第二章:七不思議・音楽室の幽霊 3
「……君、誰?」
僕がそう問いかけると、準備室の隅で膝を抱えていた少年は、おびえた様子でこちらを見上げた。
制服は、うちの中等部のものだ。少し丈が短く、肩も落ちていて、いかにも成長期の途中といった体格。髪は少し伸びすぎていて、目にかかっている。
「……あの、怒らないでください。ほんとに、盗みとかじゃなくて……」
少年は、か細い声でそう言った。
かすみが一歩前に出る。表情には、いつものような高揚も皮肉もなかった。ただ、まっすぐに彼を見つめていた。
「じゃあ、どうして夜の音楽室に?」
少年は、うつむいて、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「兄が……昔ここでピアノを弾いてて。僕、その音が好きで、よく放課後に聴いてたんです。でも、兄が卒業してからは、もう誰も弾かなくなって……」
そして、彼は言葉を切ったあと、そっと目を伏せる。
「……それで、たまに夜、こっそり来て、ちょっとだけ、弾かせてもらってたんです」
罪悪感と寂しさが入り混じった声だった。
「見つからないように、ソフトペダルを使って。音も、小さく。誰にも迷惑をかけたくなくて……。でも、気づかれちゃってたんですね、やっぱり……」
「三日連続っていうのは、偶然じゃなかったのね」
かすみが呟く。
少年はうなずく。
「兄が卒業したの、ちょうど三年前のこの時期なんです。だから……今週は、なんとなく」
それを聞いたとき、僕はふいに、あの“噂”がどうして三日連続で聞かれたのか、理由がわかった気がした。
幽霊なんかじゃない。ただ、残された記憶と想いが、ほんの少し形を持って現れただけだった。
「……でも、それなら、鍵はどうしてたの?」
僕が尋ねると、少年は制服のポケットから、銀色の小さな鍵を取り出した。
「音楽の先生が、僕の兄のことを覚えてて。放課後、練習したいならって、こっそり貸してくれたんです。本当は、放課後だけって約束だったんですけど……僕、ちょっと時間が合わなくて……」
「だから、こっそり“夜”に来てたってこと?」
「……はい。でも、音を聴かれて噂になるなんて思ってなかった」
少年の肩は、申し訳なさそうに落ちていた。
かすみは懐中電灯の光をゆっくり下ろし、静かに言った。
「……もう幽霊じゃないって、わかったわね、助手くん」
「うん。事件じゃなかった。どちらかと言えば、思い出の“演奏”だったんだ」
音楽室に、再び静けさが戻る。
しばらくして、少年がぽつりと呟いた。
「でも……やっぱり、ダメですよね。夜に学校に入るなんて」
その問いに、かすみは答えなかった。代わりに僕が、ゆっくりと首を横に振った。
「うん。ルールとしてはダメだと思う。でも、気持ちはわかるよ」
すると、かすみが口を開いた。
「このことは、私たちの中だけに留めておく。ただし、先生にはちゃんと話して、“正規の時間に練習できるように”お願いしてみるべきね」
少年は、驚いたように目を見開いた。
「……いいの?」
「もちろん。音楽って、人を動かす力がある。でもそのためには、続ける環境が必要なのよ」
彼女の言葉に、少年は小さくうなずいた。
静まり返った夜の音楽室で、誰もが少しずつ、気持ちを整えていくような時間だった。
◇
後日談は、そう長くかからなかった。
少年は先生に謝罪し、事情を正直に話した。そして、先生は快く鍵の使用を認めてくれた。今後は、放課後に正式な許可のもとでピアノを弾けることになったらしい。
「……結局、幽霊はいなかったな」
ある日の昼休み。僕がぼそりとそう言うと、かすみはふっと微笑んだ。
「そうかしら? あの音には、確かに何かの“残響”が宿っていたと思うわ。幽霊って、心の中にこそ住んでるものじゃない?」
「……何それ、ちょっと名言っぽい」
「でしょ?」
結局のところ、「七不思議」は、七つの“怖い話”なんかじゃなかった。
それは、七つの“誰かの気持ち”なのかもしれない。