幕間 果敢律動
人に語れるほどの人生ではないけれど、話せと言われると長くなりそうだ。
人は私を見て不幸だと思うでしょう。
しかし私は運に恵まれている。
小さいころ、親の仕事の手伝いで通った商家で、今の妻に出会うことができた。
気に入られようと毎日会いに行き、騎士になれたら結婚してもいいと約束ができた。
彼女が十五歳の時、引く手あまただったはずなのにまだ軍の訓練生だった私と婚約してくれた。
この時、絶対に騎士にならなければと誓った。
軍務局に入り、兵士となった。騎士に一歩近づいた。でも、初任務で負傷し、兵を続けられなくなった。
商家にとって何の見返りも期待できない婿。婚約破棄が妥当。
それでも彼女は私を見捨てなかった。
三十歳で教官から降ろされた時、店を手伝って欲しいとは言われたが、剣を捨てて欲しいとは言われなかった。
当時私が目指していたのは軍部戦略課。
そこには入れれば、官僚となり、世間的には騎士の仲間入りできる。帯刀できるからだ。
しかし、また妻を期待させて、ガッカリさせたくはなかった。
だから黙っていた。
ありがたいことに、努力が認められて試験的に事務仕事から別の部署で使っていただけることになった。ところがそこは諜報部だった。
隊列、陣形、作戦立案をするのではなく、自分で動いて情報を集めるのが仕事だった。しかも誰にも気づかれずに。昼間は事務の仕事を続けなければならなかった。最初は内部監察報告からだった。
今思えばこれも幸運だった。
やがて内部監察から薬物を密輸している者たちの情報を掴み、その摘発に同行が許された。人生で二度目の実戦。
私はそこで、騎士の闘いぶりを目の当たりにした。そしてほんの少し、役に立てた――気がした。
その夜は眠れなかった。
それから眠ると自分が騎士になっている夢を見た。
事務仕事を続けながら、裏で動くのはきつくなり、体力も無くなって来た。
早くしなければ、チャンスを失う。子どもたちは不甲斐ない私に呆れて、すでに妻の実家で店を手伝い、私よりも立派に働き始めていた。
妻は疲れ切って帰ってくる私を心配し、もうあきらめて欲しいと言った。
妻がどう思われているのかは気づいていた。
私と添い遂げる道を選んだことで、世間から私の妻までもが陰口を囁かれている。
潔く、これまでの道を捨てて、妻の店を手伝うべきか迷った。
それまで私が追い求めてきた夢は私だけのものだと気づいた。これからは妻の名誉のために残りの人生を捧げよう。そう思った。
諜報部の上司から、クルーゼに移るので一緒にどうかと聞かれて、そのコネで出店許可を頂いた。
妻も義父も大いに喜んでくれた。新しく開く店で手伝いをさせてもらおうと考えていたときだった。
国際剣闘大会の予選受付が始まった。
参加リストに私の名前があった。
上司に問いただすと――
「自分があきらめさせたと思ったら、奥さんも気に病むでしょう? 区切りをつけるなら自分でつけたら?」
確かに妻の性格上、心配させるかもしれない。
私は妻を説得することにした。
本選に出場できるとも、騎士になれるとも思わなかったが、最後に私が戦っているところを妻に見て欲しい。それでこの停滞した状況をどこか一撃払しょくしたかった。
「一回戦だけでも勝ち抜けば上々よ。もう誰もあなたをバカにしないわ」
「私のことはいいんです。でも、不甲斐ない夫を持ったと妻が思われないようにしたい」
妻にかっこいいと思われたいだなんて言えず、遠回しな言い方になってしまった。
「なら、命を賭けなさい。それで彼に挑みなさい。弱いあなたが世間の評価を覆すには才能も時間も足りない。けれど、工夫と努力、それに勇気と覚悟があれば成せないことなどない。あと、私の情報も使っていいわよ」
「お力添えはうれしいのですが、なぜ私にそこまで?」
「あら、私に思いやりがないとでも?」
諜報部の上官は恐ろしい方々ばかりだ。
狙いがないのに、誰かに肩入れするわけがない。
それでも、私はその力を頼ることにした。
私一人の力などたかが知れている。
今までの経験、知識、得た情報、コネまで全てを出し切る。
上司から彼のことを聞き、命を賭けなければ勝負にすらならないと悟った。
リヴァンプール港での戦闘、ベルグリッドでの魔獣大量討伐、どの魔獣も一撃。
的確に急所を貫いていた。多彩な技、未知の魔法、おまけに神聖術まで……
勝てる見込みなど無かった。
しかし、私は幸運だ。
エドワード・デュークとして出たロイド侯は、属性魔法を使わなかった。
おまけに彼の着ていた鎧のことは前に調べていた。
闘い方が非常に丁寧で、絶対に急所に当たらないようにしていた。
「あなたには見てから躱すのは不可能よ」
「ではどうすれば?」
「ここに斬り込まれたら一番避けにくい、ってところに来ると思って、彼が動き出した瞬間に全力で躱すのよ。大丈夫。失敗しても彼が何とか治すわよ」
上司によるロイド侯の剣を模倣した剣を躱す訓練を続けた。
決勝戦、そこまでは本当に情けない試合だった。恐怖を克服できなかった。正直後悔した。
でも、ロイド侯が私に礼をしてくれた時、迷いは消し飛んだ。
この先、私がこのような名誉を頂く機会はないだろう。しかし、これで妻や子供たちは知るだろう。
私がただのいつまでも出世できない情けない夫、父親ではないということを。
試合が始まり、ロイド侯の大剣を避け続けた。鎧の動作音に耳を傾ける。もはやほとんど音として知覚できるものではない。何かが鳴っている気がするというレベルだ。だが確かに、その感覚の後、私の隙へ正確に大剣は振り下ろされた。
『大丈夫、失敗しても彼が何とか治すわよ』
疑うわけではないが、ロイド侯が神聖術を使えるのは噂に過ぎない。
もし直撃すれば、私は神殿にたどり着くまでもたないだろう。
ならばと思い、私は防具を一切着ていなかった。多少の守りなど意味がないばかりか、動きを妨げる。
避けても風圧と闘い割った闘技台の破片が礫となって襲い掛かる。
途中、歓声にかき消され、鎧の動作音が分からなかった。それでも私の身体は淀みなく動いた。
もう一度やったら次はどうなるかわからない。そんな恐ろしい選択問題を私は連続で即答しなければならなかった。
なぜか。
妻にかっこいいと思われたい。
この気持ちに誰か共感してくれるだろうか?
私の原動力は突き詰めるとそこなのだ。
初めて会ったとき、彼女に相応しいと想像した者に、私は精一杯手を伸ばして――
ふと思ってしまった。
ロイド侯はまだ十六、七歳だったか。
私の子供たちより若いのだ。
今の私はただの愚か者ではないのか? 妻のことを想いながら、自分の命を危険に晒す。矛盾を抱えながらも私の身体は淀みなく動いた。
もう一回、もう二回……全身から冷や汗が噴き出して、心臓が悲鳴を上げても、私の歩みは前に向かった。
ついに、私の剣が彼に届くことは無かった。
武器を変えられただけで、私の目算は崩れ、思いっきり優しく棒で突かれた。
もうやめよう、引き際だ。
そう思いながらも身体は起き上がり、剣を構えていた。
◇
「次の攻撃は絶対に避けられない」
「――果たしてそれは……」
鎧が消えた。中から現れたのは紛れもなくロイド侯本人。
あのまま闘えば、すぐ勝てた。なのにどうして正体を晒す必要が?
観客は湧き立ったが、侯が手を挙げるとすぐにシンと静まり返った。
片手で群衆を制するこのカリスマ性。
鎧を通さずにむき出しになった彼の闘気、存在感、醸し出す絶対強者の風格、それらが、この空間にいる者を黙らせた。そんな感じだった。
私は試合の終了を察し、膝を突こうとしていた。
だが候は淡々と何もない空間から当たり前のように上着と武器を出現させた。
試合はまだ終わっていないとその眼が告げていた。
私はそれまでと同じように、動き出しのタイミングを計り、全神経を研ぎ澄ました。
後になって思えば、これが人生最大の幸運だった。
何せ、私はあのロイド侯と闘って負けたのだから。