第四章:五年前の写真 6
春の雨が降っていた。
傘の先からしたたる水滴の音が、しんと静まり返った放課後の校舎に小さく響く。
屋上に続く階段の踊り場に、僕と九条かすみは並んで座っていた。
「ねえ、助手くん。君、ちゃんと覚えてる?」
「……なにを?」
僕の問いに、かすみは小さく首を振った。
「本当に、なにも?」
「思い出そうとしたけど……断片みたいなものしか。
優って名前を見たとき、胸がざわついた。何か大事なことを思い出しそうになるんだけど――」
「じゃあ、これはどう?」
かすみが、カバンから一枚の写真を取り出した。
古びたインスタント写真だった。
校庭を背景に、三人の生徒が並んで笑っている。
真ん中の男の子の顔は、どこか見覚えがあった。だけど、それだけじゃない。
その隣に立つ女の子――
髪を短く切り揃えた彼女の目元を見たとき、僕の心臓が一瞬止まりそうになった。
「……これ」
「うん、私。五年前の、私」
僕は写真を受け取って、まじまじと見つめる。
たしかにそこには、今のかすみに通じる面影があった。少しだけ背が低くて、笑い方が今より素直だった。
「私ね、五年前にこの学校に通ってたの。……って言っても、小学校のときね。でも、兄がこの高校の生徒だったから、よく迎えに来てて」
「兄……?」
「うん。立花優。私の兄よ」
言葉が、すぐに飲み込めなかった。
「え、ちょっと待って。立花、って……じゃあ、立花先生と……?」
「ううん、あれは旧姓。私、両親の離婚で苗字が変わったの。
でも、優お兄ちゃんはそのまま“立花”で卒業した。病気が悪化したのは、そのすぐ後。高校を出た春に亡くなったの」
静かに語られる言葉のひとつひとつが、ゆっくりと重く胸に響いていく。
立花優――神野優。
どちらも、かすみの兄であり、僕の……。
「信じられないかもしれない。でも、私は信じてる。
君があのとき出会った“神野優”は、うちのお兄ちゃんだったんだって」
かすみは、少し遠くを見るようにして言った。
「お兄ちゃんは、自分の絵が誰かの手に届くことを望んでた。でも、きっとそれは“名前”じゃなかったんだと思う。
彼が残したものを見てくれる人、受け取ってくれる人――それが君だった」
僕は、言葉を失った。
立花優。神野優。
兄弟というには、接点がなさすぎる。けれど、それでも――
僕はたしかに、彼の絵に惹かれた。彼の残した言葉に、何かを託された気がした。
「私ね、あの写真を見つけたときに決めたの。もう一度、兄の“続きを見つけてくれる人”に会おうって。
だから、転校してきた。――君に会うために」
雨が、静かに窓を打っていた。
僕は、膝の上でそっと手を握りしめる。
彼女はずっと、“誰かを探していた”んじゃない。
ずっと、僕に出会うためにここまで来てくれたのだ。
「ありがとう、かすみ」
自然に、そう言葉が出た。
「ふふっ。ようやく名前で呼んでくれたわね。もう“助手くん”卒業する?」
「……それはちょっと、保留で」
「残念。でも、あと一個だけ名探偵としての予言をしてあげる」
「なんだよ」
かすみは笑って、指を一本立てた。
「この学校には、まだ“解かれてない謎”があるわ。
優くんが残したものも、きっとまだ全部じゃない。だから――私たちの物語は、ここじゃ終わらないわよ」
彼女の声は、雨音の中でもはっきりと届いた。
たしかにそうかもしれない。
終わったと思っていたものの中に、まだ続きがあることもある。
たとえば、それは――五年前に撮られた一枚の写真のように。




