9話 心配しなくてもよい
夜が訪れた。おばあさんは朝に出て行ったきり帰ってこなかった。
「きっと、桃太郎の発言がよほどショックだったんじゃろう。きっと大丈夫じゃ、心配ない」
心配している俺に、おじいさんは落ち着いた様子で言ってくれた。さすが長年の付き合いというものだ。おじいさんが大丈夫というのならば大丈夫なんだろう。その言葉には不思議な説得力があった。
俺は旅支度を整えていた。と言っても一日で準備できるものなんて限られたものしかなかった。そもそも鬼退治に行けと言われても何を持っていけばいいのかなんてわからなかった。不親切な女神は使命だけ押し付けてそれきり何の助言もない。昔話では桃太郎はどんな準備をしていたか思い出そうとしてみるもうまくいかなかった。思い出せるのは豪華な服装ときびだんごを携えて、おじいさんとおばあさんに見送られる姿だけだ。
――今の俺とは正反対だな。
ふと出てしまった独り言。寂しく明日のことを思う俺は明日から鬼退治に出かけるんだ。言葉は誰にも聞かれずに静かに空気の中に消えていった。家の中には今は俺しかいない。おじいさんは外で薪を何やら動かしているようだった。俺の鬼退治については特に聞いてくる様子もない。その無関心さがありがたいと同時に、俺の心を揺さぶっていた。
俺はいったい何のために鬼退治に行くのだろうか。この世界を守るためだと女神は言っていた。そのために俺はこの世界に生まれてきたとも。しかし、俺はこの一年の間だけで守りたいものできていた。そんなものを悲しい思いをさせてまで鬼退治に行くべきなのだろうか。長い間女神の事を信じ続けていた二人に、この仕打ちはあまりにも寂しいものなんじゃないのか……。俺の頭のなかは同じ問いをずっと繰り返していた。
おじいさんが家の中に入ってきていた。大きなあくびをしている。だんだんと夜も更けてきた。家の中に入って来る秋風は昨日よりも少し肌寒い気がする。
「桃太郎や」おじいさんが話しかけてくる。
「はい」
「……本当に行くんだな」
俺は答えを口に出すことができなかった。ただ黙ってうなずいた。自分の答えを声にするのが怖かった。おじいさんは腕を組みながら俺の前に座った。そして言った。
「そうか。それが女神さまの宣告であるというのであれば、わしにももうどうしようもないことなのかのう」おじいさんは何やら考え込んでいる。「桃太郎がはじめてここにやって来た時、わしらは確かにこれは女神さまからのお召し物なんだと確信していた。長年二人で女神さまのことを信じ続けていたからのう。女神さまの願いであればどんなことでも聞こう、そう二人で誓ったもんじゃ」
俺はただ聞いていることしかできなかった。おじいさんの話はさらに続く。
「だからのう、桃太郎が今日女神さまからの夢を見たといった時には、ついに来てしまったか、と思ってしまったんじゃ。やはり桃太郎が来たことには何かしら意味があったんじゃと」
「だからおじいさん、あまり慌てていなかったんだ」
「そりゃあ、わしだって驚きはした。じゃがな、心の中ではどこか覚悟していた部分もあった。……問題は婆さんの方じゃ。婆さんも心のどこかでは覚悟してたはずなんじゃが、いかんせん桃太郎のことをかわいがっていたからのう。現実を受け入れるのが難しかったんじゃろうな」
俺らは黙ってしまった。何か言った方がいいんだろうが、なんて言葉にしたらいいのかわからなかった。こんな大事なシチュエーション、今まで体験したことがなかった。人付き合いに関しては俺は1歳とほとんど同じなんだ。結局、またおじいさんが切り出してくれた。
「桃太郎」
「はい」
「……行ってこい。女神さまからのお願いじゃ。しっかりと使命を果たして来るんじゃぞ」
「おじいさん」
「婆さんのことは心配しなくてもよい。婆さんだって本当はわかっておる。たださみしいだけじゃ。……だから」
そこまで言うとおじいさんは言葉を止めてしまった。彼の目には涙が浮かんでいた。
「だから、必ず無事に帰って来るんじゃぞ」
おじいさんは俺の手を取った。そして強く握りしめた。それは、今まで触れあってきたどんな手よりも力強く、温かかった。俺もおじいさんの手を握り返す。そうやって二人で熱を共有する。それだけで俺たちの思いは伝わっていた。俺は今度も言葉にできなかった。伝えたい言葉はあった。だけど、言葉より先に嗚咽になってすべてかき消されてしまっていた。
部屋に差し込んだ月の光は、いつまでも俺らのことを照らし続けていた。
おじいさんのボイスが平泉成で再生されてます。




