16話 飛び越えるに決まっているじゃない
目の前に川が流れていた。
狐が説明してくれた、森の中に流れている二本の川のうちの一つだ。夜の闇の中で鮮明に見るとはできないが、川を流れていく水の音が終始響き渡っていた。
「男の住みかはこの川の向こうにあります」と狐は言った。
川の幅は結構広い。股を開いても渡れないだろう。川を越えるには飛び越えていくしかない。今は服の替えもないから川に落ちてしまう訳にもいかない。ここにきて試練がやってきたようだ。
「どうやって渡るんだ?」と俺が訊ねた。
「普通に飛び越えるに決まっているじゃない」と女神は、すました顔をしながら言った。
俺は川の周りの岩を足で確かめてみる。足で触れると、岩はじめっとしていて滑りやすかった。はたしてうまく飛び越えられたとして、無事でいられるだろうか……。
なんて、考えている間に女神と狐は先に川を越えてしまっていた。狐は何も障害などなかったかのように軽やかに川を飛び越えていく。やっぱり80歳は嘘なんじゃないかと思った。女神は気付いたら川の向こうにいた。
「早く来なさいよ」と女神が催促してくる。
「そっちは滑りやすくないのか?」と俺は川の向こうの女神に訊ねた。
女神はそれを聞くと足で岩をなでた。そしてちょっと考えてから俺に答えた。
「けっこう滑りやすいけど、あんたなら大丈夫なんじゃない?」女神は何と無責任なことか。「まあ、私はひょいっと転移しちゃったから分からないけど」
その言葉を聞いて、もう叫ぶ気力も起きなかった。女神とは何でもありなのだ。女神がけがをすることなんてありえない。だって有形・無形になるのも自由なのだから。その理不尽さを思って俺はため息をついてしまった。
しかし、そんなことばかりしていても何も解決しない。俺はこの危ない足場を乗り越えなければいけないのだ。大丈夫、俺は新しく力を手に入れたじゃないか、何度も自分に言い聞かせる。心臓の鼓動の音が川の音と共に耳に響く。
俺は大きく息を吸った。神経を足に集中させる。そして川の向こう岸にしっかりと着地できている自分の姿をイメージした。その中では俺はもう向こう岸にいる。自分でも笑ってしまうようなどや顔をしている自分がいる。大丈夫だ、何も問題ない。俺はもう一度足元の岩を足で撫でてみる。石はあいかわらず湿り気を帯びていた。でも、それだけだった。
「いつまでそこにいるのよ」と女神がまた催促してきた。
「今行くよ」と俺は返した。分かっている、もう行く。
俺は何歩か後ろに下がって助走のための距離をとる。そして足を踏み込んで走った。一歩、二歩、三歩。湿った岩で滑りそうになる足に力を込めて、俺は川に向かって踏み出した。体が宙を舞う。上から見える川は暗い闇色に染まっていた。水の流れが闇に変化を与えている。体は前に、前に宙を切っていく。女神たちの姿が小さく見える。どうやら俺はかなりの高さを跳んでいるようだ。幹しか見えなかった木の枝まで見えてしまう。
だんだんと体の高度が下がる。跳んでいるあいだは時間の流れがゆっくりに感じられた。地上と空中では時間の流れが違うのかもしれない。森の中の規則ならあり得るだろう。ゆっくりと着地の準備が進んでいたが、実際に着地する瞬間はあっという間だった。少しでも体が地面に着いた瞬間に、時間の流れは地上のものに切り替わってしまうようだ。
着地の瞬間すべることはなかった。そもそも、着地した地点はもう岩場ではなかった。乾いた土だった。川はどこに行ったのかとあたりを見渡してみる。水の音は後ろから聞こえてきた。
「あんた、跳びすぎよ」と女神が後ろからやってきて言った。振り向くと狐と一緒に俺の方まで追いかけに来ていた。
「こんなに跳ぶつもりじゃなかったんだけどな……」
「あんたはいま、力を持っているの。もっとちゃんと制御できるようになってもらわないと困るんだからね」
制御できるようになれと言われても、今日身につけたような力だ。すぐに制御しろと言うのは無茶な話だ。俺は女神にとりあえず謝っておきながら先に進むように促した。
狐が言うには、男の家はもうすぐのようだ。
再び狐を先頭にして、木々が広がる道を歩き始めた。




