暇がないってそう話してた。」
「そっか、それは大変だね。」
「せっかくだから、潤の店で髪を切ってくれば?」
「ううん。むこうで予約してる美容室があるから、そこには行かない。」
「いいじゃん別に。潤に香純が帰ってくるって話したら、寄っていけって言ってたよ。」
「私、行かないよ。」
楽しい会話の中に、ポツンと浮いている自分がいる。味のしない夕食を黙々と口に運んでいると、母が醤油を香純の前に出した。
「少し薄かったかも。」
「大丈夫。」
香純は母に醤油を返した。
皆が帰り、静かになった自家で、父は1人でビールを飲んでいた。
「香純も飲むか?」
父はそう言ったが、
「飲まない。」
香純は断った。部屋に戻り、布団の中で目を閉じると、さっきまでの笑い声が耳の中で繰り返れた。
「香純。」
母がやってきた。布団を捲って香純の顔を見ると、
「もしかして、妊娠してる?」
母が言った。
「してないよ。どうして?」
「香純、味覚が変よ。それにずいぶん顔色が悪いし。」
「大丈夫だって。」
「本当?何かあったら、すぐに言うのよ。」
母は布団をかけ直し、部屋を出ていった。
香純はスマホを取り出し、自分の顔を写メに撮った。
そこに写った自分の顔は、目の下のクマが張り付いて、口元が下がり、虚ろな目の自分だった。
それを見て少し笑っていると、城山から電話が掛かってきた。
「もしもし。」
「月代さん、やっと出てくれた。」
城山はそう言うと、何度も電話を掛けていた事を伝えた。
「体調は大丈夫?」
「大丈夫です。」
「良かった。今度そっちへ行くから、一緒にご飯でも食べないか。」
「城山さん、私…、」
「じゃあ、決まり。金曜日の夜は空けておいてよ。」
強引に決めた城山に腹が立ち、当日は体調が悪いとドタキャンしようと香純は考えた。
金曜日の昼過ぎ。
城山が本庁にやってきた。
「久しぶりだね。」
城山はそう言うと、
「久しぶりですね。」
香純も同じように答えた。
「会議は17時に終わるから、ロビーで待ってるよ。」
城山がそう言うと、
「わかりました。じゃあ。」
香純はそう言って席に戻った。
城山がいなくなったのを確認すると、香純は休暇届を課長に出した。突然の休みの申請でも、課長は何も言わなかった。
隣りの席の職員に、体調が悪いから早退するとだけ伝えると、香純は庁舎を後にした。
家に帰り、ベッドの上でスナック菓子を食べているうちに、いつの間にか眠っていた。
突然のチャイムに慌てて飛び起きて、玄関の覗き窓から恐る恐る外を見た。
さっきまでスーツ姿だった城山が、ラフな格好でそこに立っている。香純はチェーンを掛けたままドアを開け、
「ごめんなさい。具合が悪くて。」
そう言って謝った。
「いいから開けて。」
少し苛ついている口調の城山は、無理やりドアを開けようと手を入れた。
「今、開けますから。」
香純はそう言うと、城山が手を離すのを確認してドアを閉め、チェーンを外した。静かにドアを開けて城山の顔を見ると、明らかに不機嫌な表情で、香純を見ていた。
「月代さん、嘘だってバレてるから。」
城山は香純の前髪についていたお菓子の欠片を取った。
「あっ、これは、」
前髪をパラパラと触る香純の手を止めて、
「口にもついてる。」
城山は香純の唇に近づいた。香純が後退りすると、城山は香純の背中を押さえ、唇を塞いだ。逃げようとすればするほどに、城山の手は強く背中や頭をきつく押さえてくる。
「ベッド、行こうか。」
香純をベッドに押し倒した城山は、
「津村よりも早く月代さんの家に来ていたら、いろんな事が違っていたかな。今日はスーツは脱いで来たんだ。月代さんの家に入っていった津村のマネをしてね。」
そう言って香純を見た。
「それは、どうかな。」
香純が言った。
「今も好きなの?まだ忘れられない?」
「助けてくれた城山さんには悪いけれど、そんなに簡単に気持ちを切り替えるなんてできません。」
城山は香純の髪を撫でると、
「忘れろよ。俺といた方が楽にいられるって。」
そう言って香純の唇に近づいた。香純は真っすぐに城山を見つめていた。
「目、閉じなよ。」
卑猥なほどに音を立ててキスをしてくる城山に、香純は顔を反らした。
「どうした?」
「ううん、別に。」
城山は香純の頬を触ると、
「また今度にするよ。」
そう言って起き上がった。
「ご飯食べる約束だったよね。仕事休んで出歩く訳にはいかないから、出前でも取って食べようか。」
香純も起き上がると、
「ごめんなさい。」
そう言って城山に謝った。
「なんで謝るの?」
「だって、」
「月代さんはズルい人だよ。その気にさせておいて、いつも逃げていく。まっ、勝手に追いかけてるのは俺の方か。」
俯いている香純に、
「そんなに悩まなくてもいいよ。これから先の事は、ゆっくり考えればいいんだし。俺の方こそ、月代さんの気持ちを考えないでごめん。」
城山が言った。
「城山さん、味がわからないの。」
城山は香純の手を握ると、
「ピザでも食べようか。伸びるチーズでも見たら、食欲が沸くかもしれないし、女の人は好きだろう。エビとか、アボカドとか、ゆで卵とか。」
香純が少し笑うと、城山はニッコリ笑った。
「病院には通ってるの?」
城山が言った。
「通ってます。」
「じゃあ、どうして、治らないんだろうね。」
「気持ちの問題なんです。」
「津村とはなんで別れたの?」
「なんででしょうね。言い出せなかった自分も悪いし、やっぱり距離なのかなぁ。」
「津村がまだ好きだとしたら、本庁に戻ったらやり直せる?」
「津村くんはとっくに冷めてると思います。自分でも、こんな女と付き合うのって面倒くさいと思うし。」
「お互い好きなのに、なんでこんなに辛い恋愛をしてるよ。」
「恋愛なんてしてませんよ。勘違いしてただけ。」
「月代さん、先に好きになったのは俺のほうなんだけどなぁ。玄関で倒れた月代さんを部屋に運んだ事があっただろう。あの時、好きな子がそばにいるのに、何もできない男の気持ち、わかるかい?」
「城山さんは奇特な人です。もしかして、珍しい動物を見るような目で、こっちを見てるんですか?」
「あぁ、そうだね。純粋で、自分より弱い相手をずっも探していたのかもしれないね。」
香純はそれを聞いてクスッと笑った。
「何?」
「罠に掛かったのは、城山さんです。」
目に合わせて笑い合った2人は、縮まらない距離の中に、少しずつ溶け合ってく気持ちがある事を感じた。
「俺、ホテルに戻るわ。早く味覚が戻るといいね。」
城山はそう言って帰っていった。