Je suis à toi pour toujours
〇side:レティシア
紳士淑女たるもの、ダンスだからといって必要以上にべったりとくっつくことはありません。そもそも、そんな状態ではまともに踊れません。
私の語彙ではダンスを言葉にするのはとても難しいですが、そうですね……例えて言うなら、音の川の流れに寄り添って舞う二つの木の葉のよう、とでも言いましょうか。決して正しく実情を語っているわけではありませんが、リズムに乗っている時はそのような感覚がします。
優しく触れる感触。
動きの合間にふわりと鼻腔をかすめる香り。
すぐそこにある、けれど触れているわけではない熱。
夢のようですわね。
その相手が爺やだなんて。
「? いかがなさいましたか?」
思わずクスリと微笑ってしまって、気付いた爺やに問われてしまいました。
待って! ちょっと距離近いから!!
「な、なんでもありませんわ?」
まったく……さっきから必死に頭を冷却しているというのに、しれっと顔を近づけるとかどういうつもりなのかしら?
ああもう、心臓の音がうるさいですわ。
もうちょっと音楽大きくなってくださらないかしら。爺やに聞こえそう……
「ダンスが上手くなられましたな」
必死の内面を苦労して押し隠してる私に、爺やは嬉しげにそんなことを言い出します。思わず視線を向けてしまい――
なにその笑顔!?
反則では無くて!?
「お、教えて、くださった方が、よろしかったのですわ」
「そうですか。基礎を教えたのはカルロスでしたな」
あなたでしてよ!?
「また皆で語り合わなくてはなりませんな。お嬢様がおられなくなってから、屋敷は火が消えたような有様です」
「そ、そうですか」
言ってることはいつもの爺やなのに、なんでそんな色気たっぷりの目で見てくるのかしら。
……ん? そういえば、コレは私を貴婦人として接しなさいという要望に応えた結果……ということは。
爺や。
あなた、普通の貴婦人には、皆そんなふうに接してましたの?
「……何故、怨嗟の念が沸き上がっておりますかな……?」
「気のせいではなくて?」
紳士たるもの、この程度でリズムを狂わしかけるだなんてなっていませんわね。
……やだ。何か胃のあたりがムカムカしますわ。食べ合わせが悪かったのかしら……
「お嬢様?」
コホン。
「それにしても、私が出てまだ少ししか経っていないでしょう? そもそも、あなたもすぐにこちらに来たではありませんか」
「ええ。耐えかねまして」
「……」
「我ながらひどく驚きました。いずれ来る日と分かっておりましたのに、たった一日で何もかもが空虚になりましたので」
何も言えず口を噤んでいる私にかまわず、爺やはむしろ穏やかな声で語ってくださいました。――私が学園へ向かってからのことを。
「ああ、声が聞こえないのだな――と、庭に出た時に思いました。お嬢様は、いつも朝早く庭に出て花をご覧になっていましたから。花に語りかけられる声も、鳥と挨拶を交わす声も、何も聞こえないあの庭をぼんやりと眺めておりました。……廊下、玄関、執務室、食堂、温室……飾られている花にお嬢様の色はありませんでした。お嬢様は白がお好きでしたから、お嬢様がいた間は白い花がふんだんに取り入れられておりましたのに」
ああ、それはたぶん、私が朝摘みの花をメイドに渡さなくなったからでしょうね。
気分にあわせて今日はこの花、来客にあわせて明日はこちら……そんな風に、庭の花を剪定しながらメイド達と飾りを楽しんでいましたから。
「いない、というのはこういうことなのだと、久しぶりに実感した思いです。先代がお亡くなりになった時にも思いましたが……失うというのは、あまりにも身に堪えますな」
「……。おじいさまと違って、私はこうしてちゃんと生きてるわよ?」
「ええ。ですが、いずれ私の前からいなくなっておしまいになる。……学園に行かれました後に、そのことをしみじみと思い知りました」
それは……違うとは、言えませんわね……
いずれ私は爺や達のいる屋敷から去らなくてはなりません。それが貴族の娘として生まれた者の責務です。
現在の婚約のまま進めば、王家に。
……そうしたら、例え実家といえど足繁く通うことなど不可能でしょう。
王宮とは、一種の鳥籠。
一度入れば、年に何度出られるか……
「……爺やは、意外と寂しがりやさんでしたのね」
「ええ、そうですな」
微笑んで言った私に、爺やも柔らかく微笑む。
――なぜ、その目だけがそんなに切なそうなのかしら……
「それで――この街に?」
「……ええ。お嬢様がちゃんとご飯を食べていらっしゃるか、気が気でなかったのもありますが」
「……そこは当たってしまいましたわね」
「おや」
爺や。そこで嬉しそうな顔をしないの。
「学園に入って――少しだけ期待していたのです。昔よりはずっと食べられるようになっていたから、好き嫌いせず食べればなんとか食べられるのではないか、と」
「……駄目だったのですね」
「駄目でした……」
ターンの後、わずかに寄った体に少しだけ自分から身を寄せる。外見も気配も変えてしまっているけれど、絶対に変わらない安心感。いろんな意味でため息が零れます。
「私の体は、相当、我儘なのね」
肉類は生臭くて食べられない。
パスタ類は粉臭くて食べられない。
野菜類はドレッシングが油臭くて食べられない。
チーズ類は黴臭くて食べられない。
かろうじて食べれたのは、余分なものが入れられてないパンと、生野菜。そして果物ぐらい。
ああ、忘れてはいけませんわ。牛乳。あれを飲めたのは幸いでしたわね。豆類も調理されると食べられなくなるので、若い大豆を茹でたものを摘まむのがせいぜいでした。
実家では食べれていたものです。
けれど、この街では食べられませんでした。
口に入れた瞬間に、吐き出さなくては、という気持ちになるのです。食べたくない、というか、飲み込みたくないと言ったほうがいいでしょうか……
アリス様のパンを美味しく食べられたのが、未だに不思議です。もっと早くあのお店を知っていれば、あんなにお腹を空かせることは無かったでしょう。
それに、もし爺やが来てくださらなかったら、今頃どうなっていたことか……
「爺やが来てくれて、私、嬉しかったですわ。家の方は、大変かもしれませんけれど」
様々な意味を込めてそう言った私に、爺やはただ微笑みます。
「そう言っていただけますと、私も来たかいがありますな。――実は、追い返されることも想定しながら、この都市を訪れたのです」
「そんなことはしませんわよ!?」
「ふふ……残念ながら、私はそこまで自分に自信は持てなかったのですよ。もしかするとお嬢様はこちらの都市で順風満帆な生活を送っていらっしゃるかもしれない。年の近いご友人の方達との生活に忙しく、私のことなど思い出してくださらないかもしれない。……私自身が、お嬢様に必要ないかもしれない、と」
なんて馬鹿なことを……!!
「私は、あなたを不要に思えるような、そんな愚か者に見えましたか? 有能さだけの話をしているのではなくってよ? ずっと私を助けてくれたあなたを、そんな風に思えるような女に見えましたの?」
「い、いえ、そういう意味では無かったのですが……! 無論、お嬢様が義に厚く優しい方だというのは重々承知しております。……なのでまぁ、これはなんと言いますか……」
……なんと言いますか……?
「感傷、のような、もの、です。ええ……まったくもって我ながらお恥ずかしい限りですが……他のことならともかく、お嬢様に関してだけは、私も弱気になってしまいましてな」
……いつでも強気だった気がいたしますけど……
――でも、そうですね……爺やの言いたいことは、少しだけ分かります。
「それを言えば、私だって弱気になったり臆病になったりすることがありますわ」
「おや。お嬢様が?」
何故、そこでそんなに驚いた顔をするのです!?
私だって怖いことや不安なことはありますわよ!
「このまま何事もなく生きて、学び舎を出たら――」
その先にある未来は、人にとっては栄誉栄達の極みでしょう。
王妃、という座。
血統や家格からいっても、正妃の座に座ることになるでしょう。それを前提として、家同士の取り決めで私の婚約は成ったのですから。
けれど、それは……私にとっては……
「……お嬢様」
爺やの声に反射的に顔を上げ――慌てて視線を逸らしました。
爺や。相変わらずドキドキするほど魅惑的な眼差しでこっちを見てるんですもの。その目、おやめになって!
「私は今回で、痛感したのでございます。――お嬢様のいないお屋敷はつまらない、と」
「……それで出てくる爺やも、考えたら相当ね」
「ええ、相当ですとも。旦那様もお許しくださいましたが」
「考えたら、許す方も許す方よね。……まぁ、私の健康管理とか現地報告とかそういうのも考えてそうですけど」
お父様、抜け目ないから……
「ふふふ。旦那様にはどのみち無駄だと諦められていたのですが――そういうことにしておきましょうか」
?
「お嬢様。貴女がどこに行こうと、何をしようと、私が私として在れる限りは、お嬢様のお傍で力になりましょう。どんな時、どんな場所、どんな願いであろうと」
「……」
「お嬢様の料理番は、私でなければ務まりませんからな」
にっこりと。
どこかふくふくと得意げな笑顔に、私は思わず吹き出してしまいました。
やだ爺や。そんな子供みたいな顔をして!
「そこでお笑いになりますか……」
「だって爺や、子供みたいなお顔してましてよ?」
「男とは常に少年の心を失わないものでございます」
「ずいぶん年季の入った少年ですわね」
笑いながら、私はわずかに触れる程度の手をそっと動かしました。
無作法でしょう。手を握るかのようにこんなに触れるのは。それでも、今だけはその無作法をしましょう。
「爺やが傍にいてくれるのでしたら、私は無敵ですわね」
「おや、おや」
「ふふ。ずっとこうしていられたら素敵ね」
「ええ。しばらくは」
「ふふ。しばらくは、一緒ね」
「ええ。ずっと」
大きく触れていた手がそっと握られる。包み込まれるように。
「この世界から去るその日まで、私はお嬢様のものです」