夫の隠し子
「初めまして。突然、お訪ねして申し訳ございません。
実は、少々、謝罪したい件がございまして……」
まだ寒さの残る、春とは名ばかりのある日。
中年女の一人暮らしになったばかりの我が家に、来客があった。
ドアの前に立っていた少女は、十五歳くらいだろうか。
怪しい雰囲気ではないが、謝罪とは穏やかでない。
「たいしたお構いも出来ませんが、よろしかったら中にお入りください」
「ありがとうございます」
どこから来たのだろう。
着古したコートを丁寧に仕立て直して、やっと旅装を整えたようだ。
それに、ずいぶん疲れているように見える。
「甘いものはお好き?
頂き物のケーキがあるの。召し上がる?」
クゥ~と小さくお腹の鳴らして、赤くなる可愛い子。
「あの……ご馳走になります」
「今、お茶を淹れるから少し待ってね」
一人で居ると、お茶の支度も億劫だ。
丁度いいタイミングで、彼女が来てくれてよかった。
「とても美味しいです」
「良かったわ」
アイシングがたっぷりかかったドライフルーツケーキと紅茶を、噛みしめるように平らげた少女。
一息つけただろうと思い、私は本題に入った。
「さっきの、謝罪と言うのは?」
「実は、わたしは母の代理なのですが」
「お母様の?」
「えーと……あの、わたしは、あなたの御主人の娘です」
「え? ……ああ、なるほど?」
「あまり驚かれていない?」
「ええ、実はそう。
あなたのほうが驚くのではないかしら」
「はい?」
「夫はつい最近、亡くなりました」
「はい、存じています。
街でこの家の場所を訊いたときに知りました。
先にお墓参りもしてきました」
「それは、どうもご丁寧に」
「わたしの母も、という言い方は変かもしれませんが、昨年亡くなりました」
「まあ、それはお気の毒に。他にご家族はいらっしゃるの?」
「いいえ。母は親戚もおらず、一人でわたしを育ててくれたので」
「それは……寂しいわね」
我が家も子供がいなくて、夫と二人暮らしだった。
二人と一人の違いは、そうなってみないとわからないものだ。
「それで、謝罪とおっしゃってたのは?」
「母が生前に、自分が死んだら奥様にお詫びを、と遺言を残していまして」
彼女は古びた鞄から手紙を出した。
それによれば、夫が出張で訪れた街で偶然出会い、一夜を共にしたとある。
けれど、子供が出来たことは知らせず、女手一つで育てたのだ。
「一夜の過ち、かどうかは当人たちにしかわからないわね。
夫にも夫の心があるから、私が全て理解できていたとは思わないわ。
だとしても、もしも、貴女のお母様が子供が出来たと連絡していたら、黙って放って置くような人では無かったのよ」
「母もそう言っていました。
優しい方で、そこに自分はつけ込んだのだと。
あの時、わたしを授かったから、自分は寿命を全う出来た、と」
それが彼女の母親の本心だとしたら、随分と身勝手な気もする。
まだ独り立ちできていない娘を一人残すくらいなら、実の父親が生きているうちに連絡するべきだったのではないか?
けれど、二人とも既に故人。
責めてみてもしょうがないのだ。
「謝罪はとりあえず受け取っておくけど、貴女に責任はないわ。
遠路はるばる来てくださって、本当にお疲れ様……」
彼女が住んでいたという土地は、鉄道を使わなければ来られない遠方だ。
旅費もそれなりにかかっただろう。
「貴女、宿は?」
「どこか、安い宿をご存じでしょうか?」
彼女が母の遺言を一年延ばしにしていたのは、学校を卒業するまで待ったからだった。
身寄りはなかったけれど、母親が働いていた飲食店の寮に好意で置いてもらえたらしい。
彼女自身も、放課後や休日は皿洗いなど、出来る事を手伝ったという。
卒業後、わずかな家財を処分し、身一つでやって来た。
「決めていないのなら、この家に泊まりなさいな。
ご馳走は無理だけど、ちゃんと食事も出せるし」
「そんな……ご迷惑でしょうから」
「子供が遠慮しないのよ。
さ、部屋で少し横になりなさい」
「……はい。ありがとうございます」
彼女は目に見えてホッとしていた。
その夜は消化に良いリゾットで夕食を済ませ、風呂を使わせて、再び寝室に追い立てた。
翌日は開店日だったので、定時に店を開ける。
私の商売は古本屋で、家は店の二階部分にある。
古本屋の入口と、家の玄関は、別々の通りに面しているのだ。
「おはようさん!」
「おはようございます」
店の前を掃除していると、市場帰りの奥さんが声をかけて来る。
「ねえ、あんたのとこ、昨日、見知らぬ娘さんが訪ねて来たって?」
彼女はこの辺一の情報通。
耳ざとく、さらには噂の発生源でもある。
「ええ。夫の遠い親戚の子がわざわざ弔問に来てくれたんですよ。
亡くなられたお母様が、付き合いがあったからと」
「あらあら、それは感心なことだね」
「私も寂しい一人暮らしですし、しばらく、家でゆっくりしてもらおうかと」
「そうかい、そりゃよかった。何よりの慰めだよ」
「はい」
噂好きの奥さんも、根は悪い人ではない。
心配性がこじれて、変な思い込みに繋がると厄介なだけだ。
店先を整えて奥に戻ると、あの子が顔を見せた。
「おはよう」
「おはようございます。
昨夜は、ありがとうございました」
「どういたしまして。よく眠れた?」
「はい、ぐっすり」
「そう。お腹の調子は大丈夫?」
「はい、おかげさまで……」
その時、昨日より元気なグゥーっという音がした。
「ふふ、元気そうね。じゃあ、朝ごはんにしましょうか」
「お店は開けっ放しで?」
「こんな古本屋で、万引きする人も滅多にいないから」
値の張る本は、たいして抱えてはいないが、さすがに店先には出していない。
「良ければ、わたし作りましょうか?」
「そうね、お願いできる?
保冷庫にフレンチトーストの用意をしてあるわ」
台所はよくあるタイプだし使い方はわかるだろう。
店の奥にある帳場は、台所の音が届く距離だ。
怪しげな音がしたら覗けばいい。
同業から回してもらった注文品を確認していると、奥からバターの良い匂いがしてくる。
しばらくすると、彼女が出来上がったと伝えに来た。
「誰かに作ってもらった朝食は久しぶり。特別に美味しい気がするわ」
「わたし、凝ったものは作れないんです。
飲食店の寮は賄いが出たので。
休日に母が作ってくれた、簡単なものしか真似できなくて」
「十分よ。私も店があるから、一人だと買ったもので済ませることが多いの。
市場の出来合いのほうが美味しかったりするしね。
たまに煮込みなんかを作る時は結構、気合が必要だわ」
「たまに?」
「ええ。夫は出張が多かったから、一人で食事することも多くて。
子供もいなければ、そんなものよ」
子供がいないという言葉に何を思ったのか、彼女は黙り込む。
「あのね、昨日は謝罪を受け入れるって言ったけど、本当は謝罪の必要なんか無いのよ」
「どういうことですか?」
「貴女は今、十五歳でしょ?
だから、夫と貴女のお母様が出会ったのは、だいたい十六年前ね」
「はい」
「私と夫が結婚したのは、それより後の、今から十年前なの」
「え? では、その時、旦那様は別の方と?
母からは指輪をしていたので、既婚者なのを知りながら、と聞いたのですが」
「貴女のお母様も正直な方ね。
でも、夫とは年が離れていたけれど、彼も初婚だったわ。
指輪は、多分トラブル避けね。
頼られやすい人だったけど、人助けばかりしてたら仕事に支障が出るもの。
特に女性絡みというか、女性に絡まれやすい人だったから」
そう、私だって、彼に助けてもらったのだ。
父親と二人でやっていた古本屋。
父が亡くなった時、女一人で店をやるのは無理だろうと商店街の重鎮に退去を勧められたのだ。
商売のやり方は全部教わっていたけれど、老獪な狸の相手は難しかった。
重鎮である老人は、身内の若い者に任せる物件を探していたのだ。
けれど、それを聞きつけた夫が助けてくれた。
その時はうちの店のお得意様で、顔を合わせれば話をするだけの間柄。
でも、この店が無くなるのは都合が悪いと、彼は私との結婚を言い出した。
大きな商会の調査員をしていた夫は、それなりの伝手を持っていた。
私は結婚することで信用を得、老人は夫の紹介でもっといい場所に店を得た。
万事丸く収まり、しこりが残ることも無かったのだ。
「わたし、母が嘘を言った可能性もあると思っているんです」
「嘘?」
その日の夕食後、彼女はまた話を蒸し返した。
昼間、商品の埃払いや並べ直しを根気よくやってくれながら、ずいぶんと考え込むような顔をしていたのだ。
「ええ、こちらのご主人とはただの知り合いで、寄る辺ないわたしが万一の時、頼れるように頼んだのかと」
「他人を、そこまで信用するかしら? 自分の大事な娘を簡単に託せる?」
「そうなんですけど。
でも、その……一夜限りの相手で、本当の父親でも、為人をそこまで信じられるものかと考えると」
「そうねえ。そう言われてみれば。
何もなかったけれど、何度か話して人柄を信用できたから、というほうが自然な気もするわ」
そして、一夜限りの相手よりも、そんなふうに信用できる間柄だったほうが正直、妬ける。
「……どちらにしても、わたしは他に行くあてが無くて。
ここまで来てみたら、何か道が開けるかと」
「お世話になった飲食店の方には、引き留められなかった?」
「引き留められました。
でも、わたしは母ほど社交的な性格ではなくて。
フロアへ出て注文を聞いたり、お客様の機嫌を取ったりという接客の仕事は、わたしには向いてないと思いました」
今日、古本に触れていた彼女は、どこか楽しそうだった。
同じ店員でも、こういう商売なら、やってみたいと思うだろうか。
「私の勘では、貴女は本当に夫の娘だと思うわ。
貴女の顔は、夫に似ているところもあるし」
「済みません」
「あら、謝らないで。不貞があったわけでは無いのだから。
むしろ、新しい家族が出来て嬉しいのよ」
「家族?」
「ええ。貴女、よければ、しばらくここで暮らしなさいな」
「え?」
「学校は卒業したのだし、何か仕事をして自信が付いたら、どこへでも行けるようになるわ。
それまでは、ここに居たらいいのよ」
彼女はとても驚いて、それから思案顔になる。
あの人は……本当に困っている時に、手を差し伸べてくれるような人だった。
きっと、彼女のお母様も、その時、本当にどうしようもない状況だったのだろう。
一夜を慰める相手を欲していたのかもしれないし、既に身ごもっていた子が将来、相談できるような相手を探していたのかもしれない。
あの人なら、どんな状況も考えられる。
夫は調査員だったのだ。
移動の自由があるし、どこに行っても不自然ではなかった。
自分の子供だったとしたら、彼女が生まれたことも知っていたはず。
けれど、彼女の母親の言うことが本当なら、子供を心の支えに日々を生きられるようになったその姿を遠くから見守ることにしたのかもしれない。
何か困りごとが無いかと、たまには様子を見に行きながら。
考えられる状況は無数にあって、けれど、真実を確かめる術はない。
私は彼と結婚して、十分に大切にしてもらった。
彼は私と結婚して、少しでも幸福だと思ってくれていたなら嬉しい。
今、彼女と私はめぐりあった。
赤の他人が不思議な縁で結ばれたのだ。
彼が私を助けてくれたように、私が彼女を助けることが出来ればいいけれど。
「しばらく、お世話になります」
彼女が頭を下げる。
「こちらこそ」
私も頭を下げた。
丁度同じタイミングで頭を上げた私たちは顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。