序章
「去れ。お前は、此処にいるべきじゃない」
その人は、開口一番にそう言った。
大きく骨ばった掌。
空気に沈むような、低く落ち着いた聲。
何者をも射殺すような切れ長の眼。
初めて逢ったその人は、夜色の寂しい瞳を持っていた。
「でも……私には、もう――」
言葉に出そうとしてから、気づく。
私にはもう居場所がない。
私にはもう帰る場所がない。
現実に失望し、私を取り巻く環境に絶望し、必要のない世界なんだと諦めた。
今、此処にいる原因を思い出す。そうか、私は――。
「……あっ。ごめん、なさい」
自分自身のことに思いを巡らせていた最中。
はらりはらりと、真珠玉のような雫が頬を伝う。
泣きたいワケではない筈なのに、何故だろう。
言葉が喉に詰まる。心と身体の感情が噛み合わない。
溢れ出る雫に困惑しながら、慌てて涙を拭おうとした。刹那、
「……っ!」
大きな手が、私の手首を掴んでいた。
突然のことに驚き、手首を掴んできた人物を見返す。
間近で見たその顔立ちは、精巧な人形のようだ。
一見してみれば無機質で無表情――それなのに夜色の眼だけが不安そうに揺らいでいた。
「泣くな」
たった三文字の短い言葉。
それが慰めの言葉なのだと、遅れて気づく。
「……。泣くな」
それは私に向けた精一杯の優しさなのだろう。
無骨な指が、頬から目元にかけてゆっくりと滑る。
(あっ、涙を……)
涙を拭ってくれる指が、震えていた。
「……。ありがとう、ございます」
向けられた優しさに、先ほどとは別種の涙が溢れる。
男を困らせまいと俯いては声を押し殺そうとする。
なのに、嗚咽は止んでくれない。
肩を震わせながら泣く私の身体を、その人は包んでくれた。
言葉は不器用で、此処に留まろうとする私のことを叱責してもおかしくない筈なのに――向けられる〝感情〟はただただ、優しかった。