第一章:消えたプリント 5
放課後の校舎裏は、ひんやりとした空気に包まれていた。保健室の窓のすぐ下にある花壇のわき、雑草混じりの地面を僕たちはじっと見つめていた。
「ここが……あのとき、物音がした場所だな」
「ええ。何かを落としたか、捨てた可能性が高いわ」
九条はしゃがみ込み、落ち葉の下を慎重に探る。僕も近くの茂みをかき分けながら、目を凝らした。
そして。
「あった!」
九条が声を上げ、ビニール袋に包まれた何かを持ち上げた。中には、くしゃくしゃに丸められたプリントが一枚――それは、久保田が「盗まれた」と言っていた中間対策の数学プリントだった。
「……これは……!」
僕が手に取ると、そこにはうっすらと鉛筆で書かれた走り書きが残っていた。回答欄のすみに、小さく「P2→Q4」「連立はx=3 y=−1」といった解答メモがびっしりと書き込まれている。
「……明らかに、他人の字だな」
「ええ。たぶん、これは“もらった答え”ね。つまり久保田くんは、このプリントを使って不正に備えていた。でも、誰かに見られる前にそれを隠す必要があった」
「それで“盗まれた”ってことにして、騒ぎを作った……?」
「ええ。さらに混乱させるために、他の生徒のプリントを“勝手に移動させた”のよ」
「じゃあ……あの影は?」
「協力者。たぶん、プリントを捨てるのを手伝ったか、アリバイ作りに協力した誰か」
ちょうどそのとき、背後で足音がした。
二人で振り返ると、そこにいたのは――久保田だった。
「……あ、あれ? な、なんでここに……?」
彼の顔がみるみる青ざめる。手にはまだ保健室の“診断メモ”が握られていた。
「君の“頭痛”って、本当にあったのか?」
僕が訊ねると、久保田は目を泳がせた。
「お、俺は……ただ、ちょっと不安で……このプリント、友達から借りて……そしたら、先生に出すのはまずいって言われて……!」
「だから慌てて捨てた。自分でやったとは言えないから、“盗まれた”ってことにした」
九条の指摘に、久保田は崩れるように座り込んだ。
「……バレたくなかったんだ。数学、苦手で……でも、先生は点数を重視するから。推薦の話もあるし……だから、ちょっとだけ……って……」
彼の声は次第にかすれていった。
僕は久保田の肩を叩いてから、ゆっくりと立ち上がった。
「事情はわかった。でも、これはちゃんと先生に話すべきだと思う」
「……うん」
その背中に、九条がそっと声をかけた。
「ただの失敗は、まだ“やり直せる余地”があるわ。でも、嘘で塗り固めたら、本当に大事なものを見失うから」
久保田は、静かにうなずいた。
◇
その後、久保田は自分から担任に事情を話し、プリントとともに提出した。先生の対応は、厳しくも誠実なものだったという。もちろん、数学の課題は再提出扱いになったが、それで済んだのは、彼が自分の意志で名乗り出たからだった。
教室では、「結局、なんだったの?」という空気がしばらく続いたものの、九条と僕が詳細を語ることはなかった。
放課後の帰り道、僕は九条に問いかけた。
「なあ、どうしてあのとき、久保田を責めなかったんだ?」
「私は探偵よ。犯人を裁くのが仕事じゃないわ。事実を明らかにするのが役目」
「……そういうもんか」
「それに、まだ“犯人”って決まったわけじゃない。久保田くんが本当に不正をしようとしたのか、それとも追い詰められてたのか。それは本人にしかわからないことよ」
彼女は歩きながら、ふっと笑った。
「それに――次の事件の気配がしてるもの」
「え?」
「先生、言ってたのよ。“音楽室に亡霊が出る”って」
「おいおい……また事件かよ……」
「もちろん。助手くん、準備はいい?」
僕はもう、否定する気力すらなく、ただ空を見上げた。
どこかで雷が鳴ったような音がした。
空は、次の嵐の予感を含んでいた。
──第一章・完──