1章 春雷
もうすぐ、暖かい季節が来るというのに、冬の終わりに響いた雷は、体の芯まで冷やす様な冷たい細雪を連れてきた。
月代香純は、せっかく用意したパンプスを玄関の端に避けると、長い冬を共に過ごし、すっかり自分の形に馴染んだ長靴に足を入れた。
昨夜はずっと頭痛が治まらなかった。突然、始まった生理のせいで、下腹部や腰、背中の上の方まで、少しずつコンクリートになっていく様な、そんな錯覚さえ感じる。
寒くて痛くて、眠いはずなのに、何度も夜中に目が覚め、自分が女に生まれてきてしまった罪を、どうか許してくださいと、神様に謝りながら朝を迎えた。
重い体を引きずりながら、向かった洗面台の鏡に映った自分の顔は、乾いたアスファルトの様にグレーで、あと少しでひび割れてしまいそうだった。
こんな状態でも、仕事には行かないとダメなのかな。
香純は玄関を開け、湿った雪が埋め尽くした道を歩き始めた。
大学を卒業し、この町の市役所に勤めてから、8回目の春がきた。
同期の女性達や、少し下の女性達は、結婚して産休や育休に入り始めた。彼氏の転勤や、自分のスキルアップのためだといって、すでに退職していった女性達もけっこういた。
頼りになる年配の女性職員は、男尊女卑だった時代のルールに乗せられたまま、仕事はできても出世はしていない。ダラダラとした管理職の仕事ぶりを嘲笑う様に、毎日ものすごいスピードで仕事をこなし、時にはオドオドした若手職員を露骨に無視して、定時で帰宅している。
「月代さんもいずれわかるわよ。」
なぜか自分には優しい年配の女性は、一体どんな線を引いて仕事をしているのだろう。
仕事に生きがいを求める事にも、女としての幸せを掴む生き方にも分類されない宙ぶらりんの自分は、いろんな事の整理もうまくできないくせに、今月から係長というポストを用意された。
だいたい男女共同参画なんてものは、平等とは名ばかりで、男性社会に入って行くためのノックに過ぎない。女性は恐る恐る入ってこいと言われた扉を叩く。中にはノックなんかせずに、ちゃっかり席に腰掛けてお茶を飲んでいる様な人もいるのだろうけど。
男性だって、面倒くさい女性に気をつかい、扉の向こうでずっとため息をついているんだろう。
自分はといえば、その扉の先に待っている何かが怖くて、あえて別の扉の前に向かおうとしている。
新しい部所では、たいして期待もされず、忙しさと中途半端な責任だけが伸し掛かってきた。毎日は、穴の空いた風船を膨らまそうとする様な、息苦しい時間だった。
「係長、酒井が回した決裁、早くハンコついてくださいよ。締め切りは今日の夕方だって焦ってるみたいだから。」
同期の津村駿は、香純の机に積み重なっている決済の束に手を掛けた。
雪崩の様にバラバラと崩れた書類は、床にまで広がった。
「お前が早く回さないからこうなるんだって!」
津村はそういうと、書類の束から、探している決裁を見つけた。
「早く、ここにハンコを押せよ。」
「あっ、うん。ごめん。」
津村は香純がハンコを押すのを確認すると、その決裁を急いで課長の元へ持っていった。
「月代くん、ちょっと。」
課長から呼ばれた香純は立ち止まると、一瞬目の前が真っ暗になったが、なんとか課長の机の前に立った。課長の前には津村も立っている。
「係長、これ、ちゃんと見たの?」
課長はさっきの決裁をパラパラと捲った。
「はい。確認しました。」
「それにしては誤字がけっこうあるよ。別記様式って書いてあるけど、それもついてないし、ちゃんと確認して揃えてから持ってきてよ。まったく、最終チェックは月代くんなんだけどなぁ。」
課長はそう言うと、書類を香純に渡した。
「すみませんでした。」
「月代さーん、保健所から電話。」
香純は課長に頭を下げると、急いで席に戻って電話を取った。
「月代、まだ帰らないのか?」
20時。
パソコンに向かっている香純に、津村が声を掛けた。
「うん。この報告が明日までだから。」
香純は分厚い書類を捲っている。
「去年の件数、まとめてなかったんだろう。」
「そうみたいね。」
「前の係長は、しょっちゅう休んでたから。」
「体調でも悪かったの?」
「違うよ。仕事しないだけ。」
「それじゃあ、津村くん達は大変だったんだね。」
「まぁな。」
「ごめんね、私も仕事遅いから、迷惑ばっかり掛けて。」
「しゃーないよ。お前こそ、あんまり仕事を抱えんなよ。上の連中なんて、しょせん女だって思ってるんだし。悪いけど、女の係長なんて、ごちゃごちゃ文句を言わない奴をうまく利用して、リーダーっていう餌を与えてるんだって、俺は思ってるよ。」
「けっこう、ひどいな、その言い方。」
「まあ、男だって上の連中の犬みたいなもんなんだけどな。女ってさぁ、仕事よりも優先するものがあるだろう。家庭の事情だって言ってすぐに休むし、辞めるし。だから、大きな仕事は任せられない。その点、男は家庭よりも仕事を優先しろっていう空気があるから、長期の大仕事を任せられる。月代は国の言う、男と女の上司の比率を同じにするために、都合のいい存在だったんだよ。」
「わかってるよ、そんな事。」
津村が言うのは、自分には家庭がないから、休みは取らないだろうっていう、そんな解釈か。
香純は無意識に下腹を押さえた。
「腹減ったのか?」
「ううん。違う。」
「昼も何も食べてなかっただろう。」
「タイミング逃しちゃったから。」
「なぁ。今日はもう帰った方がいいぞ。家まで車で送ってやるからさ。」
「これ、やってから帰る。津村くん、いろいろありがとう。」
香純はそう言って津村に手を振った。
少し不貞腐れ気味に津村が帰ったあと、香純は鞄から個包装されたチョコレートを一つ出して口に入れた。
そこまで言われているなら、男の誰かが係長になれば良かったのに。女だとか、男だとか、そもそもそんな事で人事を決めるなんて、結局、古臭い考えから抜け出せていない証拠だよ。
女は男よりも仕事が劣っている方が可愛げがあるとか、女なのに仕事ができるやつ奴は近寄りがたいだとか、結局、職場の女達は、男にとって都合のいい品定めでランクがついているだろう。
そんな品定めのランク外の自分は、やっぱりダメな奴だっだと、影で笑われているに違いない。
悲しいな。
望んでここへ来たわけじゃなくて、押し出される様にこの席に座り、大切な時間を提供しているのに。
午前0時。
退庁名簿に名前を書くと、香純は市役所の裏玄関を出た。少し凍りかけた道を慎重に歩き出す。
ふぅーっと手に息を吹きかけて、痛みが治まらない下腹を撫でた。
神様、もう許してください。
そう心の中で呟くと、雪の下に隠れていた氷の塊に躓いて転んだ。
「痛ああっ。」
コートに付いた雪をはらって立ち上がると、後ろからケラケラと笑い声が聞こえた。
「月代さん、漫画みたいに転んだだね。」
玄関から出てきた、3つ上の城山直人が香純の隣りにやってきた。
「恥ずかしいところ、見られてしまいました。」
香純はそう言って、転んだ時にぶつけた腰をさすった。
「車停めてあるから、送るよ。」
城山はそう言って、駐車場を指差した。
「大丈夫です。」
香純が断ると、
「今夜は冷えるよ。早く帰って寝たほうがいい。」
城山は香純のコートの袖を掴んだ。
職員駐車場に停めてあった城山の車までくると、どうぞ、と城山は助手席のドアを開けた。
キレイに整頓されている車からは、ふんわりとした柑橘系の香りが漂う。車内が暖かくなるにつれて、だんだんと眠りに落ちそうになると、
「家はどの辺?」
城山が香純に聞いた。
「柏台の4丁目です。」
「知ってるよ。4丁目のどこ?」
「中学校の近くです。」
「そっか、それじゃあ、ギリギリ2.5キロないんだね。交通費は出ないのか。」
「…?」
香純は名前すらぼんやりとして思い出す事ができない城山を、少しだけ見つめた。
「俺は柏台のもっとむこう。」
「そうだったんですか。」
何かの研修で、一度だけ隣りの席になったきり、城山とはそれきり話した事はない。
「もしかして俺の事忘れた?前に話しをしたはずだけど。月代さんは大学がこっちで、今もそのアパートに住み続けてるって言ってたけど。」
「ごめんなさい。何となく覚えているようで、私、ぜんぜん人の名前とか頭に入らなくて。」
「そりゃ、今の仕事が忙し過ぎるせいだろう。」
「うん、まぁ…。私、そんなにキャパがないから。」
「市役所なんて、ノルマはないんだし、期日さえ守ればそれなりに評価してもらえるんだから、もっとうまくやりなよ。」
「うん…。」
どうせ自分になんか、誰も期待してない。だいたい、仕事ができるかできないの話しではなくて、少しだけ気遣いのある女の方が、あんたら男はいい奴だと、評価しているくせに。弱さを見せた方が、女として勝ちなのかな。
それにしても、自分はいつから、こんなに歪んだ感情を呟く様になってしまったのだろう。誰かが隣りにいても、こんな自分に気を使って声を掛けてくれても、それを素直にそれに受け止める事ができない。
「大丈夫か?」
城山は香純のアパートの玄関に車を停めると、さっきから俯いている香純の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。ありがとうございました。」
香純はそう言って車を降りると、アパートの階段の1段目に足を掛けたところで、目眩がしてうずくまった。
城山は慌てて香純の元へ駆け寄ってきた。
「大丈夫です。ちょっと目眩がして。」
香純はそう言って、手すりに頼りながら自分の部屋の玄関に向かった。
目の焦点が合わず、うまく鍵が開けられない。見兼ねた城山は、香純の手から鍵を取ると、玄関を開けて香純を中に入れた。
城山は玄関に入るなり、そのままバッタリ倒れてしまった香純をベッドまで運ぶと、
「脱がすぞ。」
そう言って香純の着てきたコートと上着を脱がせた。背中を丸めて横になった香純の口元は、何度もごめんなさいと呟いていているように感じる。
「月代さん、やっぱり病院に行った方がいいんじゃないか?」
城山は香純の肩を掴んだ。
「大丈夫ですから。」
香純は目を閉じて、また少し背中を丸めると、そのまま眠りについた。
ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったのに。
午前2時。
香純はベッドの横のぼんやりと明るい光りに目をやると、城山がそこでスマホを見ていた。
「あっ、あの…、」
「貧血?」
「うん、たぶん、そう。すみません、迷惑掛けてしまって。」
「じゃあ、俺は帰るわ。ちゃんと食べて寝るんだよ。」
助けてもらったのに、城山の名前すら思い出せない間抜けな自分は、罪悪感でグルグル巻きにされている。
「ごめんなさい。」
香純は城山の背中にむかってそう言うと、
「さっきから、何回も謝られてばかりだよ。こういう時はお礼を言ってよ。」
城山は振り返って香純に言った。
1人になった部屋は、思いもかけずやってきた寂しさが、行ったり来たりしている。
先月、ずっと好きだった高校の同級生が結婚した。
彼がこの町で美容師になってから、会いに行くために毎月店を予約した。少しでも長い時間彼と話せるようにパーマをかけたり、髪を染めて過ごす時間はとても淡い色をしていた。
もうすぐ春が来るという頃。
彼が地元の後輩と結婚して、この町を離れると話し始めた時、心の中に流れてきた川が、一気に凍って動きを止めた。それは永遠の冬の始まりで、春が来るくる事なんて想像もできない寒さがやってきた様だった。たとえこの先、川の氷が解けて流れ始めても、どこかの曲がり角で、溜まっていたゴミに堰き止められて、きっと海には辿り着けない。