炎の魔人
まず、リドリーは襲われた女性に会いに行った。パン屋の親父さんを始めとする、彼女たちの身内は渋ったけれど、娘さんを襲ったのはヴァンパイアではないと説明すると、襲われた女性と合わせてくれた。
やはり彼女らは、自分達がヴァンパイアの眷属にさせられたんじゃないかと、疑われるのが怖かったようだ。
彼女ら曰く、襲って来たのは最初、大きなフード付きのマントに身を隠した男だったという。けれどその犯人は、彼女たちの血を吸うと、炎を纏い、跳ぶように消えてしまったのだと言う。
その様はあまりに人間離れしていたので、彼女達は噂に聞くヴァンパイアだと思ってしまったのだという。
これで一つ、確証に近付いた。
相手は炎を扱う人の魔獣だ。いや、魔人と言うべきか。
そして、次にカーギルに会いに行く。
前に怒らせてしまったので、話を聞く事を断られるかもしれないと思ったけれど、ユノンが話を通してくれていたようで、すぐに話を聞く事が出来た。
聞きたかった話は、カーギルがペギルを説得しようとしていた内容。素直に教えてくれるかはわからなかったので、リドリーはまず、自分の予想を伝えた。
カーギルは驚いた顔をして、何故それをと、呟いた。
それだけで十分だ。
ペギルの研究。それが、この三つの事件の発端だと確信する。
後は証拠だ。
けれど、それもすぐに得られるはずだ。
「本当に彼が犯人なんですか?」
エレノアが小さな声で疑問を投げかけてくる。
彼女とリドリーは、犯人を尾行していた。
夜遅くに家を出た犯人。普通ならば、酒場などに行くだろうに、彼はどんどん、人気の無い方へ行こうとしているように見える。
「ああ、たぶんね。彼は嘘を吐いていた」
「嘘ですか?」
「ああ。彼は僕らと会った時、魔法の知識はほとんどないと言っていた。けれど、魔術師を目指した人間が、そんなわけはないだろう?」
「……まぁ、そうですね」
「だから僕は、彼に疑いを持ったんだ。そして彼が魔法に憧れていたのなら、魔術師たちに嫉妬していたはずだとも想像できる。何故なら、小さい頃から憧れ、なりたかった魔術師に、彼は魔印が見えないというだけでなれなかった。けれど他の魔術師は、彼より知識が劣っていても、魔印が見えるというだけで魔術師になっている。その事実が、彼には我慢できなかったはずだ」
「でも、なんで殺されたのはペギルさんなんですか?」
「それは、彼の研究が、この犯人にとっての希望だったからだよ」
「……希望ですか?」
わからないと言うように首を傾げるエレノア。
「ペギルの研究は、人工的に獣に魔属種を融合することで、魔法を使える獣、つまり魔獣を生み出すものだ。それがもし、獣ではなく、人だったらどうだい?」
「人? つまり、魔法が使える人が生まれるってことですか?」
「ああ。ペギルはその研究もしていたんだ。それは、魔法が使いたくて仕方なかった犯人には、大きな希望に見えたはずだ」
「……確かに。でもそれなら、ペギルさんは夢を叶えてくれる恩人みたいなものじゃないですか」
「まぁね。ペギルがその実験を続けるなら確かにそうだ。でも、カーギルがそれをやめるように説得した」
「カーギルさんがですか?」
「ああ。ペギルの実験は危険すぎる。魔属種を人と融合させると、どんな事が起こるかわからない。それこそ、普通の魔獣のように、意思の無い本能だけの化け物になるかもしれない。そして、その研究は試しただけで、人体実験となる」
「人体実験」
エレノアはその単語に、顔を強張らせた。
そんなものは人道的に許されない。それをした事が公になれば、民だけでなく、貴族たちからも非難を受け、魔術の塔の立場は危うくなるだろう。
だから、カーギルはペギルを説得した。そして、ペギルはそれを受け入れたのだ。
「けれど、それをやめられると困る者が居た」
「……それが、彼なんですね」
エレノアは改めて、犯人を見つめる。
背は高く、ヒョロっとした体付きの男。服の上に今は、すっぽりと体を覆うマントを羽織っている。
商人のシアンだ。
彼はペギル事件の第一発見者で、魔法が使えないからこそ、疑いから外されて来た。けれど、リドリーの推測が正しければ、彼には魔法を使えるはずだ。
「シアンは魔法を使えるようになる為、ペギルを殺し、彼の残した未完成の練成術で、魔属種と融合したのさ。ユノンの話だと、魔法装置なら、前段階さえ準備できてれば、誰でも起動はできるってことらしいしね」
そして、その試みは上手く行ったのだろう。
無事に魔法を使う力を得た彼は、魔法の力を使ってペギルの亡骸を燃やし、今まで、魔法を使う事ができなかった彼は、犯人像から逃れた。
「……じゃあ、なんで放火や通り魔をしていたんですか?」
「それはたぶん、ただの欲求だと思う」
「欲求ですか?」
「ああ。魔法を使えるようになったんだ。そうしたら使いたくなるのが人の性ってものさ。彼の取りこんだ魔属種は、火を扱う魔属種だった。だから、何かを燃やしたかったってことだろう。彼は本来、悪人ではないから、わざと被害の少ない所を選んでね。そして、通り魔は逆に、魔属種の性さ。ただ、血が欲しいのか、血を得なければその体を維持できないのかはわからないけれど、彼が血を得ようとした結果が、通り魔事件なのさ」
「……リドリー先輩は彼を悪人じゃないと言いましたけれど、私はそうじゃないと思います。自分のしたい事の為に、人を殺し、無関係の人も、襲い続けているんですから」
エレノアは睨むように、犯人の背中を見つめる。
「……そっか。……そうだね」
エレノアの言う通りだ。
彼は才能という、自分ではどうしようもない理不尽なもので、夢を諦めさせられた。そんな彼に、リドリーは同情をしたが、だからと言って、彼のしたことは許される事じゃない。
夢の為とはいえ、人を殺した。
彼は、既に悪人なのだ。
シアンは狙いを定めたのか、周囲を少し警戒すると、羽織っていたマントのフードを被る。
けれど、彼の警戒なんて素人のものだ。曲がりなりにも訓練を積んでいるリドリーとエレノアには、気付かなかったようだ。それに、今はまだ人混みと言って良い。シアンは、リドリーとエレノアには、一度しか会っていない。顔をしっかりと覚えているわけでもないのだろう。
いよいよ、彼が犯人である確信が近い。
少し歩けば、シアンが誰を付けているのかはわかる。
そこら辺にいる、ごく普通の女性だ。少し綺麗ではあるけれど、仕事帰りなのか疲れた顔をしている。あまり裕福ではないのだろう。服には布をつぎはぎした部分もある。裕福ではないという事は、裏通りの方に家がある事が推測できた。
裏通りには表通りほど、夜に外を歩く人が居ないし、細かい道が多いので死角がある。シアンは裏通りに入りそうな女性を選んでいたのだ。
「……やっぱり、女の人ですね。なんで女の人を狙うんですかね」
エレノアは不機嫌そうに言った。
「まぁ、仕方ないよ。女性の方が、男よりも力が弱いイメージがあるし、抵抗される心配が少ない。……それに、血を吸うってことは、相手に噛みついたりするんだろう? なら、男としては、男よりも女性の方に噛みつきたいんじゃないかな」
「良いじゃないですか、男でも。ホモホモしくて」
「……だから、それが嫌なんだよ」
リドリーはゲンナリした顔で言う。
見ればいよいよ、女性とそれを追うシアンは、裏通りへと入って行く。
今までは人混みがあったので、話すことに支障はなかったけれど、これからはそうもいかない。
エレノアに話さないように合図をし、二人も裏通りへと入って行く。
ここからはさすがに、後ろを歩くわけにはいかないので、曲がり角ごとに、身を顰め、相手の向かう先を確認しながら進む。だが、それも長くは続かない。シアンとしても、女性に家に着かれてはいけないのだ。
いくつか曲がった細い道で、シアンは後ろに誰もいない事を振り返って確認すると、女性目掛けて走り出す。
「そこまでだ、シアン」
襲いかかろうとしたシアンを、リドリーは大声で制止する。
シアンは驚きに動きを止める。シアンの尾行にすら気付いていなかった女性も同じようで、驚いたように振り返り、すぐ近くに立つシアンに、怯えたような顔をする。
リドリーとエレノアはすぐさまシアンを捕まえようと走るが、その事にチラリと振り返り気付いたシアンは、女性を突き飛ばして逃げ出した。
「エレノア。彼女を頼む」
リドリーは女性とシアンの後姿を交互に見やって、そう決断し、エレノアの答えも聞かずに後を追う。
先程、チラリと後ろを見たシアンの顔。
それは人のものではなかった。目は赤々と鋭くなり、口からは牙が生えていたのが一瞬、確認できたのだ。
間違いない。彼は魔属種を体に取り込んでいる。
そしてそれは、とても危険な事のように思えたのだ。
「はぁ、はぁ」
何でこうなった。
シアンは荒い呼吸を繰り返し、必死になって逃げながらも、そう思わずにはいられなかった。
逃げながらも追いかけて来たのは、魔術の塔で会った警官であることを思い出してはいた。確か、名前はリドリーだ。
自分を名指しで呼ばれたということは、相手は自分を、通り魔の犯人だと断定しているのだろう。
でも、どうしてバレたのだろうか?
襲いかかった時、自分の顔が魔属種との融合により、人とは違うものになっているのを、シアンは知っていた。だから例え被害者に証言されようとも、自分に繋がるはずがないと、高を括っていたのだ。
もしも、襲う前の姿が目撃されていようとも、襲う前は、女性の後を付けた時点で、フードで顔を隠してもいる。
今のシアンと同じような格好をした者は、旅人には大勢いるし、最初から自分の後でも付けていない限り、通り魔の犯人だとわかるはずがない。
そう思っていたのに、犯人だと気付かれてしまった。
それよりも気になる事がある。
……どこまでバレているのだろうか?
通り魔だけならば、まだ良い。襲った女性は全員軽傷のはずだ。
例え捕まっても、罪としては軽いだろう。
ただ、女性の驚く姿が見たかったんだとでも言えば、殺意の否定にもなるはずだ。
だが、放火、そして、ペギル殺し。
放火は延焼の起こり難い場所を選んでいたとはいえ重罪だし、ペギルに至っては殺してしまっている。
それらを知られれば、極刑は免れない。
あのリドリーという男は、ペギル殺しの犯人も探していた。つまり、全てに思い至っている可能性がとても高い。
どうしてこんなことになったんだろうか。
シアンは商人の家に生まれた。彼の家は魔術師の塔に、研究の為の鉱石や薬草などを卸していたので、その手伝いをしていた彼は、幼い頃から魔法に触れる機会があった。
子供心に、目の前で行われる魔法の数々は、まるで夢物語に出てくる光景のようで、とても憧れた。
いつか自分も魔術師になるんだと、本気で思ったのだ。
その為、魔術師の塔に行っては、魔術師たちに話を聞いたり、魔法に関する本を読んだりと、自分に出来る努力をしてきた。魔法に関する知識ならば、本業の魔術師にだって負けない自信を持った。
そして運命の受験日。
シアンはどの受験者よりも魔法に精通していて、余裕で合格できるという自負があった。
しかし、結果は不合格。
理由は簡単だ。
魔法を使う為の根源である、魔印を見る事ができなかったのだ。
知識や努力ではどうしようもない才能という問題。
自分よりも、魔法に関して疎い人達が次々と受かって行く。誰よりも情熱があると自負していただけに、彼は悔しくて仕方なかった。
今までの夢や憧れ、それに向かって行った努力の全てが、否定されたような気がしたのだ。
しかし、どんなに泣き喚こうと、仕方の無い事だった。本当に、どうする事もできないものだったから。
なので、せめて自分の気持ちを慰める為、シアンは魔法装置を買い求めたりもした。
魔法装置は、魔印を用いた仕掛けさえ、魔術師が施していてくれれば、誰でも扱える。それは、まるで魔法を使っていると、錯覚させてくれるのだ。
魔法装置は高価なものだったけれど、幸い、シアンの家は裕福なので、少しやりくりすれば、買えないわけでもなかった。
魔法装置を使う事で、自らの魔法に対する欲求を晴らし、なんとか満足していたつもりだった。
けれど彼は、ペギルからある話を聞いてしまった。
ペギルは自分の研究成果を話したくて仕方ない性格をしていた。それでも同じ魔法の研究者に話すのは、研究成果を盗まれる可能性があるともわかっていた。なので、魔法の使えないシアンは、ペギルにとって、話し相手としては都合が良かったのだろう。
魔術師に対して、常に悔しさを感じずにはいられないシアンではあったけれど、やはり、魔法の話は好きだったので、彼の話を根気よく聞いていた。
そしてその中で、シアンが魅かれたのは、魔獣を生み出す研究。普通の動物に、魔属種を融合させ、魔法の使える獣を生み出そうというものだ。
けれど、ペギルはその先をも考えていた。
獣が魔獣となって、魔法を駆使できるようになるように、人を魔属種としての力を得た魔人とし、自由に魔法を使える存在にしようと。
そこに、魔印が見えるかどうかなんてものは関係ない。
一度は諦めた魔法を使うという夢。
ペギルの研究が成功すれば、その夢が叶うかもしれない。
だから彼の研究がはかどるように、シアンは色々と便宜を図ったのだ。
必要だと言われた素材や資料を買い集め、人間の情報が必要だというのなら、シアン自身が実験体となって見せた。
一度、失いかけた夢だからこそ、もう、失いたくない。
その思いは、ただ魔法に憧れていた子供のころよりも強かった。
だからこそ、シアンは許せなかった。
ペギルが魔人の研究をやめたことが。
もう、ほぼ完成をしていたというのに。
残った課題は、血への欲求。
定期的に人の血を飲まなければ、魔属種の本能が強く出て、理性を失ってしまうのだ。
しかしそれは、血を飲み続ければ、理性を失わずに済むという事でもある。
だからシアンは決意したのだ。
ペギルを殺し、不完全であろうと、魔人になることを。
全てはシアン自身が選んだ道。
でも、他に魔法を使えるようになる方法はなかった。
仕方ないじゃないかと、シアンは思うのだ。
「くそっ」
思わず悪態が出る。
こうなれば、この町を出て行くしかない。
一度家に戻り、……いや、それも危険かもしれない。家で待ち伏せられている可能性もある。
なら、すぐに町を出るべきだ。
そう思いながらも、踏ん切りがつかない。
準備もせずに、町を出る。その心細さに心が揺れて、中々決められない。もっといい選択がある気がしてならない。
どうすれば、どうすれば。
頭の中で、そんな思いがぐるぐると回るだけで、一向に答えが出ない。
「見つけた」
その声に顔が強張る。
そして突如、炎が襲いかかって来た。
成す術もなく炎に包まれるシアンの体。
体から焼けるような痛みを発してくるので、は慌てて魔属種の力を使い、その炎を霧散させる。
「へぇ。やはり魔属種の融合体だけあって、魔法への耐性は強いか」
男か女かわからない声。
その声の方を見ると、今の自分と同じような格好をした人が居た。唯一違うのは、その顔に、仮面を被っているということ。
「……なんだ、お前は」
シアンは、先程の警官とは違う新たな相手に困惑する。
しかも、この仮面を付けた者は、自分を魔属種との融合体と言った。つまり、ペギルとの事を知っているのだ。
「私はレリック。弱き者の味方だ」
レリック。その名には聞き覚えがあった。悪徳な貴族や豪商から盗みを働いては、それを貧民たちに訳与えている風変わりの盗賊。
人々からは怪盗レリックと呼ばれている。
「……その怪盗が、私に何の用だ」
「何の? そんなのは簡単な事だ。お前がか弱き女性を襲っているのは知っている。ならば、弱き者の味方として、放っておくわけにはいかないだろう?」
そんなことを言うレリックに、思わず顔を顰める。
この怪盗が、本当に正義感で動いているのかはわからないけれど、自分にとって危険な存在だという事は、嫌でもわかった。
少なくとも、自分が炎の魔法が使える事を知られてしまったのだ。レリック自身、魔法を使っている。ならば、この怪盗の正体は、魔術師の塔の人間である可能性が高い。
そうなるとペギルが殺された事件も知っているはずだ。そして、容易にその事件の犯人と結びつけてしまうだろう。いや、融合体だと知っているという事は、魔術の塔の中には、真相に辿り憑いている者が居るということだ。
やはりもう、この町には居られない。むしろ、この国にも居られないかもしれない。
一刻も早く、逃げ出さなければ。
シアンはそう思って走り出そうとする。けれど、その目の前に、突如としてレリックが現れる。
思わず動きを止めたシアンの背中に炎が当たる。
焼けるような痛みを感じながらも、シアンは理解する。突如現れたレリックは幻なのだと。
シアンは無知ではない。むしろ、魔法に関する知識なら相当なものだ。おそらくレリックは、熱をもって大気を歪ませ、幻を作っているのだとすぐに察する事が出来た。
それと同時にわかる事は、レリックという魔術師が、完全に魔法を使いこなせているという事だ。このままだと、逃げ切るどころかやられてしまう。
シアンは決意する。
投降する事をじゃない。戦う事をだ。
魔人になったばかりのシアンはまだ、魔法をそれほど使いこなせるわけではない。なので、まともにレリックと戦ったところで、勝ち目は薄い。
けれど、シアンには奥の手があった。
彼は、自分の中にあるもう一つの意思に語りかける。
それは理知的でありながら、それ以上の本能に塗りつぶされている。
シアンは今まで騙し騙し抑えつけて来たけれど、それを開放する。
そう、魔属種の意思を。
「血が欲しいか? ならば、好きなだけ飲めば良い」
彼はレリックに目を向けながら、自分の中の魔族種に、語り掛けるようにそう言った。すると、彼の体が膨れ上がっていく。
マントが燃え上がり、そこに現れた姿は人には似ていたが、人ではなかった。
狼と人の間のような奇妙な顔をし、服の間から覗く肌には炎のような毛並みがある。そして、背中の破れた服の隙間からは、六つの触手のようなものが生え、その先に炎をともしていた。
魔属種としての力を最大限に引き出す魔獣化。
シアンはその姿へと変わると、獣のような動きで、レリックへと跳びかかった。
思った以上にシアンの足は速かった。
それは取り込んだ魔属種の影響だろうか?
とにかく、裏通りの道が複雑なこともあり、リドリーはシアンを見失ってしまった。
けれど彼は、諦めずに走り回っていたのだけれど、炎が噴き上がるのが見えた。あまりに自然ではない炎。
おそらくシアンの魔法だろうと見当は付いた。
何かと戦っている?
そう思って、思い浮かんだのはエレノアの姿。
女性を避難させた後、追って来たのかもしれない。そして、先にシアンと遭遇したのだ。
リドリーは焦りながら、炎が噴き上がった場所に目掛けて走り出す。
そして、その場所に辿り着くと、レリックと人型の魔獣との戦いが繰り広げられているのが、目に飛び込んできた。
レリックが居る事自体には、リドリーはそれほど驚かなかった。予想の範囲内とも言える。むしろ、予想が確証へと変わったと言うべきか。
それより気になるのは人型の魔獣。
その動きは俊敏で、何より炎の魔法をこれでもかと言う程、使ってくる。辛うじて纏っている衣類から察するに、あれはシアンなのだとリドリーは判断する。
レリックはシアンに苦戦していた。
レリックの放つ炎の魔法は、魔獣となったシアンにはたいした効果を示さず、幻覚を多用しながら距離を取ろうともするけれど、シアンの雄叫びのように放った熱波が、レリックの幻覚を掻き消すのだ。
レリックの幻覚の正体を、リドリーは悟る。
しかし、今はレリックよりも魔獣だ。ここはレリックと協力してでも、シアンを止めるべきだろう。リドリーはそう判断すると、レリックに呼びかける。
「レリック。助太刀する。幻覚でシアンを惑わし続けてくれ」
彼の言葉にレリックは頷いて、要求通り幻覚の量を増やす。
シアンは幻覚を掻き消そうと熱波を放った。
予想通りの行動。
それだけの隙があれば、距離は縮められる。
警棒を振りかぶって跳びかかったところで、シアンはこちらの接近に気付いたようだ。けれど遅い。こちらは振りおろせば良いだけなのだ。
しかし次の瞬間、横腹を殴られたような衝撃と共に、リドリーは吹き飛んでしまう。
地面をゴロゴロと転がりながら、なんとかすぐに立ち上がる。
シアンの背中でゆらゆらと揺れる、六本の触手。どうやら単なる飾りではなく武器としても使えるようだ。あれで、薙ぎ払われたのだろう。
唯一の死角となる背中にも隙はない。
魔法が使え、動きは俊敏。更には自由自在に動く六本もの触手。
厄介だ。
「シアン。これ以上、抵抗するな。罪が重くなるだけだぞ」
リドリーは呼びかける。
まともに戦って、勝てる可能性が少ないのなら、ここは説得しかないだろうと思ったのだ。それに、これ以上暴れられたら、周りに被害が出かねない。
裏通りの人間は、争いがあったら野次馬などせずに、自分の家に立て籠ろうとするから今の所は大丈夫のようだけれど、それがいつまで続いてくれるかわからない。
しかし、リドリーの呼びかけに何ら反応を示すことなく、シアンはレリックの方へと向かって行く。
今の状態のシアンには、もう、人としての意思がないのかもしれない。
これは、非常に危険だ。こうなると、本当に魔獣と変わりない。
リドリーは戦う決意を固め、また、距離を詰める。
レリックへと向かうシアンは背を向けているのに、触手はまるで別の生き物のように、リドリーへと襲いかかってくる。
鞭のようにしなやかに、そして無軌道な攻撃に、リドリーはたちどころに防戦一方となってしまう。
正面ではレリックが魔法を使い応戦しているが、それも次第に弱まって行く。
レリックの魔法が契約魔術なら、法を使いながら血を失っているということになる。
限界を迎えたのか、レリックの体がその場でふらついている。
それを隙だと思ったシアンが、正に獣のような俊敏さで、一気に距離を詰めようとする。リドリーは助けようとしたけれど、触手によって阻まれる。
シアンはレリックを掴み、噛みつこうと大きく口を開けたその時だった。
走り現れたエレノアが、レリックを掴むシアンの手に、小剣の一撃を振り下ろす。
斬り飛ばすまでは行かなかったけれど、腕に大きな深手を負ったシアンは、レリックを思わず取りこぼした。
「んはは。ヒーローは遅れてくるものなのですよ」
恐怖を振り払うように、引き攣ったように笑う彼女は、レリックを庇うように、シアンの前に立ちふさがる。
「さぁ、来い、化け物!」
敢然と立ち向かうエレノア。それは警官として立派なものだった。けれど、リドリーは焦る。
エレノアは警官として正規の訓練を受けてはいる。そこらの暴漢には負けないだろう。けれど、今のシアンは魔獣だ。しかも、魔獣の中でも強い方だと思われる。彼女ではどうしようもない相手だ。
「エレノア! 逃げるんだ!」
リドリーが叫ぶけれど、エレノアは引かない。
ここで逃げたら、あの日、自分を助けてくれたリドリーのように成れないと思ったから。
あの時のリドリーだって、勝てると思って魔獣と立ちふさがったわけじゃない。ならば、自分も勝てるとは思えなくても、人を守る為ならば、立ち塞がらなければならないと、エレノアは思うのだ。
振るわれるシアンの長く伸びた獣のような爪。
片腕は負傷し、腕一本の攻撃だけれど、それはとんでもなく速い。
でも、剣術の稽古で振るわれるリドリーの剣の方が速いとエレノアは思う。
防いで防いで、防ぎ続ける。きっと、リドリーがなんとかしてくれると信じて。
しかし、重い一撃一撃に、どんどんと腕が痺れてくる。
剣を握っている感覚が怪しくなってくるのがわかる。
リドリーはどうだろうと、一瞬エレノアが視線を向けると、リドリーは懸命にこちらに来ようとしているけれど、触手だけでなく、魔法によっても牽制されている。
まずいなこれは。
エレノアがそう思った瞬間、爪の一撃を受け止めた衝撃で、小剣が腕から落ちて転がる。そして次の瞬間、エレノアは蹴り飛ばされた。
彼女の軽い体は簡単に宙を舞い、家の壁に叩きつけられる。あまりの衝撃に息ができない。それでもシアンの方へと視線を向けようとするけれど、向かってくる火球によってその姿は見えなくなっていた。
エレノアは思わず、死を覚悟する。しかし当たる瞬間、エレノアの前にレリックが割って入る。火球を受けて燃え上がる、レリックの右腕。
契約魔術による魔法の耐性のおかげか、苦痛の呻き声を上げながらも、なんとか炎を防ぎきる。しかし、レリックにとっても本当に限界だったのだろう。その場で膝を着き、動けなくなってしまう。
シアンは追撃するように火球を再度生み出そうとする。
だが、彼は突然の痛みに、悲鳴を上げ、魔法を途中で霧散させる。
見れば、リドリーによって触手の一本が切り落とされていた。
彼はいつの間にか、エレノアの落とした小剣を拾ったのだ。
彼の頭の中は、怒りで真っ白に染まっていた。
「……シアン、シアン、シアン! これがお前の望んだ事か? これが魔法でしたかった事か? ならば、お前は悪だ! 人を傷つけるお前を、僕は絶対に許さない!」
リドリーはそう叫ぶと、前へと進んで行く。
振るわれる触手を斬り落とし、襲い来る魔法をまるで邪魔だと言わんばかりに、左腕で無造作に振り払い、どんどんと距離を縮めて行く。
「……凄いな。彼は怒りで我を忘れることで、魔法の効果を打ち消している」
レリックがポツリと呟いた。
人は気持ちを大きく高ぶらせることで、自らの怪我の状態を忘れる事がある。
例えば感情のまま喧嘩をし、拳を痛めても気付かずに振るい続け、後で冷静になってから、痛みと共に拳を骨折していた事に気付くことだってある。
今のリドリーは、正にそんな状態だった。そして、それは魔法に対しての、大きな耐性を生む。
魔法は世界のルールから外れた力。世界を騙す術。なので、世界に属する者の強い否定の意思の前には、その効果を十分に発揮することができない。
怒りに任せ、自らが傷付くことなんてどうでも良いと思っているリドリーには、シアンの放つ火球の魔法による効果なんて、目に入っていなかった。そして、一度防げたという実績が、シアンの魔法を更に弱めて行く。
魔法に効果を見い出せなくなったシアンは、獣の腕を振るい爪によって引き裂こうとしてくる。けれど、ここまでくると、リドリーの独壇場と化していた。
例え怒りに思考が真っ白になっていようと、訓練された戦い方は完全にリドリーの血肉となっている。それどころか、今までシアンを傷付けることを恐れていたリドリーの剣筋は、怒りによって迷いがなくなっている。それに対してシアンは、例え獣のような俊敏さを手に入れたとしても、戦いに関しては素人だ。
リドリーはシアンの攻撃を必要最小限の動きで避けると、斬りつけていく。
その身に取り込んだ、魔属種の力を発揮するだけの体力は切れたのか、彼の異形の姿は、元へと戻っていく。体中に切り傷を負いながらも、致命傷のものがないのは、リドリーが無意識にでも、殺す事を嫌ったからだろう。
「はぁはぁ……。大人しくするんだ。これ以上暴れても無駄だ」
幾分か冷静さを取り戻したリドリーは、肩で息をしながらも、しっかりとシアンを睨みつける。
「な、なんでだ! なんで俺を放っておいてくれないんだ! 俺はただ、魔法が使えるようになりたかっただけなのに!」
シアンは泣いていた。瞳からボロボロと涙を流し、自らの思いをぶちまける。けれど、彼の思いは、到底許容できるものではないと、リドリーは首を横に振る。
「魔法を使いたい。お前はそれだけのために、罪を犯している。だから僕は、君を放っておくなんてことは出来ないんだ。僕は、警官だからな」
「そうですよ。あなたは魔法を使えるようになるため人を殺し、更には、その体を維持するために、人を襲って血を得ていた。私たちが、そんな人を放っておくわけないでしょ」
近付いて来たエレノアは憐れむような視線を向けて言った。その後方にリドリーは視線を向けるけれど、レリックの姿は無くなっていた。役割を果たしたという事だろう。
「うるさいうるさいうるさい! ……俺が魔法を使うためには、仕方なかったんだ」
シアンが駄々を捏ねるように叫ぶ。
「ならば、魔法など求めるべきではなかったな」
切って捨てるリドリーの言葉に、彼の顔は真っ赤に染まる。
「お前らに何がわかる。俺は、誰よりも魔法にあこがれていたんだ! そう、誰よりも……。親父の手伝いで材料を魔術の塔に届けながら、研究を覗いては魔法を独学で勉強し、いつか、魔法使いになることに憧れていた。……それなのに、いざ魔術の塔の試験を受けられる年になってみても、俺には才能がないという理由で、入ることはかなわなかったんだ。……俺は、誰よりも勉強をしていたのに、俺にはどうしようもない理由で拒否されたんだ。それなのに、才能があるという理由だけで、俺よりも、魔法に無知な連中が魔術の塔に参加していく。……お前らに、その悔しさがわかるか!」
「……悔しさか。わからないでもないさ」
リドリーの中にも、悔しさはある。
生まれた時から、どうすることもできない悔しさが。
リドリーには、兄がいる。腹違いの兄、ラグナ・トールエン。この領地の主。同じ父を持ちながら、彼と兄の立場はあまりにも違う。
向こうは、英雄の子と誰からも愛され、才気にも劣るものはなく、飢える苦しみも、寒さに震える夜も、いつ暴漢に襲われるかわからない恐怖も、彼は知ることなく生きている。
それに対し、リドリーは父親のいない子。母は、父への愛からか、父の名誉を守るために、リドリーの父親を明かさなかった。そんな母は親戚から、どこの誰かもわからない子を産んだあばずれだと罵られ、誰からも疎まれた。
親戚からも助けを得られない立場となった母は、幼いリドリーを連れながらも、その日を共に生きるため、必死で働いた。けれど、その生活は苦しいものだった。
なぜ英雄と呼ばれる父は、母を助けないのだ。
父への怒りと失望は、簡単に生まれる。
同じ父なのに、なぜこれほどまでに立場が違わなければならない。
ラグナはリドリーを弟と知って、色々と目をかけてはくれている。優しい人なのだとわかりはする。けれど、兄への妬みは、どこまでも付きまとう。
少し違えば、立場は簡単に変わっていたかもしれない。けれどそれは、今更どうしようもないものだ。この立場の違いは、生まれた時から既にあったものなのだから。
望みの叶わない悔しさという名の絶望。
「けれど人は、その悔しさを呑み込まなければいけない。そうしなければ、人は前に進めないから……」
どんなに悔しいと思ったところで、その絶望が変わらずあり続ける。なら、はっきり言って、そんな感情は無駄でしかなく、感じ続けたところで、周りを不幸にする結果しか招かない。
この悔しさを晴らすために必要なのは、恨むのではなく、絶望を呑み込み、違う道を見つけることだけだと、リドリーは思う。
だから彼は、警官になった。領主に仕える騎士ではなく、警官に。
貧しく苦しかった時、助けてくれた人が、決していなかったわけではない。優しくしてくれた人がいなかったわけでもない。
その恩を返すため、上を見つめて、羨み憎み、見返そうとするのではなく、周りを見回し、当時の自分のように弱く、困っている人を助けよう。
それが、リドリーの見つけた道。
父のような英雄にならなくったって良い。
兄のように領地すべてを導けなくたって良い。
自分の周りを少しでも幸せにすることができれば、それだけで十分だ。
「例え目の前に、その悔しさをどうにかする方法があろうとも、その方法が、周りの人を不幸にするとわかっているのなら、僕はその方法を選ばないし、選んだ奴を許しはしない」
リドリーの力の篭った言葉に、シアンは怯える。
「い、いやだ。いやだ。いやだいやだいやだ……。やっと魔法を手に入れたのに……。失うわけには、失うわけには……」
シアンは首を横に振って否定する。
彼には、リドリーの言葉を肯定することはできないのだろう。もう、選んでしまったから。人を傷つけてでも、自らの望みを押し通す道を。
ここで、リドリーの言葉を認めてしまえば、彼が今まで犯した罪が、ただの無意味な過ちになってしまうから。
シアンの体から、炎が膨れ上がる。
なけなしの体力を振り絞った最後の抵抗と見てとって、リドリーは慎重に構える。
けれど炎は、シアンの体を包み込むだけで、周囲に向かうことはない。
不審に思ったリドリーは気づく。シアンの体が炭化し始めていることに。
「……まさか、死ぬ気か?」
彼は痛みを感じていないのか、笑みを浮かべる。
「ふははっ。魔法が使えなくなるくらいなら、死んだほうがマシだ」
狂気としか言いようのないシアンの執着に、ゾッとする。嫉妬は、ここまで人を狂わせるのかと。
リドリーも、少し間違えればその絶望と嫉妬の狂気に取り込まれていたかもしれないと思うと、怖くて仕方ない。
それでも、リドリーは彼を助けることだけを考えていた。
シアンを包む炎は、今までと比較にならない程強い。
正に、命の炎を燃やしているのだ。
「……くっ、死なせない」
どうやれば助けられるのかはわからない。けれど、このままではシアンが死んでしまうのは確実だ。だから彼を助けるために、せめて炎から出そうと、リドリーは走り寄って手を伸ばそうとする。
しかし、その腕は途中で止められる。
割り込んできたエレノアによって。
「何をやっているんですか、リドリー先輩! 死ぬ気ですか!」
怒ったように見上げてくる彼女の気迫は、リドリーが今まで見たことないほどに強い。
「だが、……助けないと死んでしまう」
珍しくリドリーは、エレノアに気押されるように呟いた。
リドリーの姿は、とても焦っているように見えた。
恐れているのだ。人が死ぬことを。
人を助けることが自らの生きる道であり使命と考えるリドリーは、人の死を潔癖なまでに嫌っている。
例えそれが、人を殺すような犯罪者であろうとだ。
助けようとするリドリー。けれど、エレノアは強硬にどくことはなく、首を横に振る。
「シアンさんはもう駄目です。それよりも、あんな炎の中に突っ込んでいけば、大怪我は間違いないですし、下手をすれば死んでしまいます」
「……だが」
大丈夫だと思っていれば、死なないかもしれない。リドリーはそう思ったのだけれど、それも無理だろう。シアンの命をかけた炎は、あまりにも強過ぎる。多少の思いこみで、どうにかできる次元では無い。
まだ冷静な部分のあったエレノアには、それがわかっていたようだ。彼女は懸命に彼を説得する。
「人を助けるのは、とても崇高なことです。けれど、守るべきはまず、自分です! 自分のことを守れないのなら、人を守るべきじゃないと思うんです!」
「……エレノア」
リドリーは動きを止める。
彼女の言うとおりだ。自身を守ろうという意思のない者が、人を守ろうとしたところで、そんなものは自殺行為にしか見えない。
結局、リドリーには、シアンを助けることはできなかった。
笑いながら死んでいく彼を、見届けることしかできなかった。
これで、魔術の塔の殺人に、いくつも続いた放火、人を襲う吸血鬼の事件、それら全てを解決したというのに、決して晴れやかな気持ちにはなれない。
「……怖いな」
シアンの炭化した死体を見て、力なく呟く。
「……魔法が使えない。望みが叶わない絶望と、人への嫉妬で、こんなにも狂ってしまうんだな。……僕にも、彼と同じような絶望や嫉妬がある。……いや、誰にだってあるのかもしれない。……だからこそ怖いよ。僕も、こんな風に狂っていた可能性があるんだなと思えて」
リドリーの言葉に、エレノアは彼を見上げ、言うべきかどうか迷うように、口を開けようとしては噤んでしまう。
「……どうした?」
気になったリドリーは、エレノアに尋ねた。すると彼女は、何かを決意するように、大きく息を吐き、口を開く。
「私はリドリー先輩を、捜査部の先輩としてとても尊敬していますし、とても意地悪だけれど、ときどきとても優しいところなんかも、人として、とても好きです」
「……あ、ありがとう」
突然の告白に戸惑うけれど、エレノアの照れの一切ない真面目な顔つきで、話は続くのだとわかった。
「……リドリー先輩は素晴らしい人です。でも、……あなたは狂っています」
「……何を言っているんだい? 僕が狂っている?」
リドリーには、彼女が何を言っているのかわからなかった。聞き間違えだと思った。だから聞き返した。
けれど、エレノアは頷いた。
「はい。そう見えます」
リドリーにとって、彼女の言葉は到底、受け入れられるものではなかった。
自らの出生に関する絶望と嫉妬を呑み込み、例え些細であっても、周囲の人を守ることを、自らの道として見つけた。だから一生懸命、人を助けながら、恨みを表に発露することなく生きてきたのだ。
その忍耐の日々を、エレノアは否定するというのだろうか?
苛立ちが、どうしようもなく膨れ上がり、彼の眼は、とても険しいものになる。それは、今までエレノアに向けたことのない表情だった。
「……僕が狂っているだって? 君に何がわかる。確かに君は、僕の後輩だ。仕事のパートナーだと言っても良い。けれど、僕の苦しみを知らないだろう? ……僕の絶望を! ……嫉妬を! それなのに、君は僕を判断できるのか?」
リドリーの怒りに満ちた言葉。
けれどエレノアは、怯えながらも視線を逸らさなかった。
「……ええ。私は知りません! リドリー先輩が何に苦しんでいるかを! ……だって、先輩は何も教えてくれないじゃないですか! ……それでも、一緒に仕事をしていればわかることはあるんです」
「……わかること?」
「何かを忘れようと、必死で仕事をしていることをです」
「……僕が、……何かを?」
意外だった。自分がそんな風に見られていたとは思ってもいなかったのだ。
「……とり憑かれたように仕事をするリドリー先輩を見ていると、目的と方向性が違うだけで、シアンさんと同じように、狂っているようにしか見えませんよ」
泣きそうな顔で言うエレノアは、怒っているわけでも憐れんでいるわけでもなく、ただただ本当に、心配してくれている。
リドリー自身、仕事をすることで忘れようとしているなんて、そんな自覚は今までなかった。けれど、エレノアに言われて、初めて思う。今まで意識していなかっただけで、その通りではないのかと。
人を助けることを自分の道と信じ、仕事に没頭していた彼は、絶望や嫉妬を呑み込んだのではなく、目を逸らしていただけなのではないだろうか?
仕事をしていれば、自らの境遇に対する絶望を、考えていることもなく、人に感謝されれば、全てを持つ兄への嫉妬を抑えられた。
だからリドリーは、貪欲なまでに仕事を求め、仕事に没頭し続けた。その姿は確かに、シアンの魔法に対する執着と、何も変わらない。エレノアの言うとおり、目的と方向性が違うだけだ。
狂人は狂っているからこそ、自分が狂人であることに気づけないという。
まさにその通りではないかと、リドリーは自嘲的に思う。
「……ごめん、エレノア。……君の言うとおり、僕は狂っているのかもしれない」
リドリーの傷ついた顔を見て、エレノアは慌てたように両手をパタパタと振る。
「あの、いえ、私は別に、リドリー先輩を責めているわけじゃないんです。ただ、……その、心配なんです。リドリー先輩は、煮詰め過ぎていて、いつか、壊れてしまいそうで」
「……壊れる。……そうか」
エレノアがそう言うのなら、そうかもしれないと思えてしまう。少なくとも彼女は、狂っている自分なんかよりも、よっぽど正常な目で、僕のことを見ていてくれていると、リドリーは思うのだ。
事実、燃え盛るシアンを助けようとした時にしても、エレノアが止めていなければ、リドリーは死んでいたかもしれなかった。
自分はそれだけ危うい。
彼はそれを理解してしまう。
「……エレノア。僕はどうすれば良いと思う?」
リドリーは、エレノアに尋ねる。
自分の信じた道を間違っているとわかった今、彼には自信がなかった。
新たな生き方を見つけたところで、それすらも間違っているんじゃないかという気がしてならない。
だから、エレノアに尋ねる。
正直、彼女は頭が悪いし、おかしなところもたくさんある。けれど、誰よりも毎日を楽しく生きているように見える。
それこそ、狂いそうな絶望や嫉妬とは無縁なところに居るように見えるのだ。彼女のような生き方をできるとは思えないけれど、それでも、学べることはいくらでもあるだろうから。
そして、エレノアは少し考えるような顔をして、すぐに思いついたように頷いた。