4話 本当に行くんだな?
長老の体はよく見ると小柄でありながらもよく引き締められた体だった。さっきから一つ一つの動作に無駄がない。それでいて人々からまったりした人なんて言われるのだから不思議だ。上手く隠しているのだろう。
長老は壁まで来ると思い切り床を踏みつけた。家の中は乾いた破裂音が鳴り響いた。あまりにも突然すぎる行動だった。それまで高ぶっていた感情がどこかへ飛んでいく。俺は長老の開けた穴を見ようと近づいてみる。
「見ろ」と長老が呼んでいる。長老があけた穴の下には大きな線が一本引かれていた。円の一部のようだ。その線は穴で見える範囲を超えて大きな円を描いているらしい。
「これは?」と長老に訊ねてみる。
「いわゆる結界というやつだな」
「結界?」
「そうだ。この周りに柵があっただろう?それに合わせて張ってある。鬼が来ないようにするためにな」
「そんなことできるのか?」
「誰にでもできる訳では無い。代々、長に選ばれた者だけが身に付けることを許される」
それもわしの代までだがな。長老は乾いた声で言った。
「せがれは……死んだよ。鬼退治に行くと言ってな。力があるからと過信して無謀にも旅立って散っていった。もう結界の力を継げるものはいない」
長老は俺の顔も見ずに言った。誰よりも身近な人を守ろうとしていたのはこの人だったようだ。長老は肩を震わせていたが、顔を上げて俺のことを強く見上げた。そしてはっきりと声の照準を合わせていった。
「桃太郎よ。本当に行くんだな?」
俺は強くうなずいた。もう後には引かないと決めていた。その様子を見て長老は一度うなずいた。
「わしはこの集落を守ることはできる。……生きている間はな」長老は少し背伸びをして俺の肩をつかんだ。彼の目は潤んでいた。「だから、早く鬼を退治してくるんだぞ」長老の力はやはり強かった。
もう一度おばちゃんが長老の家に戻って来た時には、長老はもう、まったりとしたおじいちゃんに戻っていた。
「なんか大きな音がした気がしたんだけど、大丈夫だった?」
「ああ、大丈夫じゃよ。ちょっと桃太郎殿が力みすぎてしまっただけじゃよ」
おばちゃんは俺のことを見て笑う。何か言い返そうと思ったが、俺が何か言ったところで、信じてもらえないだろうと思ってやめた。彼女にとっては、長老はあくまでまったりしたおじいちゃんなのだ。そのイメージが覆されることはない。彼はその心の中にある闇と共に人々から隠してこの先も生きていくのだろう。
「それじゃあ、もう行くよ」
俺は長老の方を見て言う。遅くなる前には出発したかった。長老とも早く帰ると約束したのだ。もう時間を無駄にするわけにはいかなかった。
「頑張るのじゃよ」
あっさりとした一言だった。それだけ言って長老はまた穏やかな笑みを浮かべていた。それでもその一言にすべてがこもっていた。一瞬だけ長老の目が垣間見えた気がした。その瞳は俺の姿を焼き付けているのだろうか。俺も眉に隠れた瞳を見つめて微笑んだ。
長老の家を出た時、空の色は赤み始めていた。集落を抜けると森がある。今日はそこで夜を明かすことになりそうだ。
「今日くらいは止まっていけばいいんじゃないの?」おばさんは心配そうに言った。
「いや、少しでも早く出発したいんだ」
「そうかい。それなら気を付けていきなよ。夜の森は何かと危険だからね」
そうだ。これから先は長老の結界から外れた世界なのだ。何が起こるかわからない。
「それから、森の中で変なおじさんに遭遇したら、絶対に関わるんじゃないよ」おばさんは思い出したように言った。
「おじさん?」
「そう。やばい奴が森の中に住んでいるのよ。……もともとはここの住人だったんだけどね。何を思ったのか急に飛び出して行っちゃたのよ。『ここにあるのは偽りの平穏だ』とか何とか言ってね」
偽りの平穏、その言葉が妙に引っかかった。だけど、そんな存在に足を止めるわけにはいかなかった。俺はこの森を越えなければいけないんだ。
「まあ、出会った時はその時に考えるよ。何と出会っても鬼よりは怖くないでしょ」
俺はおばさんに笑いかける。そうね、なんておばさんも笑う。旅立ちにこれ以上の不安は必要なかった。俺とおばさんは手を振り合って別れを告げた。俺は結界の外へ出る。ここから先はもう自分の身は自分で守らないといけない。本当の戦いが始まるのだ。結界の外の風はさっきよりも肌寒く感じた。
おばさんはいつまでも手を振ってくれていた。そのシルエットが見えなくなるところまで俺は歩いていく。目の前には森が広がっていた。
暗い夜が顔を出そうとしていた。
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