神谷レストランで電気ブランとカレーライスを:浅草
その日は平日であったが午後半休が取れたのである。
友人の書籍発売を明日に控え、秋葉原まで足を伸ばせば早売りしているであろうとの確信を持って急遽そちらへ向かうこととなったのだ。
山手線で移動しながら今日の動きについて考える。
私が住むのは城南、城東には滅多に行かないが、実は行きたいところが数箇所あった。そのうちのいくつかをこなしてしまうことにする。
秋葉原の書泉ブックタワーで友人の新刊を買い(ついでに私の本が本棚に並んでいることも確認し)、即座に秋葉原を後に。
つくばエクスプレスに乗り二駅、向かったのは浅草である。
つくばエクスプレスの駅は浅草の正面ではなく西側に出てしまう。
小雨が降り頻る中、人影がまばらな六区を抜け、アーケードの屋根の上、霞むスカイツリーを正面に浅草の街を急ぎ足に進む。
仲見世商店街の方に出れば学生服姿の中高生が増えてくる。学校の移動教室か修学旅行か。
私も本来なら浅草観光とでも洒落込みたいところだが、半休で午前は仕事だったのもあり時間がない。
雷門を裏から抜けて左、東側へ。
目的地の黄色い看板がアーケードの切れ目から見えた。
そう、向かったのは神谷バーである。
商店街沿いにまず見えるのは黄土色の煉瓦造りの壁に広い窓の土産物屋。店内には入れず、店頭で商品を注文する屋台やドライブスルーのような作りである。
ここは後で使おうと、前を通り過ぎて先へ。
有名な浅草一丁目一番一号の看板の下、少し奥にある硝子扉の向こうからは暖かな光が届き、懐古的な喫茶店を想わせる食品サンプルが並ぶ、その奥には昼からグラスを掲げる者たちの姿が見える。
私が酒を飲むのであれば、そこに混ざって伝統に則り、電気ブランとビールと注文しただろう。
だが私は酒に弱い。それでもこの店は楽しめるのだ。折れ曲がる階段を上がり二階へと上がる。神谷レストランである。
明治から続く店である。では明治の雰囲気を残しているかといえばそうではない。この建物は大正時代に建てられたもの、レストラン部門を始めたのは昭和35年という。無論、その後に幾度も改装を経てはいるだろう。
だが、昭和中期といってももう60年は昔のことだ。その頃の懐古的な雰囲気は感じられる。
白シャツに黒ベストのバーテンダー姿の店員に案内されて席に座る。店員が言う。
「注文はこちらのQRコードから行えます」
うむ。
私は鞄からタブレットを取り出してQRコードを読み取った。
QRコード、入口の除菌アルコール。雰囲気が崩れるという人もいよう。だがこういうのは必要な進化というものか。
さて、今は14時過ぎ、ランチタイムは僅かに過ぎてしまった。
とはいえ決してメニューは高くはない。頼んだのはカレーライス、そして電気ブランサワーである。
カレーライスは平皿にご飯が盛られ、グレービーボートに欧風カレー。
付け合わせの福神漬けの赤さがやはり懐古的である。
スプーンで掬って口へと運ぶ。美味い、期待通りの味が口に広がっていく。
美味い欧風カレーもインドカレーも食べたことはある。ただ、これはそれらとは違う。カレー専門店やレストランではない、洋食屋のカレーであった。
次いで電気ブランサワーを手に。黄色い液体が手の中に収まるような小さなグラスに満たされている。
そこにレモンスライスとチェリーが帆掛け船のように浮いている。
グラスの縁にカクテルピンが差し渡され、そこに薄くスライスされたレモンがU字型に、その間にマラスキーノ・チェリーが留められているのだった。
カクテルピンはプラスチックのソードピック、ピクニックのお弁当、ウィンナーかカットされた果物に刺さっていると嬉しいあれである。
ピンを真っ直ぐ引き抜くと、レモンとチェリーが電気ブランの海に沈んでいった。
一口飲めば爽やかな甘味と酒精が広がる。
電気ブランは癖のある酒と言うが、こうして飲めば全くそれを感じさせない。
店を見渡す。
今日は平日、それも雨で今の時間は3時前。それでも客の入っている店内であるが、良い客層である。
客たちの話し声が聞こえる。だがそこに一切の不快さはない。
レストランの客の年齢層が高いのもあるだろう。
雷門の付近にたくさんいた中高生たちもない。
斜め前に座る爺さんが電気ブランを口にした。しばらくすれば待ち合わせをしていたのだろう、後からやってきた奥方と思しき白髪の女性がその前に座る。
多くの客が酒を嗜んでいるが、騒ぐ客もいない。なるほど、心地よい空間がここにはあった。
私は一杯を飲み干し、種のないチェリーを噛んで店を出た。
そして一階で土産物を買い、店を後にする。今日のもう一つの目的地に向けて東へ、吾妻橋を渡ろうとしたのだ。そして振り返った。
ああ、そうか。
アーケードがあるから店の外観は近くからは見えないのだ。離れなくてはこの建物は見えないのかと。
神谷バーに行くなら、吾妻橋交差点の斜め前、バーガーキングの店の前から見るべきだ。
そこには有形文化財に登録された、大正時代から続く黄土色の建物が雨に烟る浅草に佇んでいた。
神谷レストラン
カレーと電気ブランサワー
ランチセットとちょっとワイン








