2.北部へ
王都の北にある石積みの壁。王都と外を隔てる境界線。普段は誰も居ないような早朝に、争う男女がいた。
「ず、ずいません゛ッ旦那様〜! わた、私のせいで!!」
「おい、離せマドル。別に責めてないと言ったじゃないか」
泣きながらロイドに許しを請うマドル。
彼女を引き離そうとするロイド。
「いえ、どうか罰を! 信頼を回復するチャンスを!! 私もどうかお供に゛! 次こそは、次こそはお役に立ちますから!!」
「ちょっと、誤解されたらマズいから離れなさい。それにお前たちを王都から出さないよう陛下の勅命なんだ。おれに言ってくれるな」
北部の港湾開発に行くことになったロイドを見送りに来たマドルが、突然泣きついた。始めは優しく諭していたが、彼女の罪悪感は逆にエスカレートし、押し押されの純粋な力比べになっていた。形勢はややロイドが不利。
その様子をやや離れた場所から役人が緊張した面持ちで眺めていた。
(あれが、ロイド・バリリス侯か……)
北部出身であるという理由で案内役としてロイドに選ばれた内務省造営局の事務員。
彼は上司と同僚の言葉を思い出していた――
『――これは一生に一度あるかないかの大チャンスだ。絶対、粗相のないようにな』
『あの方の不興を買えば、造営局全体に厳しめの監査がある日突然入って、謎の人事で役員が半分減っていてもおかしくない』
『ああ、それに身体に気を付けろ。あの方の人使いの荒さはヤバいらしからな』
『紅燈隊の新隊長様がまだ副隊長だった時、泣きながら仕事をさせられていたらしいぞ』
『とにかく開き直ってがむしゃらにやらないと精神が持たないかもしれない』
『死ぬなよ』
『生きて帰れよ』
幼いころより王宮で王女の護衛をしていたロイドは常に噂のネタにされていた。
『厳格で、容赦がない』
『融通が利かない』
『人使いが荒い』
『頑固で空気が読めない』
『サイコパス』
『女たらし』
『友達がいない』
これらはロイドが平民出身であることを良く思わない者がまだ多かった頃、その評判を貶めるため広めたデマに由来するものが多い。が、一部は実際のロイドのイメージと符合して現在も残ってしまっていた。
訓練でも、任務でも、ロイドは甘くない。常に最大の結果を求めた。できるまでやるのは当たり前。不正? 絶対許さない。
その結果、身分に胡坐を掻いて来た半端者、物事の価値基準を権力でゆがめて来た愚物は行き場を失い、多くの貴族や役人、果てはいじめっ子までが裁かれていった。
それらの事実が、くだらない言いがかりに近い他の噂についても真実味を与えていた。
(泣きついているあんな綺麗な女性を冷徹に振り解こうとするなんて。共感性は無いのか? 一体どんなミスをしたんだ? あんなに泣いて……きっと壮絶な罰を受けるんだろう)
まるで命乞いをする女性を冷たく突き放しているかのようだ、と男はぞっとした。自分もああならないとは限らない。
ふと男の頭にここに来る前、家を出た時の家族の様子が浮かんだ――
『――あなた、無理はしないで下さいね』
『お父さん、早く帰って来て』
『お父さんどこか行っちゃうの?』
心配する妻と、父との別れを惜しむまだ幼い息子と娘。
『大丈夫、すぐ帰ってくるからね』
家族との惜別の想いに耐えながら、気丈に平静を装って家を出た。だが、万が一のことがあった際の為、遺書をしたため、上司に家族のその後をお願いしてある。
ただでさえ長い港湾開発に携わる以上、無事でいられる保証はない。その上ミスをしたら、結果を出せなかったら、不興を買ってしまったら、直接命を取られはしないまでも、死ぬまで追いつめられるかもしれない。
彼は覚悟を決めてこの仕事を受けた。だがそれは二日前の話。降って湧いたような大仕事、性急に進んだ事務的な手続きに忙殺され実感が無かったが、今ごろになって恐怖と後悔に襲われていた。
男は吐きそうになり、なんとか耐えた。
(だが、ここで功を上げれば、高級官僚への道も夢ではない)
なぜならロイドはこの事業を成功させれば王室入り確実の超出世株。ハイリスクだが、その分得るものは破格。付いて行けば貴族になれる可能性もある。
ロイドが王室入りたる得る根拠となる人物が、馬車から降りて来た。
ローブを取り、現れたのは長い金髪をまとめた美少女。人形のように整った容姿はあどけなさが残るものの、十五歳とは思えないほどに大人びている。
王女システィーナ。身に纏ったローブの下のドレス、装飾品や化粧と関係なく、その品格は一般人のそれを超越している。
例え彼女を知らない者が見ても、彼女を王女と認めざるを得ない。そんな空気を常に身に纏っている。
(王女殿下、こんな間近で拝謁に適うとは……!!)
その証拠に遠巻きに見ていた男は彼女がローブを取る前、考えるより先にその場に跪いていた。
朝霧の中、彼女の佇む様子はまるで王宮に飾る絵画のように、どの瞬間も傑作に相応しいモチーフたり得た。緩やかに風が吹き、その髪を揺らす。何気ない変化すら奇跡のような一幕を生み、まるでそのために風が意思をもってその役目を果たしているかのようだった。
息を飲むほどに神聖。
目も眩むほどに端麗。
自然と周囲の鼓動を高鳴らせるほどに高貴だった。
マドルとの攻防の最中、王女はロイドたちにゆっくりと歩み寄り……そのまま歩み寄り……歩み寄り……突然ロイドに抱き着いた。
「寂しい゛ぃ!! 私も連れて行ってぇ゛! いえ、むしろ攫ってぇ!! お〜ね〜が〜い〜!!!」
「姫、無理を言わないで下さい!」
マドルと同じようにロイドに泣きつくシスティーナ。
案内役の事務員は絶句した。
(えええええぇ、誰!? あれが姫!? 別人!!?)
王女としての体面も気にせず、しがみついて離そうとしない。
そのすぐ後にもう一人馬車から降りて来た。赤毛をカチューシャでまとめたメイド姿の女性。システィーナとは対照的に絶世の美女でも無ければ、蠱惑的な魅力があるわけでもない。だが彼女には身近に居て欲しいと思わせる独特の空気があった。人の警戒心を解かし、優しい笑顔で包みこむような母性。
事務員は慈愛の神エリアスを彼女に重ねて見ていた。
「姫様、ロイド様が困っておられますよ。マドルさんも」
「ヴィオラ、でも……」
「置いて行かれたら私は……」
ヴィオラは諭すようにやさしく二人の手を取り、にっこりと笑った。
その様子は慈愛に満ち、見る者に安心を与えた。
「畏れながらここは自重下さい。ロイド様のことはこのヴィオラにお任せを」
「……え? ええぇー!! 裏切り者!!」
「そんなー!!!」
ヴィオラは思いつきではなく、バッチリ荷物を持ってきていた。確信犯だった。
「私はただの平民なので。それにもう何か月もロイド様のお世話をしていないんですよ。お世話させて下さい!! でないと爆発します!!!」
泣きつく女が増えた。
「いや、連れて行きたいのは山々なんだが。でも……」
ロイドはハッと事務員の方を見た。
事務員は全力で目を逸らした。
(見て無いです!!! あれ……?)
逸らした先には紅燈隊の騎士たちが居た。彼女たちも、もし主である王女が行くとなれば止めるべき立場にある。だが一向に動く気配はない。それどころかロイドたちの様子を見て口を覆い涙を流す者がいた。
(あれは確か隊長のオリヴィア卿。彼女もロイド侯には逆らえないということか? いや、あの涙は……まさか、彼女もロイド侯の女なのか?)
事務員の眼にはオリヴィアが旅立つロイドに駆け寄ることもできず涙を呑んで職務に準じているように見えた。
ちなみにただ眠いのを堪えてあくびを隠しているだけである。
そこへ紅燈隊の騎士たちとは別に馬に乗った女性が近づいて来た。
「ロイド、将来の夫なら迷っていないでダメだとキッパリ言いなさい」
さらりとした金髪をたなびかせたエルフ。しなやかで、美しいスラリと長い手足。清廉で、力強く、見る者に畏敬を抱かせる。乙女な若々しい見た目とは裏腹に、壮麗とも言うべき迫力を持ち合わせている。
着ているのは実用的で無駄のない冒険者の簡素な革鎧にマント。それも彼女が身に着けていると気高く見える。
(また、あんな美人を……)
彼は妻を愛しているが、思わず見惚れてしまっていた。
「リトナリアさん、すいません病み上がりに」
「迷宮の件ではお世話になりました」
「でもそれとこれとは話は別よ?」
「……」
迷宮でロイド捜索に当たった後、療養していたのもつかの間。お目付け役として彼女が選ばれた。冒険者で王宮の力関係と無縁であることと、ロイドが言うことを聞きそうな人物が他にいなかったためである。
当初はマイヤ卿が適任とされていたが、既婚者、それも新婚の彼女をまた出張に赴かせるのは忍びないということでロイドがリトナリアに頼んだ。
「ロイドの面倒は私が見る。おとなしくしていなさい。さぁ、今生の別れでもあるまいし、早く行きますよ」
リトナリアはロイドを強引に引っ張り馬に乗せた。
「そんな、ズルいです、リトナリアさん!! お世話は私のお役目なのにー!!」
「納得できないわ。ロイドちゃんのお目付け役がなぜ彼女なのかしら!! なぜ、女性? なぜ、エルフ? なぜ、レッド・ハンズなの!! もし間違いが起こったら――」
「旦那様〜ッ!!」
(4人も美女を侍らすとは……すごい絵面だな。女たらしという噂は本当だったか)
ロイドの女癖を鑑み、村の娘に協力を願い出なければならないと思うと男は憂鬱になってきた。
「何を呑気にしている? あなたが案内をしないと出発できないでしょう」
「あ、はいただいま!!」
こうしてリトナリアに率いられ、ロイドと案内役の男の三人は北へ旅立った。