プロローグ「はじめまして、名探偵です」
春の空気というのは、どうしてこんなに眠いんだろう。
窓際の席は、思った以上に“誘惑”に満ちている。暖かな日差し、外を飛ぶ鳥の影、遠くの空に浮かぶ白い雲――そんなものをぼーっと見ているだけで、授業の内容が耳からすり抜けていく。
もちろん、先生は怒る。
「おい、神野。お前、さっきの問題わかったか?」
僕は条件反射的に立ち上がり、手元のノートを慌てて見た。が、そこには何の記録もない。あるのは落書きのような無意味な線と、半分眠ったまま書いたと思われる謎の漢字の羅列だけだった。
「……ええと、27です」
適当な数字を口にする。するとクラスのあちこちで、あからさまな笑い声が上がった。
先生は黒板をチョークで「バンッ」と叩くと、ため息混じりに言った。
「神野、お前、少しは自分の将来考えろ。お前の成績表、親が泣くぞ」
「はい……すみません」
僕はペコリと頭を下げ、席に戻った。
将来のことなんて、正直よくわからない。
特にやりたいこともないし、夢があるわけでもない。別に不幸なわけじゃないけど、特別幸せでもない。
ただ、なんとなく毎日が過ぎていく。
そういう日々を、僕はきっと嫌っていなかった。
少なくとも、その日までは――。
⸻
転校生が来ると聞いたのは、朝のHRの時間だった。
「今日から新しいお友達がこのクラスに加わります。えーっと……九条さん、入ってきて」
先生の合図とともに、教室の扉が静かに開いた。
春らしい薄いベージュのカーディガンを羽織った少女が、教室の中へと一歩踏み出す。肩までの黒髪はきれいに整えられていて、表情は明るく、どこか自信に満ちていた。
そして、その第一声は、誰もが予想しなかったものだった。
「はじめまして。九条かすみです。名探偵です」
一瞬、時が止まった。誰かが咳払いしたような気がする。
彼女はまっすぐにクラスの皆を見回し、笑顔を崩さぬまま、続けた。
「この学校には、絶対に何か“未解決事件”があると確信してきました。それを解き明かすため、転校してきました」
再び、沈黙。
「……え? マジで?」という小声が、あちこちから聞こえてくる。
先生も完全に想定外だったようで、「え、あ、え?」と口ごもったままだった。
そんな中、九条かすみの視線が、まっすぐこちらを向いた。……僕のほうへ。
「それから、助手はそこの男子で。そこの、ちょっとぼんやりしてる人」
「……え?」
「顔に“巻き込まれ体質”って書いてあるもの。ね?」
冗談じゃない、と思った。
⸻
休み時間。
「ねぇねぇ、助手くん、名前は?」
「いや、待って。僕、助手やるとは言ってないんだけど」
「大丈夫大丈夫。どうせ暇でしょ?」
「それを君が判断するの?」
「顔が言ってる。“特にやることもなくて流されて生きてます”って」
図星だった。
僕は観念して、名乗る。
「……神野蓮。よろしく」
「うん、よろしく助手くん。あ、助手くんって呼ぶね」
「神野でいいってば」
「いいのいいの、助手は助手」
僕はこのとき、心の中で静かに誓った。
この子には絶対、振り回される。
絶対、平和な日常を壊してくれる。
だけどそれが、どこか少しだけ、ワクワクしたのも確かだった。
⸻
昼休み、屋上。
九条は、校舎の地図を手にしていた。なんでそんなの持ってるんだ。
「まずは手始めに、この学校の“七不思議”を調査するわよ」
「七不思議って……そういうの、もう令和に残ってるの?」
「あるある。だって、オカルトって信じてる人がいれば成立するのよ?」
「成立条件そこなんだ……」
彼女の手には、クラスメイトから聞き出したというメモがあった。
・音楽室のピアノが勝手に鳴る
・鏡に映らないトイレのドア
・保健室のベッドに、夜中に誰か寝てる
・プールの水が勝手に減る
・視聴覚室のテレビがつく
・誰もいないのにチャイムが鳴る
・旧校舎の二階で人影が見える
「このうち、三つは物理的に説明できると思うの。でも、残りは……ふふ、ワクワクするわね!」
「僕はまったくワクワクしないけど」
「助手くんって、ホント冷めてるね。そういうとこ好き」
「えっ」
「今のは探偵として、ね」
……この先、僕はこの子に何度「えっ」って言わされるんだろう。
⸻
九条はいつもどこか楽しそうだった。
授業中も、ちょっとした間違いがあっても笑ってごまかし、先生にも愛嬌で許される。
周りのクラスメイトも、最初は戸惑っていたけれど、徐々にかすみに引き込まれていった。
けれど僕は、たまに思う。
九条は、“何か”を追っている目をしているときがある。
それはふとした瞬間。誰も見ていないときの彼女の横顔。
……まるで、記憶の奥底にあるものを探しているような。
それが何なのかは、まだ僕にはわからなかった。
でも――きっと、これからわかる。