1
「俺の名前は——————」
私にむけて手を差し伸べてくれる人を見つめながら、私は心の中で呻いた。
——————この世界は狂ってる
***
私が異世界に来てから3年たった。
高校3年生の初夏、竜巻に巻き込まれて「もう死んだ」と思ったら、知らない世界の森の中にいた。
なにそれ、オズの魔法使い??てなもんだけれども。
私はそこで倒れていたところを、黒髪イケメンの『サシ』という人に拾われた。
私は瓦礫やら木っ端やらで身体中怪我をし、左腕も骨が折れている状態で、さらに地球では見たこともないような大きさの獰猛な獣に襲われそうになっていたところ、颯爽と現れ、あっという間にバッタバッタと獣を倒して助けてくれたサシに手当てをしてもらい、事情がわからずパニックになっている私を落ち着かせ、この世界のことを教えてくれた。
この世界はエルフォービアという。とか。
稀に異世界から飛ばされてくる人がいる。異世界から来た人を渡客と呼ぶが、ほとんどが遺体で発見されている。
所持品や服装でエルフォービアの人間ではないということは判っているが、生きてエルフォービアに来る人はほとんどいないので、よくわかっていないということ。とか。
今まで渡客が元の世界に戻ったという話はない。————そんなことを教えてくれた。
私が落ちたところは、人里からかなり離れた森だったらしく、一番近くの村まで徒歩で5日かかった。
たまたま、サシが仕事でこの森に来ていて、なおかつ見つけてくれなかったら私も遺体になっていたに違いない。
その村までの5日間、私はサシと2人きりでいたわけだけれども。
村に着くころには、すっかり私はサシのことを好きになっていた。
だって。
だって、だって!!
よくわからない状況でパニックになって、心細くなっている状態で、優しい好みのイケメンが私を守ってくれるんだよ!?
吊り橋効果?ヒナの刷り込み?
なんとでも言ってちょうだい。
私はサシのことが、好きになってしまった。
「テシ?テシ!テンノウジタニ!!」
カニさんの声に、私は物思いから覚めた。
今の私の名前はテシだ。
天王寺谷 志穂という名前は、こちらでは異質なので、こちら風に「テシ」と普段は呼ばれている。
「て(んのうじたに)さん家の4人目」という意味だ。
こちらでは名前はとてもとーーーーっても大事なもので、特別な人にしか呼ばせないらしい。
だから、みんなファミリーネームで呼ぶんだけど、こちらではファミリーネームは一文字。
お父さんが一人目で、ファミリーネームのあとに「イチ」、お母さんが「ニ」、第一子が「サン」とつく。
カニさんは「カ」家の奥さんだから「カニ」さん。
ちなみに発音は蟹ではない。
サシは「サ」家の次男だから「サシ」
それで、私も兄がいるので「テシ」となった。
『ファミリーネームがずいぶんと長いんだな…』
私が名乗ったとき、サシもカニさんもずいぶん驚いていた。
そして私のファーストネームのことも。
気の毒そうに見られたことは忘れられない。
文化の違いなんだけどね。
でも私にしたら、アンタたちの世界のほうが狂っているとしか思えないのよ!!
「ボイイマエユコジゼパプモシスムザミズトケが、もうじき帰ってくるから店を開ける準備してくれる?」
こちらに来てから、ずっとカイチさんとカニさんのところでお世話になってるけど、3年たった今でもカイチさんの名前は覚えられない。
そう、この世界の名前はえらく長いのだ。
苗字が長いくせに、名前が短い私の名前は本当に異質なのだ。
名前は親から最初にもらうプレゼント。という考え方を持つこの世界では、長い名前のほうが親の愛情がたくさん詰まっているという考えなのだ。
名乗った後は、一様に皆気の毒そうな顔をするものだから、私は一度キレて、名前の漢字には意味があること。私の名前も、両親がたくさん考えてつけてくれた大事な名前だと演説したあと、「実りのある人生であってほしい、また相手のことを思い、幸せをもたらす者になってほしい。そして強く志をもちながらも、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』というように、感謝を忘れず謙虚であれ」さんと改名されるところだった。
志穂のままでいいんだって。
といっても、名前は特別なものなので今私を「志穂」と呼ぶ人は一人しかいない。
「いらっしゃい。サシ」
カイチさんとカニさんのお店を開けるなり、サシが入ってきた。
サシは、元々王都を拠点としたハンターだったが、私がここに住むと言ったら、この村に拠点をうつした。
王都に行けば渡客は保護してもらえると聞いたけど、嫌な予感しかしない。
面倒もゴタゴタも巻き込まれたり、渦中の真っ只中に入るのもごめんだ。
サシもやめたほうがいいって言ってたし。
「俺がシホを守る。守らせて欲しい」
村に拠点を移すと聞いた時、嬉しさと申し訳なさで揺れていた私に、真剣な顔でサシは言った。
ラピスラズリのような輝きと深い色の瞳に見つめられ、まるでプロポーズのようだと顔を赤くして「ありがとう」と私は言った。
実際、プロポーズだったんだけどね…。
私たちの進展が気になって気になってしょうがないカニさんから、教えてもらった。
自分からフルネームを名乗るのは「自分を知って欲しい」という意味。
相手の名前を聞くのは、相手に好意があるという意味。
相手の名前を呼ぶのは求婚の意味。
求婚した相手に、自分の名前を呼んでもらえたらokの意味。
私はサシから名乗ってもらっているし、名前もきかれた。
そして、私の名前を呼ぶのもサシだけ。
でも、私はサシの名前を呼べない。
だって、名前が長すぎておぼえられないんだもん!!!!
私だって、好きな人の名前くらい呼びたい。
サシの私の名前を呼ぶことがプロポーズだと知ってからは、私もサシの名前を呼んでプロポーズを受けたい。
でも、サシの名前が覚えられないんだよ……。
ただでさえ、世界史の人物の名前を覚えるのが苦手だった。
なんとか2世とか、なんとかビッチだとか、紛らわしいし、耳慣れない横文字も頭に残らない。
こっちの世界の名前なんて、耳慣れないどころか、名前とは思えない文字の羅列だ。
サシの名前が26文字だということはわかっている。
3年かけて判ったのが21文字。
家中に日本語で書いて貼っているけど、まだ覚えられない。
サシは仕事で村を離れている時以外は、私がバイトをしているカニさんの食堂兼酒場で食事をする。
そして、私の仕事が終わったら私を家まで送り届けてくれる。
家の前で、サシは私の両頬に軽くキスを落としたあと、ゆっくりと優しいキスをする。
私はサシの腰に手を回し、お互い見つめながら、唇を合わせる。
サシの瞳が切なく揺れて、そっと唇を離し「おやすみ。シホ」とほほ笑む。
私は「おやすみなさい」としか返せない。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ベッドにぼすんと飛び込み、大きくため息をつく。
サシの名前が呼べなくて、サシにあんな顔をさせているのに、しっかりキスしたり抱きついたりして、立派な悪女っぷりの自分が嫌になる。
「にけぺよゆせあめぴぐのぐげ…ああ、違った」
手元のメモ帳をみて、溜息をつく。
「にけぺよゆせあめ、ぴぐのぐけ、ぷぱぴ……………ごぎけのま」
名前に思えない。
最後の"ごぎけのま"って何?
そこはかとなく、地球にいた黒い稲妻を思いださせるんですけど。
最初の"にけぺよ"もなんかアホっぽい。
ただの"ニケ"だったら可愛いのになぁ。
こっちに来たばかりの頃。
カニさんがカイチさんの長ったらしい名前を連呼しているのを聞いて、「愛称とかないんですか?ボイーマとか」と、何気なく聞いた時、温厚なカニさんが恐ろしい顔をした時のことを思い出した。
あれは恐かったなぁ…。
名前を略するのは、とても失礼なことらしい。
むしろ侮蔑の意図があるととられてしまうくらい。
名前は本当に特別なものらしくて、色々難しい。
まず、サシの名前を呼ぶ人がいないから、覚えようがないのだ。
出会った時に一回だけ名前をきいたが、完全に右から左へと受け流してしまった。
名前をもう一度きこうかと思ったけれども、どうやら名前をきくチャンスは1回のようだった。
この世界の人は、みんなその1回でちゃんと覚えるのが当たり前のようで、それが愛であり、以前酒場でやけ酒をしている男の人は、うっかり一文字名前を間違えて呼んでしまったばかりに仲睦まじい恋人同士だったのに、別れてしまったと言っていた。
たった一回のチャンスを上手く使わなきゃ
そう思っているうちに、今更「名前を教えてください」なんて言えなくなって今に至る。
1年たって、こちらの文字が読めるようになったので、サシに手紙を書いて欲しいとねだった。
手紙なら、名前を書くと思ったからだ。
名前は書いてあった。
ただし、名前専用の特別な文字で。
読めないわーーーー!!!!!
おもわず、卓袱台をひっくり返しそうになった。ないけど。
もう、どーすればいいんだよ…と泣いている私の元へ救世主が来た。
その救世主の甘い声を思い出して、私は苦い気持ちで眠りについた。
もっと軽いラブコメを書くつもりでしたが、なんだか真面目になってしまいました。
笑いを求めてきた方、申し訳ありませんでした…