命のリサイクル
東條修也は、夜のコンビニの蛍光灯に胃の中を掻き回されるような日々を送っていた。25歳、フリーター、勤務時間は不規則、家賃と光熱費、そしてたまに買うジャンクフードに消える小遣い。未来を描くよりも、明日のシフトと今日の深夜のラーメンのことしか考えられない。彼にとって「努力」や「目標」は他人の消費する光景だった。
その日もいつもと同じ。レジで缶コーヒーを打ち、棚に賞味期限の近い弁当を並べ、閉店後の掃除を黙々とこなした。店からの帰り道、錆びた自転車のカゴに突っ伏してうとうとするのが彼の唯一の贅沢――家の前で煙草を一服する時間だ。
鍵穴に手をかけると、視界の端に黒い塊が見えた。女の子が、家の塀の上にちょこんと座っていた。夜風で黒髪が揺れ、彼女はまるで街灯の影と一体化しているようだった。美少女――というのは修也の中で雑誌やアニメのカットにしか存在しないはずだったが、彼女は確かに実物だった。
「……あなた、ここ住み?」彼女は淡々と聞いた。声は低めで、どこか素っ気ない。
「え、あ、うん。東條修也だよ。君は?」
彼女は少しの間沈黙した後、にっこりもせずにこう言った。
「死神。命のリサイクルをしてる。」
答えが真顔すぎて、修也は一瞬笑いそうになった。誰かの悪ふざけかと思ったが、彼女の瞳は冷たく、冗談ではなかった。
「命のリサイクルって、どういう……?」
「無駄遣いしている命を回収するの。早く死んで、新しい命に生まれ変わるほうが賢いって、そう判断したら――私は取りに来るの。」
取りに来る、という言葉が重く落ちる。修也は自分の胸の奥が軽く震えるのを感じた。無駄遣い。自分のことだ。毎日をやり過ごすだけの生活。好きなこともない、夢もない、ただ時間だけが過ぎていく。そんな自分が、もし誰かの基準で「無駄」だと判定されたら――。
「早い話、同居人募集ってわけじゃないよね?」
彼女は少しだけ首を傾げた。
「違う。説明は一つ。二択を出す。私が提示した期限内に変わらなければ、その命は回収される。変われたら、私は去る。簡単でしょ?」
修也は笑った。もちろん笑った。笑うことで、現実を遠ざけたかった。だが笑いはすぐに割れ、彼の口から本音がぽろりとこぼれた。
「変わるって、何をすればいいんだよ?」
「好きなことを見つける必要はない。意味のある何かを、日常に積み重ねることだよ。人を助けるでも、責任を持つでも、誰かに必要とされるでも。自分で『無駄じゃない』と言える日々を増やすこと。」
「期限は?」
「一ヶ月。」
彼女の言葉は冷たく、しかし不思議と救いのようでもあった。修也は自分の生活を思い返した。コンビニのシフト、深夜のゲーム、ネットのスクロール、たまに帰省の電話をする程度の家族――どれも淡白で、他人事のように消費される時間の断片だった。
「なんで俺に?」と尋ねると、彼女は肩をすくめた。
「あなたの顔に、諦めが貼り付いてた。私のセンサーが反応しただけ。」
それはとても人間味のない説明だった。しかし同時に、修也はその言葉に救われた。誰かが自分を見ていてくれるという感覚は、思ったより心地よかった。
第一週目。修也はぎこちない変化を始めた。朝に一杯のコーヒーを丁寧に淹れる。通勤途中に落ちているゴミを拾ってみる。小さな行為が、奇妙に自分を満たす。彼女は夜、塀に座って彼の変化を無言で観察していた。言葉は少なく、時々短い指示や評価のようなものだけを残す。
「今日はいいね。三つの善行。」
「え、三つも?」修也は照れ臭そうに笑う。三つの善行――コンビニのレジで迷っているおばあさんを手助けしたこと、近所の犬が迷子になっているのを飼い主まで連れて行ったこと、そして昔の同僚に久しぶりに連絡したこと。どれも派手ではないが、確かに彼の心を温めた。
第二週目。彼は自分のためだけでなく、誰かのために時間を使うことが増えた。配達の棚を整理しているとき、店長が腰を痛めているのを見て、率先して重い荷物を運んだ。夜、居酒屋で一人で泣いている女性に話しかけ、彼女の話を聞いた。家に帰ると、彼女はいつもの場所に座っていたが、今日は少しだけ笑っていた。
「あなた、少し柔らかくなった。」彼女の声が、ほんの僅かだけ優しかった。
「……そっか」
第三週目の終わり、修也は自分でも驚くほどの変化を感じた。仕事に対する責任感が芽生え、店の在庫管理を任されるようになり、同僚からも頼られることが増えた。彼は初めて、自分が誰かの生活の一部になっていることを実感した。その実感は、彼を嬉しくさせ、同時に恐れさせた。変わってしまったら、彼女――死神は本当に去るのだろうか。
ある夜、彼は決心して訊ねた。
「もし、俺が完全に変わったら、どうするんだ?」
「私は仕事をするだけ。命のリサイクルが仕事。あなたの命がリサイクルに値しないと判定されれば、回収する。価値があるなら、私は別の人へ行く。」
修也は少し寂しくなった。彼女に感情があるのか、ないのか。彼女がやっていることは冷徹で、おそらく彼女自身には温度がないのだろう。だが修也は、死神という存在に少しずつ愛着を感じ始めていた。毎晩の沈黙が、いつしか日課になっていたからだ。
そして期限の一日前。修也は家の前で彼女を待った。月が高く、風が柔らかい。彼女はいつものように塀に座り、無言で彼を見つめる。
「判定は?」
彼女は彼の顔を見つめ、しばらくの間考えるふりをした。
「リサイクル不可。あなたの中に、まだ回収する価値のある『無駄』が残っている。」
その言葉に、修也は胸を殴られたような衝撃を受けた。無駄が残っている? 自分にはもう十分に変化があったはずだと思っていたのに。
「まだ?」彼は問い返す。
「まだ。あなたは他人のために時間を使えるようになったけど、自分のための『生き甲斐』を見つけていない。誰かに必要とされることと、自分が生きる理由を持つことは違う。あなたは後者が足りない。」
修也は黙った。胸の中で何かが渦巻く。彼女の言葉は冷たかったが、正しかった。彼は仕事や他者への気遣いを見つけたが、自分が本当に情熱を注げるものをまだ見つけていなかった。
「もう一ヶ月、くれる?」修也は懇願したい気持ちになっていた。その気持ちを、彼はためらいなく吐き出した。
彼女はゆっくりと首を振った。
「それは、私のルールに反する。けれど――あなたには選択肢がある。今、私があなたを回収する。その代わり、新しい命にリサイクルされる。あるいは、あなた自身が『自分のための何か』を一日でも早く見つけて、私が回収に値しなくなるまで続ける。どちらを選ぶ?」
修也は夜空を見上げた。月の光が冷たく、でもどこか清らかに感じられた。彼女が言う「リサイクル」は恐ろしいが、その言葉には終わりと再生の二面性がある。死ぬことで別の命に生まれ変わる――それは究極の変化でもあった。
彼は、自分の手の中にある小さな財布を握りしめた。中には、子供の頃に買ったボロボロのゲームのチケットが一枚入っている。かつては夢中になった、絵を描くことやゲームデザインのことを思い出した。閉ざしていた扉の鍵が、微かにあと一回転しそうな気配がした。
「俺、自分で探すよ。見つかるまでやる。誰かのためじゃなくて、自分のために。……だから、回収はしないでくれ。」
彼女はじっと彼を見つめ、そしてほとんど聞き取れない声で言った。
「わかった。あなたの選択を尊重する。だが忘れないで。命は有限。リサイクルの順番は早まることもある。」
そう言うと、彼女は塀から立ち上がり、闇の中へと溶けていった。彼女の背中に一瞬だけ見えたのは、冷たいプロフェッショナルの背筋と、どこか儚げな孤独だった。
修也は深呼吸をして、家に入った。部屋の壁に小さく貼られた、昔の自分の絵――下手な線で描かれた冒険者のスケッチ――を見つめる。彼はペンを取った。夜は長く、選択はまだ続く。だが初めて、彼は自分のために何かを始めたのだ。
死神は去ったが、その存在は彼の生活に奇妙な緊張と希望を残した。リサイクルが迫るかもしれない、という現実は消えない。だが修也の中には、もう「無駄」にされるだけの灰色は残っていなかった。彼は小さな一歩を踏み出し、世界を少しだけ自分の色で塗り替えようとした。
そしていつか、彼が本当に自分のために燃え尽きる時が来るなら――その時は、彼自身が選んだ炎であってほしいと、彼は思った。




