9話 さようなら。
その鈴の音は始めはかすかに聞こえてくるだけだった。りん、りんという音が森の中の様々な音と共に耳の中に入って来た。別に気にしないでいようと思えば無視できる類の音だ。しかし、その音ははっきりとこちらに向かって近づいてきていた。
りん、りんとリズムを刻むたびに存在感が増していく。そしてその音が近づくたびにモモの体が震えた。まるで何か見えない恐怖におびえているようだった。モモは決してその音のなる方向を探そうとはしなかった。
鈴の音が一段と大きくなる。もうその音は森の中の一つの音とは考えられなかった。自然の中の音とは明らかに違う。自然が本来持ってはいけないような悪意をその音ははらんでいた。そしてはっきりと誰かに伝えるために鳴らされていた。ここにいる俺たちに……。
「行かなくちゃ」とモモは我に返って言った。
モモは俺の体から離れようとした。「荷物を取ろうとしたことはすみません。どうしようもなかったんです」
「それはもういいんだ」と俺は言った。そんなことよりも大切なことがあった。
「モモ、お前モモなんだろ?俺だよ、太郎だよ、覚えていないのか?あんなに一緒にいたのに」
俺はモモの手を離さなかった。その間にも鈴の音はどんどん大きくなってこちらに近づいてくる。「何をしているんだ?」と問い詰められるような気持ちになる音だった。少しずつ俺たちの時間をむしばんでいこうとしている。
「すみません、やっぱり思い違いです。私の中にはそんな記憶はないみたいです」とモモは立ち上がりながら言った。
モモが立ち上がった時、膝に擦り傷があったのが見えた。その痛みに少し顔をゆがめたような気がしたが、モモはすぐに表情を元に戻した。まるで俺に気にかけさせないようにしているようだった。
「嘘だろ」と俺は言った。どうしてもモモの言っていることが信じられなかった。
モモはそれに対して何も言い返さなかった。ただ黙って下にうつむいていた。
「さようなら。お元気で」
そういってモモは俺の手を振りほどいた。もうすでに鈴の音はだいぶ近くまで来ていた。その音はモモを迎えに来ている音だった。「どこに行ったって見ているんだぞ」言葉にはならないが、はっきりと鈴の音はそう伝えていた。
そのままモモは走って鈴のなる方へ走り出した。さっきまでのスピードはそこにはなかった。足をもつれさせながらふらふらと歩みだしていく。
俺は追いかけることもできたはずだが、立ち上がることができなかった。突然力を使って走ったので体が疲労していたということもある。しかし、それ以上にモモが行ってしまった衝撃が大きかったんだと思う。
走り去る中で、一度だけモモはこちらを向いた。彼女は何も言わなかった。ただ、その目には涙が浮かんでいるように見えた。しかし、一瞬だけこちらに顔を向けると、そのままモモは走り去っていってしまった。俺はそのモモに何か叫ぼうとした。でも何も言葉が思いつかなかった。ただ言葉にならない声を出しただけだった。
そのまま彼女は行ってしまった。
薄れ行く後姿の中に、モモの他にもう一つの影が見えた。それがどんなものなのかわからない。しかし、モモよりも大きそうだ。その者と一緒にいるモモの後姿は何かとても小さく見えた。
そのままその二つの影は森の中に埋もれてしまった。
俺は何もすることができずにただその場にいた。




