13話
水面から噴き上がるように鼠色のタールのような、ネバついた何かが確認できる。
「何だ?こんなの見たことがないな」
「私にも分かりかねます」
俺の呟きにヴァルケンが答える。
「取り敢えず破壊した方がいいだろうが、普通の攻撃が効くのか?そもそも」
水面から浮かび上がるように床へと乗り上がったソレは、粘液と言うよりはファンタジー小説に出てくるスライムのようだ。
体内に幾つかの核があるようで、大きく脈打っている。
「まるで、増殖しているようにも見えるが……」
ラースの言葉に、心中で同意する。
確かに体積が増えている。体が拡大しているのではなく、体の内側から噴き出しているように見える。
「ヴァルケン!」
ヴァルケンは俺の呼び掛けに応えるように、一度手を叩く。
粘液を襲う容赦のない天から堕ちる爆炎の螺旋。
一般人に見られただろうなー、と思いながら、記憶消去の算段を脳内で始める。
「今みたいな密閉空間だと、かなり体感温度が上がるな。室温もそれなりに上がってると思うけど」
「そうか?」
首を傾げるラースを見ながら、認識の違いの原因を思い出す。
「確か、鬼神は暑さに強いんだったな」
「その通りだ!」
ラースから粘液のあった場所へと視線を戻す。
水面は沸騰しているのか水泡が浮かび上がっている。そして、粘液は見えない。
だが、異質の魔力は消えていない。気配が薄いのではなく微小であることから、擬態が上手い訳ではなく、先程の炎で体を焼かれ、小さくなっているのだろう。
「手加減していたとはいえ、ヴァルケンの炎を受けて消滅しないとは厄介だな。無駄に生命力が高いと見える」
「不甲斐ないばかりです」
ヴァルケンに「気にするな」と告げると、水面へと一歩近付く。
「やっぱりか」
思わず呟く。
水面に鼠色の粘液が急激に増殖し、俺を覆うように襲いかかる。
「無駄だ、"歪宮"」
襲いかかる粘液は、俺の周囲の歪みを越えることはできず、逆に歪みに呑み込まれるかのように捻れているが、不定形物質であるため意味をなさない。
恐らくこの粘液は、宿主を必要とするタチの悪い感染症の様なもの。誰かがエンツォに埋め込んだのか、もしくは偶然体内に宿していたかは現時点では定かではないが、この世の存在ではない以上、最善の対処方法を知り得ない。非常に厄介だ。
「纏わり付かれたがどうすればいいと思う?」
「帝様、そのままで」
ヴァルケンが二度手を叩く。
それに従うかのように、紅蓮と漆黒の絵の具を混ぜたような色彩を放つ焔が粘液を焼き尽くす。
ヴァルケンが上手くコントロールしてくれているようで、歪みには接触していない。まあ、任せろ!みたいな雰囲気を出しておいて、これで俺まで焼き尽くしたら文句を言うところだけどな。
焼き尽くされている粘液は徐々に体を収縮させている。ヴァルケンの焼却する速度が粘液の増殖速度を大幅に上回っている証拠だ。
勿論、これでもヴァルケンは手加減している。もし、ヴァルケンが全力全開の全身全霊で攻撃したのであれば、粘液と俺だけでなく周囲一体も焼け野原になるだろう。
ましてや、認識阻害をかけるために能力の大半を封じている現在の俺なら防ぐ手段すら持ち合わせていない。
封じられし力と同時に魔眼というフレーズまでもがちらりと頭をよぎり、厨二病疑惑が俺の中で持ち上がる。
「帝様、帝様の周囲に群がる害虫の駆除が終わりました」
近付くヴァルケンとラースに心中の疑問を吐き出す。
「俺って、普通だよな?多少、性格はアレだが、常識の範疇にギリギリ入ってるよな?」
「ハハハハハハハッ!愉快なことを仰いますね」
「…………」
ヴァルケンはキャラでもなくアメリカンな笑い声を上げ、ラースは菩薩のような穏やかな表情を浮かべ、そっと視線を逸らす。
たったそれだけでヴァルケン達の俺への評価の全てを察する。
個人的な総評では、僅かにクレイジーな部分もあるが、右足の小指の爪先くらいは辛うじて常識や当たり前、普通の領域の中に存在していると思っていた。
「まっ、まあいい。このスライム?みたいなウニョウニョを処理したし帰るか。念のために、明後日くらいにエンツォを引き揚げとけよ」
「日が変わってしまいましたが、今日ではないのですか?」
「今日?何で?」
「いや、だって帝。流石に海に沈めたままってのは……」
ラースの明らかに引いている表情に全く堪えないこともないが、そこまで精神的な外傷はないため即座に言い返す。
「多分、と言うか間違いなくだが、あのキモいのってアイツから出てきたヤツだぞ。なら、誰がエンツォを引き揚げるんだよ。今ってなったら間違いなく俺らの中の誰かだぞ。少なくとも俺は嫌だぞ」
そう言いながらも、ヴァルケンとラースの嫌そうな表情を目にし、ため息を吐きながら先程の黒い歪な影のようなモノに引き揚げさせる。
引き揚げられたポリバケツは粉々に砕け、原型を留めていない。
エンツォだった物は石像のように粘液と同じ鼠色へと変色している。
「やっぱり、お亡くなりになってたな」
「そのようですね」
ラースが足でエンツォの変色した遺体をつつく。
「どうやら、本当に石像になってるみたいだぜ!岩石みたいに硬くなってやがる」
「みたいだな」
実際に指でつついて確認するが、本当に硬い。
これはどういうことだ?
宿主を殺して、もしくは死んでから増殖するのか、宿主の体をゆっくりと侵食しながら増殖するのか。
もし、これが前者だった場合、我が家の地下に仕舞ってあるバリシャの遺体にも何かしらの異変が起こりうる可能性が高い。
そして、海中へ潜った核の一つが大きな問題を引き起こす可能性がある。
無意味に海中を覗くが、一切の光のない暗闇しか見えない。
「ヴァルケン、ラース、お前達は先に帰ってろ」
「帝様は?」
「俺は逃げた核を追っかける!家の死体がヤバイかもしれない!テラがいるから真美は無事だと思うが念のために帰ってくれ」
「かしこまりました」
「分かったぜ!」
ヴァルケンとラースは大きく頷く。
「送り迎えはいるか?」
「必要ありません。空間転移を使わずとも帰る手段はありますので」
「そうか」
ヴァルケンはポケットから黒い小型のリモコンを取り出し押す。
広大な倉庫内の床の一部が回転を始め、中央から裂けるように空間が広がる。その下から現れたのは一台の黒い光沢を放つコンパクトカー。
「こんな物もあったな」
「ええ、あらゆる状況にも対応できるよう、準備は常に万端しておくのが私の役目ですので」
「そうか、決して誰かに見られるなよ」
「この車体にはステルス機能がついておりますので、そのような心配は不要でございます」
「ならいい」
俺はヴァルケン達の乗ったコンパクトカーを見送るが、出発前に透明になってしまったため、適当に手を振っただけだ。
見送れていたと思う。多分。
「よし!」
俺は気合いを入れるように、頬を思いっきり叩く。
少しずつ封じた力を解放していく。
沸き上がる、誰よりもよく知っている魔力。第三者に感知されないように体内に魔力を押し込める。
胸が焼き焦げるかのような痛みに襲われる。肺は潰れ、両手は裂け、視界は赤く、両足は砕け、頭はひび割れる。
喉に濁流のように溢れる絶叫を意思で堪える。
そして、気付く間もなく意識は薄まり、消えていく。
意識を手放してどのくらい経っただろうか。
窓を見れば未だに夜空が広がっている。数十分程度だろう。
俺の体に異常をきたした原因は予測するまでもなく分かっている。長らく封じ込めていたせいで、体が膨大な魔力に耐えれなくなっていたのだろう。
このことは、最初から分かりきっていたことだったとはいえ、俺の後先考えない性格が招いたこと。つまりは、俺のせい。
言い訳させてもらうとするなら、ヴァルケンやラースにテラがいたし、俺が力を振るう必要はないだろう。俺まで戦ったら相手が可哀想だろう。絶対にオーバーキルだろう。と言うか、働きたくな──ではなく、自分のためではなく、他人のためを考えたがための苦渋の選択なのだ。本当に胸が痛い。今にも心臓が張り裂けそうだ。
いろいろと保険をかけたが、要は俺まで戦わなければならない程の強敵が現れるとは思っていなかったということだ。
今の俺の体を循環する魔力量を魔力操作で確認する。
「まあ、この程度か。久しぶりなんだから、上々とも言えるかもしれないな」
二、三年前の三割にも満たない魔力量ではあるが、大抵の異能力者相手では誇張なしで人差し指だけで木っ端微塵にできる。
水面へ歩み寄り、自分の本当の姿を久しぶりに確認する。
星空の一切存在しない夜空のような長い黒髪、煌々と輝く深紅の瞳、蝋のように病的な白い肌、美しい造形品でさえ塵に感じる程の均整の取れた顔立ち。そして、それを上回る程の感情の感じられない虚ろで目付きの悪い瞳。
自分で言うのもアレだが、目がもう少しソフトでマイルドだったらモテてたと思う。多少はね、多少は。
そのようなしょうもないことを考えていた自分自身に呆れたため息を吐き出す。
モテるモテない云々は別問題として、まずは逃げられたスライム擬きの核の始末が優先事項。力が戻りきれていないことと、新たな力の封印と認識阻害は後日考えよう。
ジョーカーか和尚辺りなら何か知っているだろうし。
海へと手を翳す。
水面が波打ち、一面の黒い世界に光が差す。
スライム擬きの核は目視で確認することはできない。だが、魔力感知可能範囲の圏内からは出られていないらしい。
そして、今になって気が付いたが、核が二つに分裂している。そして、二つから四つへ。
体内の魔力を練り、指先から弾丸のように放つ。
核の一つに命中し、核は霧散する。
二発目の弾丸も核を穿ち、三発目は核を砕く。
四つ目の核を念動力により、海中の奥底から眼前の虚空まで浮上させる。
浮上させられた核は、正四面体のキューブの形をしている。手のひらに収まるサイズのキューブを掴み、じっくりと観察する。色は白雪のように白く、触った感触は非常にツルツルとしている。
魔術で解析してみると──
「想像してたよりヤバい代物っぽいな、これ」
このスライム擬きは、宿主に寄生した後、ゆっくりと時間をかけることなく、短時間で宿主に気付かれることなく体を蝕む。
神経や臓器を経由して身体中を侵食していくため、体内から取り出すことは殆ど不可能。早期の対処が行えなければ、数週間で死に至る。
こんな危険物を寄生させた人物は誰かは分からないが、間違いなく存在する。
仮にも、魔国魔王直属魔術大隊団長なんて大層な肩書きを背負っている訳でもないだろう。三流以下の悪党のような奴だったが、それなりに頭は切れる上に、力が制限された状態であそこまでの力を有していたのだから実力もそれなりに高いと見ていい。警戒心は、……まあ、うん、これくらいでいいだろう。
結論、警戒心が皆無のエンツォは、いいように騙されるか丸め込まれるかして、この白亜のキューブに寄生されたのだろう。
いろいろとああだこうだと考える必要はなかったな。今までのエンツォから感じ取った人間性や性格を考慮すれば、熟考することはなかったと思う。
不意に、「常に答えは目の前にある」という誰かが発したテレビで偶然聞いた言葉を思い出す。
「んっ?」
手のひらに何かネチョネチョとした、気持ちの悪い感触が襲う。
視線を向ければ、キューブの表面から鼠色の粘液が溢れている。
その溢れ出た粘液は俺を喰らうかのように、覆うように広がるが、同じ轍を踏むつもりはない。
「歪宮」
俺の呟くような声に従うように、粘液は手のひら上に浮かぶように球状に収束する。
わざわざ、技の名称を言わなくてもいいのだが、口にした方がイメージ補完が上乗せされるとか、そんな理由で技の精度が上がるらしい。
俺の場合は、別に技の名称を言う必要はないのだが、技を知られた相手と戦う場合、違う技の名称を叫べば一種の不意討ちになるからというのと、以前、聖王協会に所属していた頃に格好つけていたませていた頃の癖が染み付いたままという、どうでもいい理由だ。
技とは、自らの持つ異能力の特定の使い方や派生したものだ。より簡単に言ってしまえば、炎を発生させる能力を持っているとして、発生させた炎を球状にして相手にぶつけたり、ビームのように一点に集中させて放出する、その一連の流れが技である。
誰かの技を見よう見まねで真似たり、教わったりすることもあるが、基本的には自らで生み出すことが多い。名家になればなる程、一家相伝の技だったりがあるらしいが。
故に、名称は同じなのだが全く違う技も、かつては多かったらしい。
俺もジョーカーからいろいろと教わっていたのだが、数百年前では日常茶飯事だったようだ。
「さて、コイツをどうするか」
俺は人差し指で鼠色の球体をつつきながら考える。
今すぐ処理するべきなのだろうが、正直、このスライム擬きへの好奇心もそれなりにある。この粘液にそこまで期待している訳でもないが未知の物体であるため、この世界には存在しない法則や現象に可能性を見つけることもできるかもしれない。
俺の手で解明させるのもいいが、ジョーカーに恩を売るという体で押し付けるのも一つの手だ。情報は後から聞き出せばいいし。
俺は足元に直径二十センチにも満たない翡翠のような色をしている正四面体を出現させる。
これは碧箱という、俺の設計した量産型の魔道具の一つ。名前通り、薄緑色をした箱。箱の表面には一面の菱形の紋様が彫られている。
この箱の能力は、異能力や異能力を宿した物質の封印。勿論、封印可能な限度はあるが、このスライム擬きなら問題ない。
鼠色の球体をゆっくりと、碧箱へと近付ける。
球体が碧箱に触れた瞬間、僅かに球体から悲鳴のような音が聞こえたが、何事もなかったかのように吸い込まれる。
確認のため、何度か碧箱をペシペシと叩くが異常は見られない。ちゃんと作動したようだ。
そして俺は家へと転移する。




