彼女は濡れ女
今、俺は女の子を抱きしめている。
黒一色の長髪とつり目がとても似合う少女だ。高木 麗華と言う。
彼女と出会ったのは、今から1時間程前の事。
土砂降りの中、傘を差して歩いていると、土手の上で傘を差さずに俯いて佇んでいる全身黒服の少女を見付けた。
俺はその少女に歩み寄って傘を差し出した。
「風邪引くぞ」
俺がそう言うと、少女は振り向いた。
「あんた、私が視えるの?」
いきなり意味不明な事を訊かれ、俺は頭に疑問符を浮かべた。
「視えなきゃ話し掛けたりしないよ」
すると、少女の胸から一本の赤い紐が生えてきて、俺の胸の中に入り込んだ。
「何だよ、これ?」
「やっと見付けたわ。私が視える人」
「???」
意味が解らなかった。
「私、濡れ女って言う妖怪なの」
「妖怪が俺に何か用かい?」
「プッ」
自称妖怪少女は吹きだした。
今の寒いギャグがそんなに面白かったのか。
「あ、ゴメン。質問に答えるわ。私ね、雨の日にあんたの様に視える人に取り憑いて呪い殺すのが目的なの」
「お前、アホな子だろ。そんな事、俺が信じる訳無え」
「そう・・・じゃあ、呪い殺してあげるわ」
言って少女は念じる。死ね、と。
「あれ、可笑しいな」
「どうした、呪い殺すんじゃないのか?」
「先刻から念じてるんだけど・・・どうして?」
「俺に訊くな」
こんな奴には関わりたくない。見捨てて帰ろう。
そう思った俺は、少女を置いて歩き出す。
「無駄よ」
真後ろから声。
振り向くと、先刻の少女はフワフワと浮かびながら付いてきていた。
不思議でも何でもない。何かトリックを使っているんだ。この赤い紐もそうだろう。
俺は赤い紐を両手で掴んで千切った。が、手を離した瞬間にそれは元通りに繋がってしまった。
「何で?」
「それは霊糸って言ってね、人間に取り憑くとその人間にくっつくのよ。これは一度くっついたら外れる事は絶対に無い。例え千切ろうがハサミで切断しようが、何度でも元に戻るのよ。ま、死んでくれれば外れるんだけどね」
「あ、そ」
バカには付き合ってられっか。
妖怪が何だ。呪いが何だ。そんなもの、存在する訳が無い。こいつが視えない存在なら、それは恐らく、俺の脳が勝手に作り出した虚像に過ぎない。
「じゃあ触ってみれば?」
心を読まれていた。当たり前か。こいつは俺の脳が作り出し・・・って、触る?
俺は恐る恐る、少女に手を伸ばした。
少女は、確かに、そこに存在していた。
これが幻覚なら、触れるのは可笑しい。
「どうお?信じる?」
「否、全然」
「しょうがない。奥の手を使わさせて貰うわ」
「奥の手?」
少女はスーッと通り抜ける様に俺の体の中に入ってきた。
途端、全身が麻痺して身動きが一切出来なくなった。
金縛りか。これは骨格筋の弛緩が原因で起こる現象だ。
『どうお?これで信じる?』
突然、頭の中に声が響いた。少女の声だ。
どうやら脳が夢を見始めたらしい。つまり、幻聴だ。
「言っとくけど、幻聴なんかじゃないからね」
俺は俺の考えを俺の口を通して否定した。
否、俺は喋っていない。そもそも喋ろうなんて意識していない。
「どうお?これで信じる?」
少女は俺の中から出て来るとそう訊ねた。
「ああ、お前は幽霊だ。幽霊は存在した。それを今、身を持って証明した」
そう答えるしか選択肢は無かった。だから俺はそう答えた。
「幽霊?あんな低級霊と一緒にしないで欲しいわね。私は妖怪よ」
「同じもんだろ?」
「まあ、同じ霊子って言う物質で出来てはいるけど、霊力にはかなり差があるわね」
「あ、そ」
俺は振り返って歩き出す。
「一寸、何処行くのよ?」
付いて来た。
「付いて来いなんて言った覚え無いぞ」
「付いて行きたくなくても紐が繋がってるから引っ張られるのよ」
厄介だ。
「今、厄介だと思ったわね?」
無視に徹底しよう。
「因みに無視しても無意味よ。あんたの心、読めるんだから」
無心になろう。
「無心になるの?頑張って」
ウザイ。
「あれ、無心になるんじゃなかったの?」
「ウッセエんだよテメエ!」
俺は振り返り様に拳を突き出した。が、それはスッと透過してまう。
「あれ、先刻は触れたのに何故!?」
「私、霊体だから、私が望まない時は触れないわよ」
もう一度殴ってみる。しかし、今度も通過してしまう。
「ええいっ、一発殴らせろコラ!」
「そんなに殴りたいの?」
「ああ。殴らないと気が済まないね」
「最低ね。まあ良いわ。代償は高く付くけど」
「代償?」
「あんたの体。私を殴る換わりに私があんたの体を貰う。死ぬまで使ってあげるわ」
「それだけはやめておこう。だから望め」
「何を?」
「触れられる事を」
「それは別に構わないけど」
俺は少女に触れた。感触がある。
「掛かったな」
「???」
俺は北叟笑んで彼女を蹴り付けた。
「悪い、足が滑った」
「やったわね。約束通り代償は払って貰うわよ」
「おっと、俺はそんな約束はしてねえ。お前が俺に約束させたのは、殴ったら体をやる、と言うものだ。蹴ったらやる、なんて約束はしていない」
「じゃあ次からはそれも入れるわ」
「そうか。なら頭突きでどうだ!?」
俺は彼女の頭に自分の頭をぶつけた。
「痛!次やったら乗っ取るからね!?」
「そうか。それじゃあまた変えなきゃな」
「・・・もう良いわ。私の負けよ。好きにして頂戴」
勝ったぜ、イエイ! って、バカバカしい。何の勝負をしていたんだ俺は。
「あ、そう言えば未だ名前言ってなかったな。俺、日野神 輝って言うんだ。お前、名は?」
「高木 麗華」
「妖怪なのに名前があるのか」
「人間として生きてた時の名前よ! 何か文句ある!?」
「生きてた? お前、人間だったの?」
「そうよ。あれは確か、1年前になるのかな。当時、私には好きな人が居たの。片思いだったわ」
「それで?」
「待ち合わせの日時を書いたラブレターを下駄箱に入れたわ。その日は今日と同じ土砂降りでね。待ってる時は晴れてたから傘を持って無かったのよ。で、待ってたら急に降り出して来た。それでも私は待ち続けたわ。彼が来るの。でも結局、彼は来なかった」
「それで風邪を引いてその場で倒れて御陀仏か」
「御陀仏言うな! 辛かったのよ!?」
「すまん。で、相手の名前は?」
「それは・・・あんただよ日野神 輝! あんたが私を殺したのよ!」
「そうかそうか・・・って、あの名前の無いラブレターの差出人はお前か! あんなもん捨てちまったよ! 名前書いてなかったから悪戯かと思って!」
俺がそう言うと麗華はどーん、と効果音を出して地面に手を着いた。
「名前を書き忘れるなんてバカだわ。あんたの所為にしてごめん」
「否、良いけどさ、別に。ま、そう落ち込むなって」
「これが落ち込まずに居られますか!」
「ああ、解った解った。解ったから元気だせ。そうだ、元気の出るおまじない教えてやるよ」
「え?」
麗華は俺を見上げた。
「好きだ」
「え?」
「好きだって言ったんだ。今のが手紙の返事だ。もう言わねえからな」
「何時から?」
「高校に入学した時からずっと」
「って事は、私に声掛けた時から気付いてたの? 私だって」
「気付いてた。すまなかった。辛い思いさせて」
言って俺は傘を手放して麗華を抱きしめた。
傘に遮られていた雨が、俺たちに降り掛かる。
「ん・・・」
何だ、この倦怠感は。
「どうしたの?」
「何か、気分が悪くなってきた」
俺が言うと麗華は北叟笑んだ。
「漸く呪いが効いてきた様ね」
「え、どう言う事だよ?」
「言ったでしょ。私は濡れ女と言う妖怪。濡れ女の役目は視える人間に取り憑いて呪い殺す事」
「一寸待ってくれ。と言う事は、俺はもうじき死ぬのか?」
「うん、この私の呪いでね」
「嫌だな。未だ死にたく無えよ」
「待ち合わせに来なかったあんたが悪いのよ」
「そう・・・だな・・・」
その言葉を最後に、俺は意識を失った。
「う・・・うん・・・」
眩しい太陽の日差しに俺は目を覚ました。
目の前には雲一つ無い空。
「此処は?」
「あんたが倒れた土手よ」
その声と共に、麗華が視界に入ってきた。
「それにしても、あんたシブトイわね」
「俺、生きてんの?」
「最悪な事にね」
「呪い殺すとか言って結局出来なかったな。お前、凄いヘタレな」
俺は起き上がり様にそう言った。
「う、五月蝿いわね! この次は絶対呪い殺してあげるから覚悟しておくのね!」
「頑張ってくれ。つーか、どのくらい寝てた?」
俺の問いに麗華は指を三本立てた。
「三時間?」
首を横に振る。
「三日?」
頷いた。
「マジかよ。学校、二日も休んじまったじゃねえか」
「あんた、土日も学校行くの?」
麗華が可哀想なものを見る目で見つめた。
「え、今日、日曜?」
「そうよ。だから一杯遊べるわね。そうだ、私とデートしない?」
「良いけど、一回帰るぞ。無断外泊したこと・・・くしゅん!」
「あら、風邪?」
「誰の所為だコヤロー」
「あー、人の所為にする訳?」
「人じゃないからな、お前」
「くっ・・・」
麗華は言葉に詰まって反論出来なかった。
「しっかし、デートったってお前、他の奴に姿視えねえだろ」
「それは誰かの体を借りれば良いわ」
「誰かって誰の?」
「うーん、有紀檸?」
「有紀檸を借りんの?」
「だって他に思い浮かぶ女居ないんだもん」
「嫌だね、俺は」
「何でよ?」
「だって、あいつ、直ぐ暴力振るうじゃん。大人しくしてれば可愛いのに」
「まあ、確かにね。でも他に居ないし」
「そうだな」
言って俺は立ち上がり、有紀檸の家に向かう。
その途中、偶然にも有紀檸と出会ってしまった。
「げっ、有紀檸!」
思わず叫ぶ俺。
「ああ?」
不良少年が着る様な服を着た長い金髪の美少女が睨み付ける。
「あ、い、良い天気だね?」
有紀檸は俺の問いを無視して間合いを詰めた。
「一寸の間ツラ貸せ」
言って有紀檸は俺を路地裏へと連れ込む。
ガスン!──いきなり顔面にパンチを喰らった。
「ど、どうしたの?今日はかなり機嫌悪そうだけど、嫌な事でもあった?」
「彼氏に振られた」
「そりゃ振られるって。有紀檸は直ぐ暴力振るうからな」
言ってから俺は気付いた。有紀檸の神経を逆撫でした事に。
「お前、オレに喧嘩売ってんのか?」
「否、売ってません。てか、オレって言うの直さねえか?お前も一応、女なんだし」
「それがどうした!?」
問いながら拳を繰り出す。
俺は既の所で受け止めた。
「バーカ」
反対の拳が俺の腹に放たれた。
「がはっ!」
そのショックで俺は意識を失い掛けた。
「てめえ、今唾掛かったぞ!どうしてくれんだ!?」
「あ・・・あ・・・」
すいません、痛くて喋れません。
「あーあ、情けない。女にやられるなんてホントに情けないわね」
五月蝿え、見てねえで何とかしろ!
「否、面白いから暫く見てるよ」
死んだらどうすんだよ!?
「元々呪い殺すのが役目だからね」
呪いだ。俺は呪われてるんだ。麗華の呪いで有紀檸に殺されるんだ。
傍らでクスクスと笑う麗華が煩わしい。
「お前、近くで見ると案外格好良いじゃないか。お前、オレの彼氏にならないか?」
「地獄を見るより恐ろしい」
俺は思わず声を漏らした。
「何か言ったか?」
「い、いえ、何も!喜んでお付き合いさせて頂きます!」
あまりの恐ろしさに俺はそう言ってしまった。
「人の彼氏取るなー!」
怒った麗華が有紀檸の中に飛び込む。
「な、何だ?何か寒気がするぞ」
有紀檸が体を震わせた。
「ダメ、操れない!」
言って麗華が有紀檸から出てくる。
「何で操れないのよ!?」
俺が知るか!
「そんなぁ」
「おい」
有紀檸の視線が麗華に向く。
「お前だよお前」
有紀檸が麗華の髪の毛を掴んだ。
「痛いわね!放しなさいよ!」
「そいつが視えてんの?」
俺は訊いてみた。
「視えてる。て言うか何だ?妖怪の分際でオレを乗っ取ろうなんて百万年早いんだよ!つーかお前、ヘタレじゃねえか」
ヘタレ。有紀檸が麗華を呼ぶ時のあだ名だ。
「え、有紀檸、視えてるの?」
「当然だ。言わなかったか?オレが霊媒師の娘だって事」
「そ、そう言えば父が霊媒師だったわね。確か、坂野 貞行さん。一流の霊媒師だったわね。てか髪抜けるから」
「安心しろ。お前の髪なんて有っても無くても変わんないから」
「どう言う意味よ?」
「一言で言えばブス」
「何言ってんだよ有紀檸。麗華は可愛いぞ」
「お前、ヘタレの味方すんのか?」
「ああ、するね。お前より麗華のが何十倍も可愛いわ」
「0.1秒以内にオレが可愛いと言い直せ」
「ゆきっ」
有紀檸の渾身の蹴りが俺の腹に決まった。
「言えるか!」
「今、挑戦してただろ。言えないなら挑戦する前に言え。て言うかお前、胸から出てるその紐は何だ?」
「ああ? これか。俺、呪われてんだ。こいつ、濡れ女って言ってな、俺に憑いたんだ」
「そうか。お前、土砂降りの中、そいつに傘を差し出したのか。良いだろう。オレが除霊してやる」
言って有紀檸はお経を唱え始めた。
「嫌、やめて!」
効果は抜群だ。
「お前はこの世に居てはいけない。速やかに成仏しろ」
「嫌だ! 私は輝を呪い殺すまで消えないわ!」
「往生際が悪いぞ。これでどうだ。観自在菩薩行深般若波羅密多時」
「うわああああ!」
有紀檸のお経に悲鳴を上げる麗華。
「やめろ!」
麗華が可哀想に思えた俺は、有紀檸の顔面に拳をくれてやった。
「輝・・・」
「麗華、大丈夫か?俺はお前の味方だからな。お前の事は俺が守ってやる」
「てめえ、よくもやりやがったな!」
キレた有紀檸が俺を打っ飛ばす。
俺は放物線を描いて地面に落下する。
「痛えじゃねえか」
俺は立ち上がり、血痰を吐いて有紀檸に迫る。
「ふんっ」
有紀檸が右ストレート。俺はそれを擦り抜けて鳩尾に拳を埋ずめた。
「うっ!」
有紀檸が呻き声を上げて気を失った。
「輝!」
麗華が嬉しそうな顔で俺に飛び付いてきた。
「有り難う、輝。私、あんたの事、前よりもっと好きになっちゃった。これからずっと、一緒に居ても良い?」
「俺を呪い殺す使命はどうすんだよ?」
「そんなのどうだって良いじゃん。て言うか、今の私には輝を殺せないよ」
「麗華」
俺は笑みを浮かべた。
「輝」
麗華は前に回り込み、接吻を求めた。
俺は唇を軽く尖らせ、麗華の唇に重ねた。
「ん・・・ぷはっ」
唇を麗華から離した。
しかし、未だ足りないのか、麗華が唇を近付けてきた。このキス魔め。
俺は再び麗華と接吻をした。そして互いに舌を奥に差し入れる。ディープキスだった。