フォッカッチャ
〇side:爺や
フォッカッチャはシンプルだからこそ引き立つ味わいがあり、なおかつ様々な料理に使える優れたパンと言えるでしょう。
材料に特別なものを用意する必要もありません。
小麦粉、酵母、塩、砂糖、オリーブオイル、そしてぬるま湯。
小麦粉はタンパク質を調整して二種類ぐらいの粉にしますが、使う分量は同じぐらいですね。
まず二種類の小麦粉、酵母、塩、砂糖を入れ、ぬるま湯を少しずつ加えていきます。混ぜるのは最初はヘラ、途中から手でパタンパタンと折りたたむような感じですな。
ある程度混ざったところでオリーブ投入。
綺麗に纏めるような感じで捏ねますが、オリーブオイルが混ざったかなというところで取り出し、台の上で伸ばし、纏め、伸ばし、纏めを繰り返す感じでじっくり捏ねます。目安としては、だいたい十分前後ぐらいでしょうかな。
発酵させる前に一旦丸く纏めます。
きれいなツルリとした白い玉を作る感じです。すべすべして、そのまま食べたくなるほど美しいのが罪深いですな。
それを大きな密閉容器に入れて一時間ほど発酵させます。
発酵させる為の場所は、約三十度の温度がいりますから、この時、同じ大きな容器の中に、別の容器に入れた湯も一緒に入れておくのがおすすめです。私はコップに入れておりますな。この湯の湯気と熱がいい仕事してくれるのです。
発酵し終わった玉は、元の三倍ぐらいの大きさになっております。これを六分割し、それぞれを可愛い球体へ。
分割する前にベンチタイムを設ける方は、だいたい二十分ぐらいを目安にされるとよいでしょう。
私はあまりベンチタイムを設けずそのままやる派ですな。
手粉をつけ、丸を伸ばして平たくします。それなりに伸ばした後は、生地を持ち上げて生地の自重で伸ばすほうがふっくらした感じになりますな。
おや、店主殿も同じ考えで?
仲間ですな。綿棒を使われる方もおられますが、私は自然派でございます。
天板に乗せ、この状態でもう一度発酵を。目安の時間としては、だいたい三十分から一時間ぐらいですかな。ふっくらしてくるのでわりと目分量でございます。
オリーブオイルと岩塩、ハーブ類をトッピングしオーブンで焼き上げます。
うっすら焼き色がつけば良いですので、大きさと温度で焼き時間は変えます。
私がよく作っている小型のものは、二百三十度で四分ぐらい。焼き色をチェックして三~五分、と調整されるのがよろしいでしょう。
分割せずに大きなものを引き伸ばした場合は、オーブンは二百度、生地に十数カ所から二十箇所程度の深いくぼみをつけ、くぼみに注ぐようにしてオリーブオイルを。焼く時間は二十五分。ただし最初の五分間に霧吹きで三回ほど水を吹きかけることをお忘れ無く。
どちらでも美味しく出来ますので、このあたりはお好みで。
トッピングを変えれば様々な料理が楽しめますが、まずはこのシンプルなものをいただきましょう。
●
「美味しいですわ! 中はふんわりしてますのね」
「素晴らしいですわねぇ……! うふふ。これは、学園の食堂に行く足がますます遠のいてしまいますわ!」
「構内でも売って欲しいですわね」
お嬢様とユニ様、シュエット様が笑顔でフォッカッチャを堪能されています。
場所は学園都市内、商業エリア、パン屋『フルール』。
店内には飲食スペースがありませんでしたので、お店の方が急拵えで中庭に椅子とテーブルを用意してくださいました。……なにやら申し訳ありませんな。
「品質、味わい、どれも大変素晴らしいですな。是非私の店にも卸していただきたいものです」
他のパンも味見させていただき、料理に使えるパンを脳内でピックアップしている私に、店主は困ったような顔でご息女とお嬢様方を交互に見ながら言われました。
「その、大変有り難いことです、ええ、その、あの」
「いかがなさいましたか?」
「ああ……ええ……」
店主殿はチラチラとお嬢様達を見てから、神妙な顔で声をひそめられます。
「あの……公爵様のご令嬢に、このようなものを召し上がっていただいて、大丈夫なのでしょうか。失礼になったりはせんでしょうか……? い、いや、高貴な方々に食べていただくのは光栄なのですが! なにしろ、私どもはその、庶民の食べ物を作っているからしましてはい」
「お嬢様の家でも、フォッカッチャやチャバタ、ロゼッタはよく食しますぞ?」
「そ、そうですか! そうですよな……パンですものな! ははは」
「これだけ美味しいのですから、自信をおもちください。私も長くこの国におりますが、自作以外でここまで美味しいパンは初めてでございます」
「ほう! 貴方様もパンをお作りに……!」
「料理と名のつくものは一通り修めておりますれば。ですが、パンを任せれる人材がおりましたらそちらにお願いしたい、というのが本音でございます。やはり時間は有限でございまして。つきましては、ご主人、こちらのチャバタをですな……」
「おお! それはもちろん…… なんと、これほどに? おお……ほほぅ!」
「……。」
ひそひそと商談をしている私の後頭部に、なにやらチクチクする視線が突き刺さり始めました。
振り返らずとも分かります。
お嬢様ですな。
外でありますのに、そのように眼力を発揮してよろしいのかな?
ご友人の方々にビックリされてしまいますぞ?
「……爺や」
はいはい。
「なんでございましょう? お嬢様」
「……せっかく美味しいものを食べに来たのです。貴方も、せめて今ぐらいは仕事から離れてこちらで楽しみなさい」
おや。
つまり、一緒に食べろ、と。
あれですな。幼い頃、ピクニックに行った時と同じ状況ですな。
ふふふ。大きくなっても、お嬢様はまだまだ甘えん坊さんでいらっしゃいますな。
まぁ、ご婚約者の方がおられますし、もうお年頃になりましたから、お役ご免になる日も近うございましょうが。
……そう考えると、なにやら感慨深いものがありますな。……おや、ちょっと視界が揺らぐような。
「爺やさんはどのパンが一番お好きです?」
「どのパンも美味しくて、つい食べ過ぎてしまいますわよね!」
「あ、飲み物持ってきますね! レモネードしかないんですけど……ええと、かまいません?」
「まぁ! アリス様、お座りくださいませ。そのようなことをなさらなくても……!」
シュエット様とユニ様が笑顔で迎えてくださり、アリス様が気を利かせて飲み物を取りに行こうとされ、慌てたユニ様に引き留められております。
若い娘さん達のやりとりは心が和みますな。よきかな、よきかな。
「アリス様、お手伝いいたしますわ。爺や、貴方はユニ様とシュエット様をお願いいたしますわね?」
む?
「お嬢様……それは私の役目ではありませんかな?」
「いいえ。せっかくですもの、今日はゆっくりなさい。アリス様、ご一緒しましょう!」
「え!? あ、はい!」
何故か機嫌の良いお嬢様がアリス様と腕を組むようにして家の中に入られます。
ああ……なんでしょうかな、この、置いてきぼりになった気分は。おかしいですな。婚約者の方ではなく、アリス様にお嬢様を持って行かれてしまったかのような……
「うふふ」
おや。ユニ様、何か楽しいことがおありでしたかな?
おや? シュエット様もですかな?
「レティシア様、爺やさんにゆっくりしてもらいたいのですわ」
……なんですと?
「レティシア様、仰ってましたの。爺やさんが来てくれて嬉しいけれど、忙しい身なのに大丈夫かしら、って。こちらでもお店で忙しくされていて、自分のせいなのかしら、って」
「レティシア様も、爺やさんのことが心配なのですわ。とても大事に思っていらっしゃるのね」
「お礼をしたいけれど、どうお礼をすればいいのかわからないと仰ってましたの。爺やさんは美味しい食べ物をご自分で作ってしまえるから、お料理でというわけにもいきませんし……」
「裁縫も爺やさんがお教えになられたのですよね……? ううん……爺やさんが欲しいものって何があるのでしょう……」
「杖……は、使われませんわよね。帽子……も……ううん……腕時計、とか?」
「ネクタイはどうかしら……それか、ピン……いえ、カフスとか……」
……これは、アレですかな。
私へのプレゼントを考えてくださっている、ということでしょうかな。
お嬢様が気にしていらして、ご学友のお二人が情報収集されている、というところでしょうか。
……私はここで聞いていて良いのでしょうかな……
それとも答えたほうが良いのでしょうかな……お二方とも、考えに没頭されているような気がいたしますが。
それにしてもお嬢様……
「お嬢様は……良いご友人を得られましたな……」
「まぁ……爺やさん!」
ええ、爺の目に涙が浮かびそうな勢いですぞ。
あのやせっぽちで病気しがちだったお嬢様が……
元気になったら元気になったで階段の手すりを滑ろうとするほどやんちゃだったお嬢様が……
馬に乗って落ちかけてパンツ丸出しで馬に抱きついていらしたお嬢様が……
私の大事な花瓶を割って一生懸命直そうと破片を集めていらっしゃったお嬢様が……
「私の可愛らしい小さなお嬢様が……このような立派な淑女の方々の……お仲間に……!」
「……あ、あの……爺やさん……」
「その……後ろに……そのお嬢様が……」
そっとハンカチで目元を抑えていると、ユニ様達が顔をひきつらせて私の後ろをごらんになります。
後ろでございますかな。
おや、お嬢様。お早いお帰りで。
アリス様、微苦笑もチャーミングですな。
おお、レモネードですか。ありがとうございます。さぁ、いただきましょうかな。
「じ・い・や……!!」
はいはい。
真っ赤になったお嬢様の第一声を受け止め、第二声を心待ちにしている所で、耳が別の声を拾いました。
「えーっ!? アリスさんのお店で、なんでレティシア様達が!?」
……。
あの方は、確かお嬢様達と同じ学園の方、でしたな。うぅむ。私の店前だけでなく、他でもあのような状態でございますか。学園に悪い影響が出そうな気がして少々気がかりですな。
しかも殿方連れですか。
なんと、複数も。
お嬢様。あのような真似はしてはいけませんぞ?
声にギョッとされておられますし、噂を聞くに対立気味だというお話ですから杞憂でございましょうが、お嬢様はいずれこの国の王妃となるお方。婚約者の方もおられるのですから、節度ある淑女としての振る舞いを……
……。
…………。
「……」
「……学園の外でまで殿下をお連れになってますの……?」
私は、何を今、見ているのでしょうかな。
「……」
「なんて恥知らずな……婚約者のいる殿方にまとわりつくなど、どのようなお育ちをしておいでなのかしら……」
私の傍にはレティシア様がいらっしゃるのに、なぜ、あの方があちらにおいでになるのですかな。
「……」
「え、えーと……えーと……あ、あの、レティシアさ…… ひ!? 爺やさん!?」
ええ。
ええ。
ユニ様とシュエット様のお言葉に、いささか察するところがございます。
そしてアリス様、どうかされましたかな。
私ですか?
何かありましたかな?
立ち上がったので、驚かせてしまいましたかな?
私、年寄りのくせに地味に背が高いものですから。申し訳ない。
「じ、爺や?」
おや。お嬢様まで。
なんですかな?
「……なにか、ございますかな?」
笑顔で問うた私に、お嬢様は首を勢いよく横に振られます。
おお、いけませんぞ。お美しい御髪が絡まってしまうではありませんか。
大丈夫です。お嬢様の楽しい時間を妨げるような者は、この爺やが排除してごらんにいれましょう。
ですので、お嬢様はごゆるりとご歓談くださいませ。よろしいですかな?
「さて。ご歓談中のお嬢様方にかわり、お尋ね申し上げます」
ゆっくりと中庭から出て、通りと中庭を繋ぐ通路を塞いだのは、私の大事なお嬢様を些事に関わらせぬ為に御座います。
ええ、決して、お見苦しいものをお嬢様に見せたくないからではございませんよ。
「私はアストル公爵家筆頭執事の任におりました、お嬢様の爺やにございます。現在、こちらではご令嬢アリス様とご交流のある友人同士でのお茶会の最中でございます。故に、他の方々の中庭へのご訪問をお断りしているところでございますが、こちらへの進入を試みられますかな?」
私の眼差しを受け、お嬢さんと一緒にいた男性陣が一歩引後ろにかれました。
一人以外は、二歩、三歩と。
ほぅ……一歩で留まった分、褒めてさしあげましょう。
何故そこにおられるのか、かなり、そうとう、とても、気になりますが。
「……いや。そちらに赴くつもりでは無い」
「さようでございますか。では、『フルール』でのお買い物においでになったのですかな?」
つらりと一同を見渡し、さらに後ろに下がった相手の中、踏みとどまっている少年へと視線を戻す。
いや、もう青年と呼んでもさしつかえなさそうですな。
そこにいる理由は存じませんが。
そして
「ご婚約者のいる身で、他のご令嬢を腕にとまらせておいでのベルナール殿下?」
その理由も、存じ上げませんが。