35話 目を閉じてしまえば
鬼は一瞬自分が何を言われたのかよくわからなかったようだ。必死に俺が放った言葉を咀嚼し、そして目を丸くした。
「おい」
鬼の怒号が響いた。しかし、それ以上の言葉は続かなかった。
口を開いた鬼の首は宙を舞い、体を眺めることができる方向に転がり落ちた。首から勢いよく飛び散る血しぶきが顔にかかる。生臭い、この世界の中でどれだけ嫌な匂いがあるとしても、この匂いにだけはこの先敵うことはないだろう。
飛んで行った鬼の首はまだ瞬きをしていた。何とか体を動かして生きることへの希望を持とうとしているようだ。鬼はその目で自分の傷だらけの体を見ている。そこに一緒にいる俺のことも一緒に。鬼の目には恨みのような、悲しみのような様々な感情が交錯した複雑な目をしていた。
目を閉じてしまえば嫌なものを見ないでいることもできるだろう。
しかし、鬼はひたすら瞬きを続けていた。目を開け続けても、閉じてしまっても、動きを止めればすなわち死につながる。それをわかっているからこそ、全ての感情を置き去りにして何とか生き残ろうとしているのである。もしかしたら、女神さまの気まぐれで体が急に回復するかもしれないのだ。どこまでもあさましい生命力である。
もう鬼は何かをしゃべることはできなかった。口を動かしながら、乾いた音を立てているだけである。それも少しずつ動きが弱くなっていく。鬼が放とうとしている言葉はこの世界に響くことなく、鬼の口の中で消えていく。これまで人間を襲い続けた者にふさわしい、憐れな末路である。
やがて鬼の瞬きは終わった。
最後は眼を大きく開いたまま、その場ですべての動きが止まった。最後の最後まであきらめずこの世界にしがみつこうとしていたようだ。そこまでして生き残って何をしようとしていたのかわからない。何かしらの恐怖が彼を襲い続けていたのかもしれない。女神の制裁でも待っているのだろうか? 考えてみて馬鹿らしく思えた。
鬼が死んでしまったことを見届けると、俺の頭の中に鳴り響いて声が急におさまった。
「鬼を殺せ」
鬼と戦っている間ずっと鳴り響いては俺の意識を鬼の方に向けさせていたあの声、結局誰の声だったのかわからない。自分の声だと言われれば納得もしてしまいそうだが何かが違う声の持ち主。この声によって体の意識も集中されていたような気がする。女神に出も後で聞いてみよう。
俺は叩きの終わった戦場をぐるりと見まわしてみる。傷だらけの戦場となってしまったこの部屋は今では恐ろしいほど静寂に包まれている。これが本来この洞窟のあるべき姿なのかもしれない。それが鬼とあの男の手によって侵されてしまっていた。鬼の体からあふれ出る異臭だけがしぶとくまだその存在を知らしめようとしていた。
俺は飛んで行った鬼の首のもとへ近寄る。死んでもなお眼光のみ強く光らせている鬼の顔は、前にいた世界で見た銅像を思わせた。
首を持ち上げてみる。
切り傷からたまっていた血が流れ落ちた。鬼の顔は俺の顔の倍くらいの大きさはあり、片手で持ち上げるには少々重すぎた。ついさっき俺がこの首を切り落としたのだという事実がなぜだか嘘のように思えてしまった。
鬼を目の前にした時のあの熱くなるような感情は今ではすっかり冷めてしまったようだ。鬼の首を持っている俺がいるという事実だけが、俺がこの鬼を倒したのだということを俺に教えていた。
鬼の瞼を閉じてやろうとしたが、どういう訳かもう固まってしまって目を閉じてやることはできなかった。死んでもなおこの世界のことを見続けているようでなんだか怖かった。目を開けたまま動くことができなくなった鬼の姿はますます銅像のように思えた。




