夏の終わる日
その夏はあまりにも暑かった。
「現実、現実って、いつからそんなつまらないことしか言わなくなったの?」
頭の中で回り続けるあいつの声がこの暑さでそろそろ溶けて消えてくれないか、なんて思っても全くその予兆はない。
高校時代は充実していた、と俺は自転車を漕ぎながらぼんやりと思う。
滑り止めの滑り止めとして受けたつもりが他がかすりもせず、唯一の合格校となってしまい仕方なく入学した大学はユーモアも、人としての思いやりすらも持たない連中の集まりだった。
着ている服や話す内容すらもあまりにも似通った集団に居続けると自分のなけなしの創造性 (生きていく上で最も必要なものの一つだと俺は信じている) までも薄れて無くなってしまうように感じていた。
ためになると感じた講義は二つほどしかなく、入学してまだ半年しかたっていないのに、俺はひたすらつまらない日々に嫌気がさしていた。
でも半年ぶりに会ったあいつ曰く、すでに俺はつまらない奴らの仲間になってしまったようだった。
本来、現実的で冷静であるのは俺ではなくあいつの方だった。透き通るような白い頬を上気させているのは好物のミルクレープを前にした時か、ライブハウスの小さなステージに立つ俺を見上げている時だけだったように思う。
「、、だりー、、。」
自転車を停め、大学近くにある河原の砂利に座り込む。
あいつと俺の唯一の共通点は、音楽が好きだということだった。高校時代、1人静かに本を読んで過ごすあいつと、頻繁に授業を抜け出していた俺の組み合わせにクラスメイト達は首をひねっていた。
「ユーガタ、ファーストカー、」
トレイシー・チャップマンの歌は淡々とただ話しているように聞こえる。それなのに切なく、そしてきらめく。
なあ、この曲みたいに俺もこんなとこから逃げ出したら、もしそう出来たら、どうだろう。あいつは、俺と一緒に来るだろうか。
「おい」
「はい?」
「大丈夫か?」
「何のことですか?」
「いや、なんとなく。」
いつの間にか確かな自尊心を持った目をした男が目の前に立っていた。
「大丈夫ですけど。」
「そうか?いや、そんな訳ないわな。」
一体なんなんだ。
俺は意味の分からない男を、しげしげと眺める。
男が着てるのはジーンズにTシャツ。別に普通だ。
「それでさ、お前、ギター弾くか?」
「は?」
「なんか弾いて歌ってくれよ」
男は背負っていたギターケースからSJ-200を取り出しながら言った。
ますます意味が分からない。
確かに俺はギターを弾くが、それでも唐突だ。
「なんだ、弾かないのか。なら俺が先にやるよ。」
なぜか俺がギターを弾いて歌うことが前提のようだ。
まあどうせ自主休講で暇だし。いいか。
「なんかリクエストあるか?」
「、、、fast car。トレイシー・チャップマンの。」
「なかなか渋いな。分かった。」
男が歌い出した。かすれた、荒野を思わせるような良い声だった。
原曲とはまた違う。淡々とした哀愁を漂わせながら、それでいてなにかを掴もうとするような。
男が最後のコードを鳴らした。
「、、良い声ですね。」
「そうか?嬉しいね。」
俺にはこんな風に弾くことも歌うこともできない。
好きは好きでも、どうしても上手くやれない、誰かに勝てない、なんてことはあるのだ。いつでも。
「それで、お前は何を歌ってくれるんだ?」
やはり、俺がギターを弾いて歌うことは確定しているらしい。
「、、久しぶりだから、覚えてないけど。」
俺は男からギターを受け取ると、歌いだす。
脳裏に浮かぶのは、ギターの練習をする俺の横で気持ちよさそうに昼寝をしているあいつ。
最後のパートを歌い始める。そして俺はふと、気がついてしまった。
もしかすると、もう俺は、もう2度と、
いや、俺だけじゃなくてあいつも、
もう2度と、
同じ場所へは戻れないのかもしれない。
「、、良い歌だな。」
俺が歌い終わると男はギターを受け取り、俺の横に腰かけた。
太陽を反射してキラキラ光る水面は、次々に形が変わって、取り留めもないのに、掴めもしないのに、確かにそこできらめいていた。