表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

怪盗レリック

 ミステリものを書いてみようと考えたけれど、初めて書いてみた結果が……難しい。辻褄合わせを考えてひたすら書いていると簡単に犯人はわかってしまう気がするし、書かないとご都合主義のように思えるし、バランスが難しい。……書きあげてみると結局、ミステリになっていない気もするし。

 それでも、面白くしようと頑張ってみたので、読んでいただけると有り難いです。

 

「ふあぁぁっ、と」

 ついつい欠伸が出てしまう。昨日も夜遅くまで起きていたからだろう。

 魔法の研究に熱中すると、どうしても時間を忘れてしまう。むしろ、夜の方が研究がはかどる気がして、達が悪い。

 更に達が悪い事に、私の暮らしている魔術の塔は、食堂が開いている時間が決まっていることだろう。ただで食べられるのは有難いけれど、食事を逃さない為には、夜更かししても、ちゃんと起きなくてはいけないから、だるい事この上ない。

 外に食べに行くという手段がないわけではないけれど、貧乏性の私としては、あんまり必要の無い事で、お金を使いたくもない。

 お昼ご飯にはなんとか間に合った事だし、ここは一つ、昼寝でもすべきかもしれない。

 魔術の塔では月々に、ある程度の成果さえ発表出来れば、時間はかなり自由に使える。

 今の眠気混じりの頭で、良い研究ができるとも思えないので、とりあえず、もう一度寝ることに決めた。

 そう思って、食堂から自分の部屋へと戻ろうとした時、私は微かな声を聞いた。

 それは悲鳴のような声。

 もしかしたら聞き間違えかもしれない。

 でも、魔術の塔では、実験用の魔獣を飼っていたり、危険な実験を行っていたりもする。もしも魔獣が逃げ出していたのなら、被害が拡大する前に、早期発見が重要となる。

 聞き間違いならばそれで構わない。

 私はそう思って、声がしたと思われる方へと足を向ける。

 誰かの研究室の扉が、僅かに開いているのが見て取れる。そして、部屋の中に、何かがいる気配もする。私は最大限の警戒をしながら、恐る恐る部屋の中を覗いた。

 するとそこには、何かに脅えたように、尻もちを着いてへたり込む男の人。

 そして、その視線の先には、上半身が炭化した、人の死体があった。


 今年、十八になったばかりの、リドリーの朝は早い。

 時計塔から町中に響く、第一の朝を告げる鐘の音と共に起床するのだ。第一の鐘の音は、町の外側で働く農民達に合わされている分、農民以外の者からすれば、少しばかり早い。なので、音色の違う第二の朝の音が、町中で働く商人達の為に、もう少しすれば響くだろう。だから、町中の人間からすれば、第一の鐘で目を覚まし、第二の鐘まで二度寝を楽しむのが市民のちょっとした楽しみとなっている。

 リドリーも、二度寝の魅力に誘われそうになるけれど、起きるようにしている。

 ダラダラとしていまいそうなベッドの中から、なんとか抜けだす。

 彼は、起きぬけが一番辛い時間だと、いつも思う。

 早起きは一見、健康的なように思えるが、彼の場合、寝る時間があまりにも遅い。その為、あまり睡眠時間は足りていない。

 本来なら整っていそうな顔だが、目の下には隈があり、無気力のような目が台無しにしている。体がだるいのか、長身ではあっても猫背で、その魅力を全くと言って良いほど活かせていない。

 リドリーは、別室で眠る母を起こさないように、足音を忍ばせながら、家の外に出ると耳を澄ませる。

 まだ、皆寝ているのだろう。周囲は静けさに包まれている。

 リドリーの家は、多くの石造りやレンガ造りの家が立ち並ぶ中の一つだ。隣近所の音は嫌でも聞こえて来る。皆が起き出せば、馬鹿みたいにうるさくなる。

 なので、昼と比べて印象が異なり、まるで、別世界に迷い込んだみたいで、リドリーは、いつもと違うこの穏やかな朝の空気が好きだった。

 まぁ、長い事この空気に触れていても飽きることもわかっているので、彼は早々に打ち切ると、外のポンプ式の井戸まで行って水を汲み、顔を洗って目を無理矢理にでも覚まさせる。そして、井戸の横に無造作に置いてある、重りの付いた剣を手に持って振るう。

 切れ味なんてほとんどない、ただの訓練用の剣。

 リドリーには、父がいなかった。

 だから、母を救えるのは自分しかおらず、その為に、強くなる必要があった。

 リドリーは幼い頃、近所に住んでいた現役を退いた元凄腕の冒険者に、剣の稽古を毎日のように見てもらっていた。

 今では、少しでも剣を振るっておかないと、どうも調子が出ない。

 完全に、習慣になっていた。

 目安にしている第二の鐘が鳴る頃には、汗でびっしょりとなっていた。井戸からまた、水をくみ上げて、汗を拭うと家に戻る。

 家の中に戻ると、既に起きて朝食の準備を進めている母親に挨拶をすると、自室に戻って、仕事の書類に目を通す。

 彼の仕事はこのトールエンの町の治安を守る警官。

 一応、事件を追う捜査部に所属している。しかし、やっていることは、町中を歩きまわり、事件に首を突っ込むだけの警官と、さして変わらない。

 少しばかり、事件に対して深く突っ込んで行くだけだ。

 けれど、覚えることは物凄く膨れ上がる。ただの見回りの警官ならば、目の前の事件と指名手配犯だけを追えば良いのだけれど、捜査部となると、今まで起こっている未解決事件を記憶し、その手掛かりとなることも探さなければいけないのだ。

 当然、全部の事件を覚えるなんて無茶なことこの上ない。けれど、少しでも検挙率を上げる為に、リドリーは毎日、事件の書類を確認し直して、記憶の穴埋めをしていく。

 少しして、起きた母親が朝食の支度が出来たと呼びに来た。

 その頃にはもう、隣近所が騒がしくなっている。

 彼は、そんな騒がしさもまた、日常にいるのだと思えて、穏やかな気持ちになるので好きだった。


 朝食を取ると、リドリーは家を出て、この町と周囲の村を統治する領主の家へと向かう。

 家と言っても、大貴族となる領主の屋敷は、城である。遠目からでも大きな城壁が目に入った。

 リドリーは、人や馬車の通る大通りを歩きながら、周囲に視線を送る。

 警官としての性か、何か手掛かりのような物は無いかと、無意識に目線を送ってしまうのだろう。彼自身は、自分の挙動に気付いてはいなかった。

 町の皆は、お店の準備をしたり、働きに出る旦那さんを送り出していたり、朝から元気な子供に振り回されている母親などと、暮らしぶりは様々だ。

 見ている分にはとても平和な光景で、リドリーは嬉しい気持ちになる。

 大通りを歩いていると、大きな交差路が広場になっている。その中央には噴水があり、創造の神である太陽神リデルを模した像が飾られている。

「何事もなく、皆が平穏に生きられますように」

 リドリーは手を合わせて祈る。

 毎日のようにやっていることだ。効き目があるかどうかはわからない。でも、祈っただけで効果がもし、少しでも発揮されているのなら、やる価値は十分にあることだろう。目に見えないとはいえ、少なくとも神は存在しているのだから。

 歩いていると、新しい物好きの貴族の子息たちが、自動車を乗り回しているのを見かけた。

 馬よりも遅く、ガタガタと大きな音を立て、モクモクと咳き込みそうな煙を立てる自動車の、何が楽しいのかは、リドリーにはわからなかったけれど、馬に引かれてもいないというのに、勝手に動く自動車は、素直に凄いと思えた。

 あれも魔法技術の産物だという。

 この国が、魔法使い達を優遇し、魔法技術の発展に力を入れたことで、この国の産業は大きく変わり、躍進したという。

 リドリーとしては、この技術の発展によって、市民達の暮らしが良くなることを願いたい。

 しばらく歩いて、領主の住まう城まで辿り着く。

 領主の城は、兵達の拠点にもなっている。リドリーの所属する警官にしても、兵士という職種の一つなので、それは変わらない。

 リドリーは、城壁に備え付けられた石造りの詰所へと入った。

「うわわ。リドリー先輩。また、こんなに早く」

 部屋に入るなり、同僚のエレノアが驚いたように声を出す。

 彼女はリドリーの二つ年下の後輩で、仕事のパートナーとなっている。

 幼い顔立ちをした小柄で可愛らしい少女だ。将来的には、とても綺麗な人になりそうでもある。……これ以上、成長するかも微妙ではあるけれど。

 長い栗色の髪を、動き易いように後ろに一つの団子状に纏めている。

「ふむんふ。いつも通りだよ、僕は」

 荷物を自分に当てがわれた机に置きながら、リドリーは言う。

「そのいつもが早いんですよぉ」

 大きな円らな瞳を、エレノアは心配そうに細めてくる。

「そういうエレノアの方が、早いじゃないか」

「それはそうですよぉ。昨日の私は用事があって、日が暮れる前に帰りましたもの。……だから昨日、迷惑を掛けた分こうやって、リドリー先輩が来る前に、仕事の準備をしようとしていたんですよ。なのになんで、いつも通り早く来てるんですか。馬鹿なんじゃないですか」

「ふむんふ。馬鹿と来たか、この野郎」

 リドリーは微笑みながら頷き、エレノアの頬を引っ張る。彼女の柔らかい頬は、正に馬鹿みたいに伸びて行く。

「いひゃぁあああぁ。引っ張らないで下さいよぉ。私の頬を」

 エレノアは彼の手を振り払う。

「むぅ。先輩に引っ張られる性で、どんどん、私の頬が伸びるようになっているんですから」

「良かったじゃないか。面白い特技だ。はっはっは」

 わざとらしくリドリーは笑う。

「うぅあぁ。この人、最低だ」

「ふむんふ。良く言われるね」

「むぅ、そこは開き直らないで下さいよ」

「すまないね。それより、新しく、何か事件はあったかい?」

 形ばかりの謝罪の言葉を口にし、リドリーはエレノアに尋ねる。彼女は少し不満そうな顔をしながらも、事件記録の書類を確認する。

「今の所はないですよ。今、警邏に行っている人達なら、新しい事件に出くわしているかもしれませんけど、少なくとも、捜査部までには報告が上がっていませんね」

「ふむんふ。そうなんだね。では、書類に目を通したら、僕達も警邏にでも行こうか。解決していない事件の証拠を探しにさ」

「そうですね。私的には、東の地区で起こった、通り魔暴行事件を追いたいのですが?」

「ああ、パン屋の娘さんが襲われたって事件だったね」

「そうです。女の敵ですよ。捕まえて、極刑が妥当だと思います」

「僕らには、罰を決める権限は無いよ」

 素っ気なく答えるリドリーに、エレノアは駄々を捏ねる子供のような顔をする。

「わかってますよぉ。ただ、それぐらい許せないと言いたいのです」

「なるほどねぇ。……でも、上の連中としては、怪盗レリックを優先的に捕まえて欲しいみたいだよ」

「怪盗レリックですか。でも、そんなの捕まえて欲しいのは上の人だけじゃないですか」

 呆れたように言うエレノアに、リドリーは苦笑して頷く。

「ふむんふ。確かにね。怪盗レリックは町民には人気だね。なんて言っても、被害に遭うのは強欲な貴族共だけだし、盗んだお金はばら撒いてくれる」

「そうなんですよ。この前は、うちの近くでばら撒かれたらしくて、……うぅ、その日が休みだったら、私も走って行ったのに」

「ふむんふ。お金を拾いにかね?」

「あったり前じゃないですか。他に何をしに行くと?」

 心底不思議そうにエレノアが言うので、リドリーは呆れ果てたという顔をする。

「……君は、……ゴホン。……果たして、君の仕事は何なんだい?」

「ふえ? そんなの警官に決まっているじゃないですか。リドリー先輩と一緒ですよぉ。……はっ。もしかしてリドリー先輩。働き過ぎて、自分の仕事が何なのかわからなくなるほどに、頭がやられちゃいましたか?」

 エレノアが、心配だというように、気遣わしげな視線を向けて来る。

「うん。そうやって、本気で心配してくれるのは嬉しくもあるのだけれど、……逆に僕は、君の頭の中が心配だよ」

「ふえ? 何故ですか?」

 エレノアは首を傾げる。

「ふむんふ。もし、君が本当にわからないというのなら、僕は君に謝ろう。今まで君に、怒ってきたことを」

 少しでも期待して悪かったと。

「うわぁ。何故か知らないけれど、これにわからないと言ったら、見捨てられそうな気がする」

「ふむんふ。勘だけは鋭いね」

 リドリーは微笑み頷いた。エレノアは、頭は賢くないけれどその分、本質を見抜く力はそれなりにあると思う。

「いやぁ。そんなに褒めないでください」

 まぁ、皮肉は通じにくいという欠点もあるけれど。

「で? 本当にわからないのかい?」

「ひう。ちょっと待って下さい。必死で考えますから」

 両掌を差し出し、首を振る。そして、額に脂汗を掻いて考えだす。

 必死で考えないといけないというのが、既に駄目な気もするけれど、リドリーは基本的に頑張る子には寛容なので、諦めない限りは見守ってやるつもりではあった。

「さてと。警邏に出かけるぞ」

 リドリーはエレノアとの会話をしながら呼んでいた資料を机に置くと、警官の制服を着替える為に、更衣室に向かう。

「あ。はい」

 問いから逃れられると、彼女はあからさまにホッとした顔をしている。

「ちなみに、先程の問いは、後でしっかりと答えなよ」

「うっあ」

 エレノアは面食らった顔をした。


 警官の制服は深い紺色で、特殊な加工をした長袖のシャツにズボンの、とても丈夫な布の服が使われている。騎士のように鉄の鎧を武装したりはしない。鎧だと重過ぎて、いざという時に動けないからだ。

 それでも、この布の繊維は刃が通り難く、相手の腕にもよるが、そこらのナイフや剣では、切り裂かれることもない。問題があるとすれば、衝撃は全く防げないことだろう。剣の一撃を受ければ、切れはしなくとも、骨が折れる。

 それでも、鎧によって動きが阻害され、犯人を取り逃がすよりは良いと、警官達はこの制服を評価している。……ただ単に、重い鎧を着て歩き回りたくはないだけかもしれないけれど。

 二人の警邏の仕事は、単純に歩き回り、聞きこむだけだ。

 異常はないか、手掛かりは無いか、指名手配の人間が居ないかを常に注意する必要はあるけれど、特に二人は気負うことなく、散歩のような気軽さで歩き回り、人から話を聞く。

「ふむんふ。これは新しい新作のパンだね」

「はい。そうなんですよ。さすがリドリーさん。気付いちゃいましたか。いつもとの違いに」

 パン屋の親父さんは、嬉しそうに笑う。

「いや。リドリー先輩は、ただ、食い意地がはっひぃひゃひゃひゃ」

 余計なことを言ってくるエレノアの頬を引っ張って、黙らせる。いつもの事なので、パン屋の親父さんは気にもしない。

「良かったら、リドリーさん。味見していきますか?」

 パン屋の親父さんが拳くらいの大きさの、新作のパンをくれた。焼きたて特有の良い匂いがして、食欲を掻き立ててきた。

「良いのかい?」

「ええ。リドリーさんには、娘の事件を捜査して貰っているんですから、しっかり力を付けてもらわないと」

「ふえ。この捜査をしようと言ったのは私ですから、私にも下さいよぉ」

 エレノアが不満そうに強請っている。なんというか、警官としてはダメな姿だ。

「ふむ。君は食い意地が張っているね。これは、親父さんの好意だ。それを強要しようだなんて、あまり、褒められた行為ではないよ」

「うえぇ~。先輩だけ貰っておいて、そんなことを言うのはずるいですよぉ。それならば、先輩のを半分下さいよぉ」

「ふむんふ。これは、僕が貰った物だ。貰った物を勝手に分けるのは、失礼なことだよ」

 リドリーは意地悪な笑みを浮かべて、片腕でエレノアをあしらいながら、貰ったパンを食べてしまう。

「ふぇ、ふぇえぇぇえん。せ、先輩が全部食べたぁ~」

「……君は子供か」

 リドリーは呆れながらも、渡すべきかと迷っているパン屋の親父さんを見る。

「親父さん。エレノアにはあげなくて良いよ。それよりも、新しいパンは美味しかった。パンのほのかな甘さと、中に入った肉と野菜を炒めた具剤の味付けが辛めで、程良くバランスが取れている」

「そうですか? ありがとうございます」

「いや。こちらとしては、捜査も進展していなくてすまない」

「いえいえ。リドリーさんが、俺達町民の為に、本当に頑張ってくれているのはわかっていますんで。俺としては、リドリーさんのような人に、騎士になって欲しいですよ」

「……騎士か。僕には騎士は向かないよ」

 リドリーは力無く微笑む。

「はは。謙遜を」

 親父さんはそう言って笑うけれど、リドリーが騎士という仕事を好いていないということを、泣いているエレノアだけは、何となくわかった。


「ほら、エレノア」

 パン屋で話した後、見回りを続けていると、リドリーがエレノアに紙袋を差し出した。

「ふえ? なんですか?」

 エレノアは不思議そうに受け取る。

 彼女の顔は先程まで泣いていたので、少し赤い。

 リドリーは、エレノアの問いに答えることなく、道行く人々と挨拶を交わしている。

 彼女はリドリーに聞くのを諦めて、紙袋の中を覗く。

「うわぁあ」

 エレノアは喜びの声を上げた。

 そこにはパンが入っていた。しかも、彼女の好きな、コゼットという名の木の樹液が練り込まれたパンだ。

 リドリーが、パン屋を離れる時に買っていたのだ。エレノアの為に。

「ふむんふ。君は、甘いパンの方が好きだろう?」

 彼は優しく微笑んで、そう言った。

「はい。そうです。食べて良いんですよね」

 エレノアはとても嬉しかったのだろう。目を輝かせて尋ねる。

「当たり前だ。その為に買ったのだからね。さっさと食べて、捜査を続けるよ」

「はい。もう。これだからリドリー先輩は好きですよ。なんだかんだ言っても、優しいんですから」

 彼女は笑顔でそんなことを言う。

 リドリーとしては泣いていた赤子がもう笑っているといった気分だった。

 彼女はパンを取り出そうと紙袋に手を突っ込む。

 パンの方に集中し過ぎていたのだろう。整備された道とはいえ、石畳には出っ張りも隙間もある。そして、彼女は見事に足を引っ掛けた。

 紙袋から転がり出るコゼットパン。

 茫然と、転がるパンを見つめる二人。

「……これは、……自業自得としか言いようがないな」

「まだです。砂さえ払えば食べられるはず。食べ物を粗末にすることはいけないことですから」

 なんとか現状の気持ちから立ち直ろうと、彼女は声高にそんなことを言うと、立ち上がってパンを拾いに行こうとする。しかし、偶々通り掛かった犬が、エレノアより早く咥えてしまう。

「う、ああぁああああああああああああああああ」

 犬の行動に、エレノアが叫ぶ。それに驚いた犬は、パンを咥えたまま逃げ出した。

「待ちやがれ、クソ犬」

 口汚く罵り、彼女はパンを咥えた犬を追いかけて行く。

「……諦めないのは良いことだと思っていたけれど、……時には諦めることも必要なんだね」

 リドリーは追いかけるエレノアの姿に、呆れ果てながらも何かを悟ったように呟いた。彼女を放置することもできないので、リドリーは仕方なく後を追う。


 少しして、道端で途方に暮れるエレノアを見つける。

「ふむんふ。どうしたね」

「うぅ。犬に撒かれました」

「まぁ、そうだろう。本気で逃げる犬に追い付くのは、難しいよ」

 リドリーは労わるようにエレノアの肩を軽く叩き、周囲を見る。

 建物に囲まれた、細く曲がりくねった複雑な道。陽の光も差し込まず、薄暗い。

 どうやら、裏通りに来てしまったようだ。

 先程まで歩いていた、比較的大きめな表通りよりは、少しばかり治安が悪い。だからこそ、事件の手掛かりがある可能性もおおいにあるのだが、リドリーとしては、あまりエレノアを連れて歩きたい場所でもない。ここはとにかく、警官が敵視されがちだ。

 裏通りに住まうのは、貧しい人達が比較的に多い。そして、貧しい人達は権威主義者から蔑まれ、色々な嫌がらせを受けがちなのだ。そして、残念なことに、警官の半数ほどは、そんな権威主義者だったりする。

 もちろんリドリーは、権力の有無で、人を判断する気は毛頭ない。事件を追う者として、例え相手が上官であろうと、礼義は弁えても、特別扱いする気はないのだから。

 それでも、話したことのない相手に、心の内を理解してもらうのは不可能だ。

 警官の制服を着ている今、ここの住人にとっては、敵以外の何ものでもない。

 できれば、私服で来るんだったと、リドリーは後悔する。それだけで、周囲の反応は十分に違うのだから。

 しかし、来てしまったものは仕方ない。

 リドリーは、遠巻きに感じる不穏な視線に気付きながらも、気にしないことにした。意識した所で、余計な因縁を付けられるだけだとわかっていたから。

 彼は、なるべくこちらを見る目に険のない者を選んで話しかける。

 パン屋の娘を襲った者を見なかったか。

 怪盗レリックを目撃しなかったか。

 何か、困ったことはないか。

 聞くのは、こんなところだ。

 決して、尋ねる時に犯人扱いをしてはいけない。また、裏通りの人間の仕業だと、疑っている様子を見せるのも良くない。

 そんな姿を見せれば、薄氷を踏むように危うい緊張状態が、途端に破れてしまうから。

 裏通りの人達は、パン屋の娘が襲われた事件にだけ、少しばかり協力的だった。

 レリックは貧しい者の味方だし、裏通りで困ったことがあっても、警官を頼るよりも、裏社会を牛耳っているマフィアに相談した方が、効率的なのだろう。

 話を伺うのに、かなりの精神的労力が必要なのに、情報の実入りが少ない。

 パン屋の娘を襲った事件にしろ、少しは協力的だったとしても、人通りの少ない場所での出来事。都合良く目撃者が居るわけでもない。

 少しわかったことと言えば、襲われた場所の周辺に居付いている物乞いが、数人居るということ。彼らなら、何がしか見ている可能性もあるかもということだ。

 しかし、物乞いをしている人も、この町にはかなり居る。

 別に物乞いが多いのは、この町自体が悪いわけではない。繁栄した町であればあるほど、あぶれ者はどうしても現れてしまうものなのだ。

 まぁ、物乞いの名前まではわからないということなので、その物乞いにしても、今度、地道に現場周辺で探すしかない。……本当に、事件の手掛かりを見ているかどうかもわからないけれど。

 裏通りを歩いていると、リドリーは、空気の変化を敏感に感じ取る。

 常に付き纏っていた、敵意に満ちた感情が無くなり、浮き立つような感情が場を支配し始めている。

「なんですかねぇ。なんですかねぇ」

 エレノアは、浮き立つような雰囲気に乗せられたのか、子供がわくわくしたような感じで、周囲をキョロキョロと見回している。

 リドリーは、彼女ほど楽観していないが、確かに空気の変化は気になる。

 道行く人々は、リドリーとエレノアの姿を見ると、何かを隠すように、浮き立つ雰囲気を見せようとしない。

 何がしかが起ころうとしているのか、もしくは起こっているのか。

 手近な人に聞いてみると、別にという素っ気ない返事と共に、さっさと歩いて行ってしまう。

 それでも、細く入り組んだ裏通りだ。耳をそばだてれば、小声で話す、道行く人々の言葉の断片が聞こえて来る。

 だいたいの意味は、レリック、金、救済、買える、英雄。

「ふむ。昨日、レリックの盗難事件はあったかな?」

「どうでしょう。少なくとも、報告には上がっていませんでしたよ。……けれど……」

 そう言って、エレノアは眉を顰める。

 リドリーは、彼女の言わんとしていることに、想像が付いた。

 確かに被害報告は上がってはいない。けれど、お偉い人達の、表には出せない不当な収入からの盗難だと、不正の露呈を恐れ、被害届が出されない場合があるのだ。いや、怪盗レリックの場合、そういったお金を狙っているので、警官たちの下へ、情報が流れて来るレリックの事件は、ほんの一部でしかないのだろう。

「まぁ、どちらにしろ、この道の先で、レリックが金品を配っているようだな」

「そうですね。どうしますか? リドリー先輩」

「そんなものは決まっているだろう」

「ですよねぇ。私達も、お金を貰いに行きましょう」

 エレノアは、嬉しそうに言う。

「……君は結局、朝の問いの答えは出なかったのかい?」

 リドリーは底冷えするような声を出す。彼の急激な変化に気付いて、彼女は顔を真っ青に染める。

「も、もちろん冗談ですよ」

「ふむ。では、我々のすべきことは?」

「そ、それは、……えっと、レリックを捕まえることですかね?」

 エレノアは迷いながら、恐る恐るというように答える。

「……僕としては、断言して欲しい所だったのだけれどね。ふむんふ。まぁ、その通りだ」

 先程までの、氷のように冷え切った憤怒の感情が、彼からあっという間に消え失せたことに、彼女は心底からホッとする。

 リドリーの「ふむんふ」という言葉は、上機嫌の時の「うん」とか、「ふむ」という言葉だということを、それなりの付き合いとなるエレノアは、ちゃんと理解していた。だからエレノアは、リドリーの機嫌を、その言葉で判断していた。

「ではでは、行きましょう。レリックを、きりきり捕まえましょう」

「そうだな」

 裏通りの町人達は、気付かれないように演技をしながら道を歩いているが、どちらの方向に向かっているかは、多くの人を見ていればわかる。

 彼らは、警官である二人に向かわせないようにしている。つまりそれは、町人達が、二人の前では向かおうとしない方向に行けばいいのだ。

 進んで行けば、そこには小さな空き地があった。

 立ち並んだ家と家との間に、偶々出来た空間だろう。

 普段であれば、子供が遊び場として使うくらいで、人なんてあまり居ない。けれど今、狭い空き地はごった返していた。

 町民達の見ている方に視線を向ければ、屋根の上に、仮面を付けた人が居る。

 ゆったりとしたローブを着ていて、体形からは、男か女かも、見分けることはできない。けれど、彼は手元の大きな布袋から、大量の銀貨をばら撒いている。

「ふむんふ。どうやら、本当にレリックのようだね」

 お金を配っている者が、盗みの実行犯かどうかはわからない。けれど、捕まえれば手掛かりとなることだけは間違いない。

「エレノア」

 リドリーは彼女に指示を出す。

 頷くのを見届けると、リドリーは即座に動き出す。空き地から少し離れ、周囲に人がいないことを確認すると、屋根の上に登れそうな場所を探す。

 ある程度の当たりを付けると、窓枠や家の石壁にある僅かな突起を使って、流れるように鮮やかさで、壁を上って行く。こういう時、警官の制服が鎧などではなく、布の服なのが有難いと思える。

 もちろん、防御面では遥かに劣るけれども、鎧など着ていたら、こうやって屋根に上ることも、犯人を追いかけることもできない。

 屋根に上がると、少し離れた所にレリックの姿が目に入る。相手は、こちらには気付いていない。リドリーは、見つからないようにできるだけ近付く。

 まだ無理はしない。

 後少しすれば、エレノアも動き出してくれる。彼女の行動をまずは待つ。

 そして十分に時間が経つと、屋根の下の方から、彼女が叫ぶ声がする。

 その内容はこうだ。

「見つけました、怪盗レリック! 私は警官です。貴方を逮捕します!」

 中々に、衛兵らしい立派な口上だ。

 しかしレリックは、裏通りの町民達にとっては、英雄のようなものだ。そんなことを言えば、町民達の敵意を受けることになるだろう。けれど、チラリとエレノアの様子を見た所、町民達は戸惑っているようだ。敵意を向けて見ようにも、そこに居るのは、子供にしか見えないエレノアだ。その小柄な体躯は、警官の制服のサイズにすら合わず、ぶかぶかの服を着ている為、更に幼さを強調している。

 裏通りの町民達は、決して外道ではない。

 法に触れるような行為すらするけれど、彼らにしてみれば、生きる為に仕方ない事だからだ。むしろ、彼らは友人達と支え合って生きている。貴族や強欲な商人達なんかよりも、よっぽど人としての温かさを持っていることだろう。そして、そんな彼らだからこそ、子供にしか見えないエレノアに、手を出すことに躊躇いが生じる。

 レリック自身も、どうしたものか迷っているようだ。

「ふむんふ。そこは、さっさと逃げ出すべきだったな」

 リドリーはレリックの腕を掴んで捻り上げる。掴んだ腕は、意外に細い。

「……そのようだね」

 仮面の向こう側から聞こえた声は、女としては低く、男としては高い。正体を判別させない為に、音域を変えているようにも思える。

 まぁ、仮面を外せば、正体を見極めることはできるだろう。しかし、相手の余裕を持った言葉に、リドリーは訝しく思う。そして次の瞬間、掴んでいたレリックの腕が燃え出した。あまりの熱さに掴んでいることもままならず、彼は腕を放してしまう。

 リドリーはレリックの燃える腕と、自分の手の平を見比べる。火傷に痛む指。これでは、物を掴むのにも苦労するかもしれない。それなのに、レリックは燃える腕に痛痒を感じていないどころか、服すら燃えていない。

「……ふむ。魔法という奴かな?」

 リドリーは魔法に詳しくはないけれど、このような芸当ができるのは、魔法しかないだろうとも思う。

「そういうことだ。ここは退いてはくれないかな。私としては、人を傷付けることは、あまり好まないのでね。君らにしても、怪盗レリックが魔法を使うというのを知っただけで、かなりの収穫だろう?」

 確かに、そんな情報すら、レリックについては上がってきていない。

 けれど、リドリーは大きく笑う。

「あっはっは。そういう訳にはいかないな。全力を出して逃げられたのならまだしも、魔法に脅えて逃げ出そうものなら、警官としての信用を無くしてしまう」

「やる気の無さそうな顔をしているのに、随分と、仕事熱心だな」

「失礼だね。やる気なら誰よりもあるさ。ただ、あり過ぎて、体が疲れているだけさ」

 リドリーは不敵な笑みを浮かべ、腰のベルトに差していた鉄で造られた警棒を抜く。右の利き腕は火傷を負ってしまったので、慣れない左手で構える。

「例え、君が魔法使いだろうと、気絶させてしまえば、魔法は使えまい?」

「そう、上手くいくかな」

「さぁ、どうだろう」

 リドリーはそう言って、一気に距離を詰めると、相手の仮面を砕こうと、警棒を突き出す。しかし、レリックはその攻撃を、大きく飛びずさることで避ける。

 その動きは素早い。

「ふむんふ。さすがは怪盗。身軽だな」

 感心はする。だからと言って、リドリーは諦めない。

 レリックが飛びずさる分、距離を詰めれば良い。

 彼は素早いかもしれないけれど、剣術などの近接戦闘を習っているようでもないようだ。足運びの無駄な動きを見てとって、リドリーはそう判断した。ならば、少し時間がかかるかもしれないが、追い詰めることは十分に出来る。

 リドリーはレリックの足の動き方で、逃げようとする方向を読み、先回りすることで、退路を狭めるように動く。

「厄介な」

 レリックはそう呟くと、小さな火球を投げつけて、リドリーを牽制しようとする。けれど、直線的なその攻撃を避けるのは容易い。必要最小限の動きで避けると、一気に距離を詰めて、警棒を振るう。だが、かすっただけで、またもや器用に避けられる。

 本来の利き腕が使えれば、仕留められただろうに。

「ふむ。惜しいな」

 そうは言いながらも、リドリーは特に悔しがることもなく、冷静なまま、相手を追い詰めようとする。

 追い詰められているのを感じているのだろう。レリックは切羽詰ったように、広範囲に広がるような炎を放って来る。

 こうなると、さすがに後ろに下がって避けるしかない。せっかく追い詰めていたのに、もう一度やり直しだ。

「厄介って言うのは、僕の台詞じゃないのかな?」

 長袖に点いた火を、リドリーは払って消しながらぼやく。

「先輩! 今、助けに行きますよ!」

 エレノアの声が聞こえる。チラリと見れば、町民達に道を塞がれ、近付けずにいる彼女の姿が見える。

「ぬあぁ~。邪魔しないで下さいよぉ。逮捕しますよ、逮捕!」

 そう言って怒るエレノアだが、残念ながら迫力は欠ける。

 リドリーがすぐに視線を戻せば、レリックは更に距離を空けている。けれど、それ以上、逃げるでもなく攻撃を仕掛けて来るでもなく、屋根の上に立っていた。

「ふむ。諦めてくれたのかな?」

「悪いが、その気はない」

「それは残念」

 リドリーは肩を軽くすくめて、近づこうとする。そして、ふと、違和感を覚えた。

 何かが違う気がする。

 目を放した一瞬の隙に、何か罠でも仕掛けたのかもしれない。

 安易に近づくのは危険かと、リドリーは警戒しながらにじり寄る。

 レリックの魔法の性か、周囲の気温が、馬鹿みたいに高くなっていて、額から汗が吹き出る。集中力が、かき乱されそうだ。

 しかし、じっと見ていると、あまりにもレリックが動こうとしない。時間を稼ぐことで、裏通りの町民たちを頼ろうとしているのかとも思ったが、呼びかける素振りすらない。それに、肝心の裏通りの町民たちは、レリックの魔法というわけのわからないものを恐れて、遠巻きに見ているだけで近づこうかどうか、迷っている。

 いったい、何を考えているのだろうか?

 こうしていても埒があかないと、リドリーはイチかバチか仕掛けることに決める。しかし近づこうとして、足場にしていた屋根がレリックのいる屋根まで、続いてないことに気づく。けれど、気付いたときには遅かった。空中に踏み出してしまった足は、簡単にバランスを崩し、転落させる。これでは、屋根に再び登った時には、逃げられてしまっていることだろう。最後の悪あがきに、落ちながらもレリックに警棒を投げつける。そして、リドリーは見た。警棒が当たった様子すら見せることなく、レリックの体を突き抜けるのを。

「……幻覚か」

 リドリーは悟ってしまう。

 何らかの手段、おそらく魔法で、幻覚を見ていたようだと。

 屋根を踏み外すなんて、普段では考えられない失敗をしたのもそのためだ。何かが違うと思ったのは、先程まで見ていた屋根が、幻覚によって変わっていたからだろう。

「ふむ。やられたね」

 リドリーは素直に、自身の負けを認める。けれど、今回だけだ。今負けたからといって、ずっと負けると決まったわけではない。次は逃がさないと、彼は心の中で誓った。


「うぅ。レリックに逃げられてしまいましたね。それに、お金も拾えなかったし」

 エレノアは落ち込んだように言う。ただ単純に、逃げられたことが悔しいというよりも、レリックの振舞うお金に未練があるようにしか聞こえないのは、なぜだろうかと、リドリーは苦笑しながら思う。

 屋根を踏み出して落ちたあと、受身をとったとはいえ、背中を強く打ち付けたリドリーは、しばらくまともに動けなくなってしまった。その為、それ以上レリックを追うことはもちろん、探すこともできなかった。不幸中の幸いなのは、裏通りの町民たちは、レリックのバラまいたお金を拾えたことに満足し、リドリーたちに、追撃めいたことをしてこなかったことだろう。おかげでエレノアには、怪我らしい怪我もない。

「とりあえず、今日は詰所に戻ろう。さすがに怪我の手当てをしたいしね」

 本当ならば、もう少し見回りを続けたいところだけれど、水膨れをしてしまっている手は、それなりに酷そうだ。少し動かすだけで、泣きたくなるような痛みを訴えてくる。

「痛みますか?」

「ふむんふ、泣きたいほどに痛むね」

「リドリー先輩が泣いたら、私が慰めてあげますよ。ふふん」

「はは、そっか。それは頼もしい」

「むぅ、心にもないって感じですね」

「……そんな事はないさ。頼りにしているよ」

「任せて下さいよ。……ああ! あれを見て下さい、リドリー先輩」

 何かに気付いたのか、エレノアが嬉しそうに大通りの方を指差す。そこには巨大な騎馬の列。勇壮な騎士達が、民衆の歓声を受けて、凱旋をしている。

 隣国との戦争に遠征をしていた領主ラグナ・トールエンを始めとした騎士たちが戻ってきたのだろう。あの歓声から考えて、勝ち戦だったのかもしれない。

「私達も見に行きましょうよ」

 好奇心旺盛にエレノアが言う。

 少なくともトールエンでは、彼ら騎士達は民衆にとても人気がある

 先代のラーズ・トールエンは、ただの兵士から活躍を重ねることで、貴族にまで成り上がった男だ。彼は剣の腕だけではなく、領主としても立派な男だった。

 ラーズはこの国で英雄として称えられている。故にこの領地の騎士達は、そんな彼に憧れる高潔な者が多い。

 そして、ラーズの息子であるラグナもまた、彼に劣らぬ素晴らしい男だ。

 民衆はそんな領主や騎士達を、誇りに思っているのだ。それは、エレノアにしても変わらないのだろう。

「見てくると良い。僕は先に戻っているから」

「うわぁ。リドリー先輩、ノリが悪いですよ。そんなんじゃ、女の子にモテませんよ。良いから行きましょうよ」

 エレノアはそう言って、無理矢理引っ張って行く。

 リドリーとしてはできるだけ早く治療をしたいという思いがあったけれど、仕方ないとため息を吐いて、彼女のしたいようにさせる。

 彼女は小さい体からは想像し難いパワフルさで人垣を掻き分け、前の方へと移動する。

 勇壮に連なる騎馬の群れは、圧巻と言う程に迫力があり、その上で誇らしげに歓声に答える騎士達は、思わず見惚れてしまう程に格好良い。

 エレノアも周囲と一緒になって、嬉しそうに歓声を上げている。

 リドリーは馬上の騎士達を眺め、昔を思い出す。

 自分と父との差。

 果たしてあの時、父はちっぽけな自分に気付いてくれたのだろうか? 

 弱った母を見つけたくれただろうか?

 怒りと悲しみが湧きあがる。

 だから、こんな風景、見たくはなかった。

「リドリー」

 自分を呼ぶ声に、いつの間にか俯いていたリドリーは、驚いて顔をあげる。

 誰が呼んだのだろうか?

 そんな事を思ったけれど、すぐにわかった。

 騎士達の列を離れ、一人の男が近付いてくる。その男は、他の騎士達よりも明らかに、凝った意匠の施された鎧を着ている。それだけで、相手が誰だかわかってしまう。

「……ラグナ」

 リドリーはポツリと呟く。

 そう。近付いて来たのはラグナ・トールエン。背が高く、姿勢の良い体には芯の強さを感じさせられ、整った顔立ちは誰もを魅了する。遠征で戻って来たばかりだからか、無精髭が生えているけれど、それも男らしさを増長しているだけで、だらしなさなんて感じさせない。

「出迎えてくれたのか」

 嬉しそうな顔でラグナがそんなことを言ってくる。

「……まぁ、偶々通り掛かったからな」

 リドリーはつい、ぶっきら棒に答えてしまう。それでもラグナの嬉しそうな表情は崩れない。

「そうか。それでも嬉しいよ。ありがとう」


「……いや」

 リドリーはラグナが苦手だった。この男と話していると、自分の小ささと幼さを思い知らされるのだ。

「リドリーはまだ、警官をやっているのかい? 一応、騎士に推薦したんだけれど、断ったんだって?」

「コネとかは嫌なんで」

「はは。別に、コネじゃないさ。君の実力を正当に評価しての推薦だ。君さえよければ、すぐにでも、騎士にならないかな?」

 ラグナの熱心な誘い。それが、善意から来ているのはわかっている。けれど、彼の優しさに触れるたび、リドリーは惨めな気持ちになる。

「僕は、騎士にはならないよ。騎士は国を守る者なのかもしれない。けれど僕は、もっと身近な者を守りたいんだ。使命の為、家族や周りの親しい人達を蔑ろにしてきた父と、同じにはなりたくないんだ。だから僕は、警官で良い」

 リドリーの言葉に、ラグナも痛ましい顔をする。

「……そうか。……私は君と一緒に戦えるのが夢なのだけれどね。……まぁ、気が変わったら言ってくれ。いつでも、君を受け入れる」

 ラグナは最後まで、優しい気遣いを見せて立ち去って行く。

「な、何なんですか、今のは!」

 ラグナとリドリーのやり取りを見ていたエレノアは、ラグナが居なくなったのを確認し、驚いた声を上げる。

「どうした?」

「どうしたじゃないですよ。あれは、領主さまですよ。なんで、リドリー先輩と仲良さそうに話しているんですか」

「仲良さそうだったかい?」

「ええ」

「……そう。……まぁ、何年か前に知り合って、その時から、騎士になるように勧められているんだよ」

「……何年か前? あれですね。四年前の時の事ですね。あの時のリドリー先輩は、まぎれもなく英雄でしたよ」

 目をキラキラとさせて見上げてくるエレノア。

「……英雄ね」

 リドリーはつい、自嘲的に笑う。

 自分の事をそう言ってくれている人が居る事を知ってはいる。そしてあの時以来、騎士になる事を勧められるようにもなった。

 けれど、リドリーはそれを複雑に思う。その事件のことは、実際の所、良く覚えていない。無我夢中だったこともあるし、なにより大怪我もしたのだ。助けたと言う達成感よりも、その後、皆に心配をさせたという思いの方が強く覚えている。

 それに、リドリーは英雄になりたいとは思わない。

 英雄は多を守る為に、小を犠牲にする。騎士もまたそうだ。

 凱旋する騎士達。彼らは勝ったのかもしれない。けれど、彼らはこの勝利に、少なくない犠牲を強いたはずだ。彼らはそれを許容する。

 そんなこと、リドリーにはできない。だから、リドリーは英雄にも騎士にもなりたくない。

 彼がしたい事は、誰かを犠牲にすることなく、人を助ける事だ。もちろん、自分は神ではないので全ての人を救えるなんて思っていない。だからせめて、自分の関わった身近な人だけでも守りたい。

 リドリーが幼い頃、騎士となり、英雄となった父に捨てられ、貧民街で貧しい暮らしを強いられていた。

 その時、飢えてはいても、死なずに済んだのは、助けてもらえたから。そして、助けてくれたのは、英雄でも騎士でもない、ただの同じ貧しい人達だった。

 リドリーはそういう人達になりたい。

 自分に何の力はなくとも、何の得がなくとも、ただ、周囲に居ると言うだけで、親切心から助けてくれた彼らのように。

 だから、英雄と言われることが、リドリー自身、あまり好きにはなれなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ