遺伝子の調律
数ある物語の中から、本作を手に取っていただき、心より感謝申し上げます。
この小さな物語が、あなたの日々にほんの少しでも彩りを添えられますように。
もし気に入っていただけましたら、ブックマークや感想をお寄せいただけると、作者にとって大きな励みとなります。
なお、全く別ジャンルの物語も公開しております。気分転換に違う世界を覗いてみたいときは、ぜひそちらもお楽しみください。
森を抜けて町へ戻ろうとした矢先、二人の耳に再び低い唸り声が響いた。
「……まだ来るの?」
振り返ったマスリナの表情が強張る。先ほど逃げた狼が戻ってきていた。しかも今度は一匹ではない。背後に、一回り大きな巨躯を持つ狼を従えている。鋭い黄金の瞳、太い牙、分厚い毛並み――群れのボスだ。
その威圧感に、空気が一瞬で凍りついた。
「……ボス狼だ」
マスリナが息を呑む。次の瞬間、ボスが地を蹴った。
矢のような速さで迫る影に、マスリナは咄嗟に光弾を撃ち放った。しかし、巨体に似合わぬ俊敏さでかわされ、肩口に牙が食い込む。
「きゃっ……!」
鮮血が散り、マスリナは地に倒れ込んだ。
「お姉ちゃん!」
ハヤトが駆け寄るが、狼の群れが立ちはだかる。鋭い牙が光を反射し、喉を狙って飛びかかろうとする。震える手で光弾を放つも、威力は足りない。狼は怯みすらしなかった。
――勝てない。
恐怖が脳裏を覆う。けれど同時に、心の奥から激しい抵抗が湧き上がる。
姉を置いて逃げられるわけがない。
家族を、これ以上失ってたまるものか!
必死にマスリナの手を握り締めた。冷たくなり始めたその感触に、涙がにじむ。
「お願いだ……力を、僕に!」
その瞬間だった。ハヤトの全身が眩い光に包まれる。胸の奥から熱が溢れ出し、血の一滴一滴が燃えるように震える。魔力が奔流となって駆け巡り、音を立てて世界を震わせた。
狼たちが一瞬、怯んで足を止める。
「こ、これは……?」
マスリナが掠れる声で呟いた。
ハヤトの魔力は、先ほどまでとは比べものにならなかった。放った光弾は轟音とともに炸裂し、巨岩をも砕く威力でボス狼を直撃する。爆風が吹き荒れ、木々が軋み、森が震えた。
「う、嘘だろ……僕の魔法が、こんな……」
森を震わせるような咆哮。血走った目で飛びかかってきたボス狼の牙が、ハヤトの頬をかすめた。冷たい刃のような風圧に心臓が跳ねる。
「下がりなさい。!」
肩に怪我をしているが、マスリナが叫び、両手で編んだ魔法陣を展開する。
緑の光が盾となって、群れの狼たちを押し返した。しかしボス狼だけは怯まない。巨体に刻まれた焦げ跡から煙を立ち上らせ、なおも獲物を仕留めようと迫ってくる。
ハヤトは震える指先を握り締めた。――自分には母の魔法薬学は扱えない。それでも、父が教えてくれた術がある。
「……炎よ、形を成せ!」
息を呑む間に、掌に赤熱の矢が生まれた。狼の瞳と視線が交わる。恐怖と怒りと、両親の記憶が胸で渦を巻いた。
次の瞬間、ハヤトは叫びと共に矢を放った。
轟、と空気を裂き、炎の矢がボス狼の胸板を貫いた。爆ぜる火花と共に、毛皮は燃え上がり、巨体が絶叫をあげて地をのたうつ。やがてその声は次第に掠れ、静寂の中に消えた。
焦げた匂いが漂い、森は再び夜の闇を取り戻した。
ボスが倒されたことで他の狼達は逃げていった。
「……倒したの?」
マスリナの声は震えていた。
ハヤトは息を荒げながら、炎に沈む狼の影を見つめた。燃え残った瞳は、もう二度と動くことはなかった。
「……うん。僕が、やった」
その瞬間、胸を刺していた「何もできなかった」痛みが、少しだけ和らいだ。まだ半分の自分かもしれない。けれど確かに、自分の手で運命を切り拓いた一撃だった。
静寂が戻る。ハヤトは光の余韻に包まれながら膝をつき、荒い息を吐いた。
「はぁ……はぁ……」
マスリナが震える手で弟の肩を掴む。
「ハヤト……今のは……」
「わからない……でも、体が……勝手に」
無意識に遺伝子を調律し、最善の状態へと切り替えていた。父から受け継いだ魔法学の才能に、母からの魔法薬学の系譜が響き合い、新たな力が目覚めたのだ。
それが何なのか、まだハヤト自身にも理解できない。けれど確かな事実があった。
――自分の力で、初めて姉を守れた。
マスリナは血に濡れた笑顔を浮かべた。
「……やっぱり、あんたは私の弟だね」
「お姉ちゃん……」
涙が頬を伝う。けれどその涙は、絶望だけのものではなかった。
深い森の中、二人の絆と共に「遺伝子の調律」という新たな力が芽吹いた瞬間だった。




