名前を育てて
クリステルは夫オリバー・ポートマン伯爵と話したことがない。
身体の関係もない。
貴族同士の政略結婚だった。
婚約するときにはオリバーは既に伯爵家当主であり、仕事に追われていた。
2人は婚約期間に出かけたこともなく、会ったこともなかった。
全て家令が書類を取り次いで整えられた婚約だった。
クリステルとしては、婚約の実感どころか相手の顔もはっきりしなかった。
結婚式前後、オリバーは挨拶に追われクリステルと会話することはなかった。
業務提携を兼ねた政略とはいえ、クリステルは蔑ろにされている気分だった。
クリステルとしては初夜をどうしたものか悩んだ。
政略だからこそ誠意が必要だと思っていたが、相手にはその考えがなかったようだ。
オリバーは寝室に来なかった。
オリバーは27歳、クリステルは17歳。
年の差を配慮してくれたのだろうか?
そんな配慮ができるのなら会話ぐらいできたはずだ。
誠意どころか、常識もなかったようだ。
実家から侍女として付き添ったエミリーは喜んだ。
「クリステルお嬢様が汚れなくて良かったです、ご実家に連絡して政略解除いたしましょう、婚姻無効の訴えを」
「そうね、でも形だけでも向こうの言い分を伺おうかしら」
翌朝、伯爵家の家令モリスが部屋に訪れた。
「昨夜は大変申し訳ございませんでした」
「モリスの言葉ではなく、夫の言葉を聞かせて」
「はい。『忙しい』と」
「そう、わざわざありがとう」
クリステルの両親は、浮いた噂のない伯爵の身上調査を徹底的におこなった。隠し妻・隠し子・不能を調べつくしたと言っていた。なにも婚姻欠格事項はつかめなかったが……。
不能なのか? 女がいるのか? 男色なのか?
真相を知ろうとも思わない。
「エミリー、誠意を感じられないから動いてもらえる?」
「かしこまりました。こうなったからには、お嬢様の純潔を死守します」
「1年後には解決ね」
クリステルの予想に反し、この状態が3年続いた。
クリステルは20歳になっていた。
1つ年下だったエミリーはこの3年ですっかり長身になった。
声は低くモリスに会わせるには無理がある。
クリステルは侍女服に着替えてからモリスを探す。
「モリス様。奥様が旦那様に重要なお話があると。至急、お取り次ぎを」
「調整いたします」
数日たっても日程の調整がつかないとだけ説明された。
取り次ぎ依頼をした日から5日後、クリステルは判決謄本を手にした。
予想通りの展開にクリステルは不敵な笑みを浮かべる。
「エミリー、時が来たわ。急ぎましょう」
「かしこまりました、お嬢様」
クリステルは用意した旅券を手にする。
クリステルとエミリーの分、あと偽名の男女1組分。
クリステルとオリバーが結婚して1年後、クリステル申し立ての婚姻無効が認められず。クリステルの両親は、このトュール国に見切りをつけて隣国パラベル国に渡っていた。
クリステルはこれに同行したかった。この屋敷から出たかった。今の名前がそれを邪魔した。
クリステルは雅号・芸名・ペンネームといったものに注目する。
クリステルは2人分の名前を育てた。
2年が経ち、その名は市民権を得た。
トゥール中央駅。
ポートマン伯爵夫人クリステルとその侍女エミリーは列車に乗る。
汽笛がなる。パラベル国に向けて蒸気機関車が走り出す。
車窓の風景が流れ始めた。
クリステルとエミリーは最後の仕上げに取りかかる。
スーツケースから粗末な旅行カバンを取り出し、2人の本名の旅券を1等コンパートメントに置き去りにし、人目を忍んで2等コンパートメントへと急ぐ。
クリステルとエミリーは商人が着るような服に着替え髪型をそれに合わせる。
粗末な旅行カバンの中の筆記用具と原稿を広げる。
国境付近で汽車が止まった。
ドンドン! ドンドンドン!
すぐにコンパートメントの扉が叩かれる。
エミリーが対応する。
「アレクシス先生、警官が人改めと」
「そう、原稿を読まない持ち出さないことを条件にして」
警官が2名入ってくる。
「旅券を確認させてください。隣国パラベルには何をしに?」
「帰国です」
警官が、旅券の名前を確認する。
「あ、ま、まさか幻の人気女流作家のアレクシス女史……」
「人気かどうかは……御覧の通り著述業というのは確かですが……」
コンパートメントは足の踏み場がないほど原稿が散らばる。
少しわざとらしさが気になる程に。
「そうすると、あなたが敏腕マネージャーのエリアス――」
「おい、仕事中だぞ。大変、失礼いたしました、良い旅を」
「ありがとう」
警官が出て行って、汽車は走り出し国境を越えた。
その証にパラベル語の車内放送が流れる。
「エミ……ではなく、エリアス、やった自由よ」
「はい、幻の女流作家アレクシス先生」
「ふふっ、敏腕マネージャーのエリアス、食堂車で祝杯をあげましょう」
流れる景色の色が変わる。
3年間、2人はこの時を待っていた。
やっと、自由だ。
やっと、この思いを遂げられる。
「どういうことだ、探せ」
「旦那様、今さら探してどうなさるのですか?」
「私の妻だ」
「夫としての役目も果たさず、会いたいという奥様の願いすら放置して?」
「貴族の娘だ、政略の意味ぐらいわきまえているだろう」
「旦那様、政略の意味を知っていらっしゃるのなら、なぜあのような心ない仕打ちを……」
「仕打ちとは?」
「言葉を交わさず、気を使わず、身体を重ねず、何が政略ですか?」
「私には思う人がいた」
「では、なぜ結婚しさらに婚姻無効の訴えを圧力でつぶしたのですか?」
「モリス、探せ!」
「旦那様、奥様がいなくなってから騒いでも遅いのです」
その日のうちにオリバーは妻クリステルが旅券申請をしていたことを掴んだ。
急いで、汽車を止めて捜索させた。
1等客室に妻とその侍女の旅券の下に妻からの手紙が置かれていた。
―――
ポートマン伯爵様
私との婚約を含む婚姻無効はこの国では埒が明かないため、国際民事家族裁判所に持ち込みました。
先日の私との話を拒否された事実をもってそれは成立しました。
異議申し立ては、判決謄本到着後14日以内です。夫・妻両名の出廷が条件です。
ですので、事実上確定ですね。
後日、判決確定証明をご査収ください。
余談ですが……。
私には思い合う相手がいました。しかし、先代伯爵によって引き離されました。
私はその方のもとへ行きます。
親子2代に渡って、もう私の恋路を邪魔しないでください。
最後に、今までも、これからも他人です。お忘れなきよう。
さようなら
―――
オリバーの手の中でグシャと手紙を握りしめる音がした。
「なんだ、この物言いは……」
「聡明で行動力のある奥様だったのに残念なことです」
「モリス、探せ!」
「ご自分でお探しください。
婚姻は無効です。すでに、はじめから当家とは何の関係も無い方ということになってしまいました。
旦那様にとっては喜ばしいことですね、おめでとうございます。
次の奥様に目星はございますか? なければ政略になさいますか?」
オリバーは手紙を読み返す。
「モリス、ここに記載されている判決謄本は届いたのか?」
「はい。今朝、配達証明郵便で届きました」
「あと14日ある」
「では、その14日間は旦那様が頑張ってください。私には奥様を探すのは不可能かと」
「どういうことだ?」
「奥様とは3年前に一言二言話しただけで、先日の面会希望も侍女を通してのやり取りでした。奥様の顔を覚えていないのです」
「それでも伯爵家の家令か!?」
「ええ、ですから旦那様がお探しください。旦那様は奥様の顔はご存じですよね」
「…………いや、あやふやだ」
モリスは心底呆れた。
「旦那様、伯爵として男として悔しく思うのでしたらこれ以上騒ぎ立てないことです。
今さら無様です。恥の上塗りはおやめください」
「無様って……。
私には人知れず大事にしていた身分違いの女性がいた。
しかし、父の急死で政略結婚しか無かった。その女性は別れ際に私の事を愛しているなら、新しい奥さんを3年間だけ相手にしないでと言ったのだ。それぐらい叶えてやりたかった」
「では、この際、その悪女と結婚なされては」
「悪女とは、失敬な」
「悪女でございます、旦那様もそんな約束を守った時点でしれておりますね。そんな約束ではなく身分違いの相手を守るべきでしたね。あっ、それができないから政略結婚を表向き受け入れたのでしたね。まぁ、その女性には相思相愛の夫と学齢に達するお子さんがいますよ。旦那様はお財布だったのです」
オリバーはモリスから報告書を受け取り読み進める。
これは、どういうことだ……はじめから人妻だったのか。
「先代に頼まれて勤めてまいりましたが、これを機に辞めさせていただきます」
オリバーはモリスを引き留めることはできなかった。
オリバーは友人に相談した。みな、婚姻無効で良かったではないかと祝辞をくれた。
しかし、陰では自業自得と囁かれ笑われている。
なぜだ!? なぜ私だけが悪く言われる。これは政略だった。私は妻を蔑ろにしていない。とオリバーは混乱する。オリバーはこれから関係を始めようと思っていたのだった。
妻クリステルは旅券を車内に残してどこへ?
まだ国内にいるのではないか?
クリステルの実家は2年前に爵位を返上し隣国パラベル国に渡っていた。
毎月支援金の振り込みがありそのことにオリバーは気づかなかった。
妻の知人・友人を1人も知らない。
結婚式の招待名簿は全て破棄されていた。
妻あての手紙もない。
妻の部屋には、妻が存在した形跡がない。
こうも見事に人の痕跡を消せるのか?
妻はいつから考えていた?
この3年間、オリバーは妻の事を何も知ろうとしなかった。
妻が家を出てからオリバーは妻に興味を持った。
しかし妻の顔すら覚えていない。後の祭である。
取り返しがつかないことをしたのかもしれないと自責の念に駆られオリバーはクリステルを探すことを諦めた。
それは婚姻無効の確定と莫大な慰謝料の支払いを意味していた。
「先生、今回の著書『華麗なる逃亡』は女性を勇気づける作品でしたね」
「そうかしら? 恋愛要素が弱くて味気ないのが気になって」
「いえ、男に頼ることなくヒロインが自由を掴むところが魅力的です。
ヒロインは別人を生みだしますね。具体的にはどうやって」
記者の質問に作家は言葉を選ぶ。
「名前を育てるのよ、少しずつ。
……そうね、詳細は悪用されたくないから書かなかったけど。
まず、身元証明が不要な会員証あたりをパラベル国籍のアレクシスとエリアスの名義で何枚も作るの。
そして、仕上げは図書館カードよ。トュールの図書館カードは身元審査が厳しいから、各種会員証だけでは弱くて、あの時だけは爵位返上直前の実家から身元証明を出してもらったのよ。パラベル国のアレクシスとエリアスで間違いないってね、あっ作中の設定ね。審査を経て図書館カードが仕上がるでしょ。
それと並行してアレクシスが書いた原稿をエリアスが出版社に持ち込む。無名の外国人作家にマネージャーがついていれば目に留まりやすいはず。小品を書いて原稿料が支払われる。そこで納税する。アレクシスとエリアスは納税者としてトュール国に登録され納税証明が取れるでしょ。
トュール国がパラベル国のアレクシスとエリアスを公証してくれるようになるのよ。
そして、図書館カードと納税証明を持ってトュール国在パラベル大使館へ在留証と旅券の発券を依頼するの。このトリックは出入国記録を付けないトュール国とパラベル国間で可能なの。
そこからは、人気作をひたすら書いてアレクシスとエリアスをさらに育てていくのよ」
「確かに短い旅行でしたら旅券なしに出入りできますからね。ふらっと訪ねたトュール国が気に入って仕事をしながら滞在する。よくある話ですね。
でも、伯爵家の家人に執筆作業を隠し切れますか?」
「構想を練るときは手紙を書いているフリをするの。書き損じの原稿はエミリーがすぐさま燃やすの。長時間原稿を書くときはエミリーの部屋で書くのよ」
「なるほど……先生の体験談という噂もありますが真相のほどは?」
「まぁ、生まれ育った名前を捨てる代償は大きいわよね。でも、楽しいわね」
「楽しいとは?」
「だって、自由になった元伯爵夫人は名前まで変えて新しい恋ができるじゃない。未来は自由で寂しくないということよ」
記者は作家の目の輝きに期待する。
「その続編はいつごろに?」
「そうね。敏腕マネージャー次第かしら」
「楽しみにしております。
最後になりますが、先生、マネージャー。ご結婚おめでとうございます」
「「ありがとうございます」」
いつも作家に寄り添うマネージャー、2人は輝く笑顔を浮かべた。
―― 名前を育てて・おわり ――