ハビの血
食堂に設置されたテレビ。
労働者たちはその前に群がり、食い入るように画面を見つめている。
5月半ばの、からりと晴れた野球場。
打席には、彼ら労働者と同じメキシコ出身の選手が立っている。
名前はホセ。
22歳と若手ではあるが、期待の有望株としてチームから推されている選手だった。
画面越しから、彼の緊張した様子が伝わってくる。
固い表情に、震えた唇。
労働者たちも、固唾を飲んで彼を見守っている。
3球目の球だった。
ホセの豪快なスイングが、投手の豪速球を捉えた。
鈍い音が、球場に響いた。
ボールは、右中間の芝生の上に衝突し、勢いよく転がっていく。
一塁ベースを全速力で駆け抜けたホセは、続く二塁ベースに足から飛び込んだ。
その瞬間、食堂では男たちの全員が、飛び跳ね、抱擁を交わし、歓声を上げた。
「俺たちのホセがやりやがった!」
「今日は素晴らしい日だ!」
「これで昼の仕事にも弾みがつくぜ!」
各々が、彼の活躍をまるで自分の手柄のように、誇らしく語っている。
もっとも、彼らの中に、ホセと面識のある者はいなかった。
彼らがホセを応援するのは、彼が自分たちと同じメキシコ出身の人間だからだ。
ホセの活躍は、彼らに、彼らの置かれた不遇な環境と、鬱屈した感情を忘れさせてくれた。
19歳のハビも、その例に漏れなかった。
彼が、ホセのファンになる理由は、たくさんあった。
年齢が近いこと。
野球の才能に恵まれていること。
顔が美しいこと。
若くして大金を手にしていること。
そして、非常に信心深い人間であること。
とりわけ、最後の点が、彼がホセを気に入る最大の理由となった。
ホセが自身の信仰心を露わにしている様子は、よくカメラに引き抜かれた。
打席に入る度に、ヒットを打つ度に、守備につく度に、彼は神に祈りを捧げた。
その振舞いは、多くのアメリカ人から好意的な目で見られた。
ハビも、いつの頃からか、彼の信心深い振舞いを真似るようになった。
ハビもまた、熱心なクリスチャンだったから。
建設場では、労働者たちが汗を流して働いている。
彼らの汗を養分に、ニューヨークの地面に、またビルが一本生えようとしている。
もっとも、一旦、ビルが完成すると、彼らはもうそこには近づかない。
ビルを建てる者と、それを使う者とでは、身分も暮らしも全く異なっていた。
その日のハビの労働が終わりを迎えた。
彼は、十字を切って神に祈りを捧げた。
そして、今日も何事もなく、無事に一日を終えられたことを神に感謝した。
彼は、幸せな気分だった。
ハビたち労働者が働く建設場の近くで、イスラム教の集団が祈りを捧げている。
彼らもまた、篤い信仰心を露わにしていた。
だが、ここでは、彼らムスリムを自分たちの敵だと考える人間が少なくなかった。
中には、彼らに対して、公然と罵倒の言葉を口にする者もいた。
一人の無礼者が、食べかけのソフトクリームを彼らに投げつけた。
一人のムスリムの背中にソフトクリームが命中した。
被害者のムスリムは怒り狂い、加害者に詰め寄った。
続けて、二、三のムスリムも祈りを中断して被害者の男の加勢に入った。
激しい口論が始まると、すぐに殴り合いの喧嘩が始まった。
喧嘩を止めようと必死に彼らの間に割って入る七、八人の通行人達。
その中には、労働を終えて帰路に向かうハビの姿もあった。
一人のムスリムの振り上げた拳が、ハビの顔面を直撃した。
ハビの口から血が流れた。
ハビは痛みを我慢して、喧嘩の仲裁に尽力した。
一分も経たない内に、銃を持った二人の警察官が彼らの目の前に姿を現した。
警察官は、厳しい口調で喧嘩の当事者たちに詰め寄り、尋問を行なった。
ハビは、喧騒の現場から足早に離れると、まっすぐ帰路に向かった。
その途中で、彼はもう一度、神に祈りを捧げ、神に感謝した。
大きな怪我をすることなく、喧嘩の仲裁に貢献できたことを。
唇はヒリヒリとして痛かった。舌で舐めてみると、血の味がした。
神経が、彼を支配していた。
痛みや苦労を経験することは、彼の望むところではなかった。
ハビは気付いていた。
彼の祈りは、どれも彼の神経に都合が良いことばかりであることを。
もしかすると、神経が、彼に信仰心を植えつけたのかもしれない。
彼は、キリストとは違った。
彼の血は、彼自身のためだけにあった。
彼もまた、孤独で憐れな人間だった。