5話
馬車はひたすらアルトドラッヘン辺境伯領を目指す。途中から船に乗る。この船に乗るのは二度目だ。というより、池に浮かべるボート以外の船に乗るのも二回目。それすらもあまり乗せてもらえなかった。それに、私は王都からほとんど出たことがない。出てもお母様の実家か、お父様の妹マリア叔母様の嫁ぎ先、アッヘンバッハ公爵の領くらい。どちらも王都から一日もあれば着く。
やっと、アルトドラッヘン辺境伯領の領都についた。辺境伯夫妻が港まで迎えに来てくれていた。
「急ぎ旅でお疲れでしょう。お疲れなのは承知ですが、今なら、夕方のノーザンフィールド行きの船に間に合います。今夜はそちらでお休みください。」
そう言って、私達はノーザンフィールド行きの船に乗り換えた。
船は波を切って進んで行く。これが海。初めて見る。本当に広いんだ。夢ではギルベルト様と一緒だった。今、現実ではご両親と一緒に海を渡っている。
「ノーザンフィールドは本当にすぐですよ。
本当なら船を仕立てるべきなのでしょうが、領主夫人になられるのですから、領民がどのような暮らしをしているかご覧になっていただきたかったのです。それに、この船に乗れば明日朝早くに出港する王都行きの船に間に合います。
あそこの姉妹、今日、初めて自分達だけで船に乗ったみたいですよ。」
辺境伯が言う。
言われた方を見る。不安を必死に隠している顔をした女の子に、それより少し小さい女の子が姉の服をしっかり握りしめているが、安心した顔をしている。私もヨハンナお姉様もカタリーナお姉様がいれば大丈夫だと思っていた。きっと、あの女の子も私やヨハンナお姉様と一緒で、姉といるので大丈夫だと思っているにちがいない。
他にも親子連れや商人らしき人、学生と思われる人など、いろいろな人が乗り合わせている。この船は彼らにとって日常なのだ。
アルトドラッヘン辺境伯領とノーザンフィールド公爵領は今でこそ別々の国だけれど、元々は一つの国。その名残りだろう、人々は互いの領を行き来するのに隣の村に行く気軽さ。同じ国なのに違う領に行く方が外国に行く気がするという。この船に乗っていると、本当に人々がそう感じているのがわかる。
どの人もヴェストニア語ともエルメニア語とも違う言葉を話している。ここはローゼニア。ヴェストニアの一地方でありながらヴェストニアではなく、エルメニアの一地方でありながらエルメニアではない地域。昔、二つの地域は同じ一つの国だった。今でも二つの地域の領主は同じ一族だ。私もローゼニア語を勉強したけれど、少ししかわからない。領主夫人になるならもっと勉強して、日常の会話くらいはできるようにならなくては。そうしなければ領民の信頼は得られないと思う。
船がノーザンフィールドの港についた。一番最初に降りたが、あの姉妹が気になって仕方ない。迎えに来てくれた公爵にわがままを言って、姉妹が降りてくるまで待つことにした。
舷梯のそばで心配そうな顔の女の人が立っている。仕切りに船から降りてくる人を気にしているようだ。きっと姉妹の母親だろう。
「お母さん!」
走り出そうとする妹の手を握って走り出せないようにする姉。舷梯で走ったら危ないものね。母親が舷梯の下まで走っていく。降りてきた姉妹は母親に抱きついた。無事、母親と会えて、私も安心したわ。
ハンナに促され、公爵家の馬車に乗る。行く先は公爵邸だ。アルトドラッヘン辺境伯の屋敷も古くて大きくて立派だったけれど、この公爵の屋敷も負けていない。
ここが、ギルベルト様の育った家なのね。小さい頃にノーザンフィールドに来たという話だもの。
「、、、正式な晩餐を開いて歓迎をするべきなのですが、長旅でお疲れでしょう。明日も早くに出発しなければなりません。今夜は軽めのものをお部屋にお持ちするようにしましょう。」
公爵はそう言って、自ら部屋に案内してくれた。
部屋にはメイドがいて、夕食の前に湯を使えるようにしてくれていた。
「は〜、さっぱりした。」
お湯を使い、部屋着に着替えた私をハンナが捕まえて、椅子に座らせた。
「殿下、今、ベッドに横になろうとなさったでしょう。」
ロッテがニヤ〜と笑いながら言う。
「いいじゃない。自分の部屋なんだから。」
その時、ノックが聞こえる。ロッテが急いでドアを開けると、メイドが「お食事をお待ちしました」と入ってきた。横にならなくて良かった。きっと秒で寝て、だらしない姿を見られるところだった。
テーブルの上にグラスが置かれ炭酸水が注がれる。それから前菜、スープとパン、魚、と量は少ないものの次々と出てきた。
これ、絶対、軽い食事ではないよね。でも、美味しくてあっさりした味付けで、全部たいらげてしまった。
「さ、殿下、明け方には出発するらしいので、もう、お休みください。」
歯磨きの後、ハンナにベッドに押し込まれた。ハンナ達は私が休んでから出ないと、食事も取れない。
「ハンナ、ロッテ、お休み。」
ハンナとロッテは私がベッドに入ったのを見届けてから、部屋から出て行った。
体は疲れているのに、いろいろ考えてしまう。どうしてノーザンフィールド公爵家だけでなく、エルメニアの第一宰相からも王宮主催の夜会に出て欲しいと言われたのか、ずっと悩んでいる。私をシュバルツ辺境伯の婚約者として紹介するためかな?それなら、もっと早くに言ってくるだろうし。突然、思い立ったのかな?ああかな、こうかな、といろいろ考えるけれど、ちっともわからない。ひとつだけわかっていることは、ギルベルト様に会えるということだ。これだけは確実だ。早く会いたいなぁ。
翌朝早く、夜が明ける前に起こされる。何?せっかくいいところだったのに。ギルベルト様と手を繋いで散歩しているところだったのよ!
「殿下、早く出発の支度を。」
ハンナの声だ。夜明け前に船は出発するって言ってたわね。
寝ぼけている私の寝衣をロッテが強引に脱がす。ハンナが持っていた服を着せ、髪を簡単に整える。なんかこの仕打ち?は覚えがあるわね。ギルベルト様との婚約の書類にサインした時だ。ハンナとロッテの努力により私の身支度は極めて短時間で終わった。
玄関前では公爵とケプラー子爵が待っていた。
「殿下、おはようございます。」
「おはようございます。」
私達は馬車に乗り込んだ。
朝早い、と言うより夜明け前なのに港は活気付いている。私も目が覚めてきた。いろいろな音や臭い。船に乗るために馬車から降りるとそれらがより一層強く感じられる。全てが珍しくてキョロキョロしてしまった。
辺境伯夫妻が私の前に来た。夫妻はここまでで、朝の便で領に帰るという。私を送るためだけに海を渡っくれたみたい。
「殿下、本当にアルトドラッヘンとノーザンフィールドは近いでしょう?ノーザンフィールドにお帰りになられたなら、アルトドラッヘンに是非、いらっしゃってください。」
と辺境伯夫人が笑った。貴族の本拠地はその領地だ。王都には「行く」、領地には「帰る」。「お帰りに」って、まだ結婚していないのに。でも、ギルベルト様の妻として認められていると実感できてとても嬉しい。
促されて船に乗る。辺境伯夫妻が手を振ってくれている。私も振り返す。ん?この船、私達以外乗客はいないような。
「マクミラン商会の船ですよ。速度の出る船ですし、途中どこにも寄らないので、一番早く王都に着きます。客船は夜が明けてからの出航ですし、途中の港にも寄りますからどうしても着くのが遅くなります。」
マクミラン商会は主に高級品を取り扱っているエルメニアの大きな商会。ヴェストニア貴族にも顧客がいる。客船の定期便は途中の港に寄ったりするので、どうしても遅くなるらしい。急ぐ人は貨物船に乗るみたいで、大きな貨物船には客室に転用できる倉庫がいくつか作ってあるとの話だった。
客室に転用できるといっても、本来は倉庫なので窓も小さく、部屋も粗末。勿論、家具も。ハンナは「こんな粗末な部屋に殿下を」と文句を言っていたけれど、私は何とも思っていない。公爵の話では公爵家の人間は急ぐ時には昔から貨物船を利用しているとのことだし、ギルベルト様もグロリア様も定期の客船より貨物船の方が好きで、急がない時にも貨物船に乗りたがったらしい。私は普通の客船がどのようなものか知らないけれど、馬車と違って動き回れるのが嬉しいので、特に文句はない。途中休憩を挟むとはいえ、同じ姿勢で揺られていなければならない馬車は疲れる。それに甲板に出て、岸の風景を見るのも楽しい。
ノーザンフィールド公爵家はエルメニアの富の半分を賄うという。豊かな穀倉地帯が広がっている。私、こんな領の領主夫人になるんだ。
乗ってから大変なことに気づいた。前回、ギルベルト様にお会いした時はお湯を使って綺麗になった後だった。少し休んでからだったし。今回は船で快適とはいえ、長旅でヘロヘロ、公爵家でお湯は使ったけれど、船の中ではろくに湯も使えない。エルメニアの王都に到着するのは夜遅くとはいえ、きっとギルベルト様は港に出迎えに来ているに違いない。美人ならやつれた姿も絵になるでしょうけど、私は美人ではない。疲れた姿などマイナス要素だ。そんな姿は見せられない。しかし「出迎えはいらない」なんて言ったら、私がギルベルト様を嫌っているように思われるかもしれない。それに、この船が一番早く王都に着くなら、出迎え不要をどうやって伝えればいい?詰んだわ。
しょんぼりと甲板に出て岸を川面を眺める。
「殿下、どうされましたか?」
公爵と話していたケプラー子爵が話しかけてきた。唇を噛み締め、目からは涙が出てくる。
「殿下、本当にどうなさったのです?エルメニアにはヴェストニア料理を出すレストランもありますし、ヴェストニアの書物も手に入ります。そうですよね、公爵。」
慌てた様子のケプラー子爵が公爵に話しかける。
「ええ、勿論。街中のレストランも良いですが、当家の料理人のヴェストニア料理もなかなかのものですよ。書物も多くはないですが我が家にもありますし、王宮図書館にはかなりあります。殿下なら利用許可はすぐにおりるでしよう。少し時間はかかりますが、ヴェストニアから取り寄せましょう。」
公爵もそう言ってくれたところをみると、二人とも私がホームシックにかかったと思ったみたいだ。
私は首を横に振る。
「大丈夫です。」
そう言って、自分の船室に帰った。何が大丈夫なのかわからないけど。船室に帰ってから、ロッテが話しかけてきた。
「殿下、どうなさったのです?あんなに辺境伯にお会いできるのを楽しみにしてらっしゃったじゃないですか。ヴェストニアが恋しくなったのなら、エルメニアの王都にはヴェストニア料理を出すレストランもあるという話でしたから、辺境伯と一緒に楽しまれたらいいじゃないですか。公爵家の料理人はヴェストニア料理も得意らしいので、きっと公爵が招待してくださいますよ。殿下のお部屋をヴェストニア風に改装してもらいましょう。」
一生懸命に慰めてくれる。
格好悪い気もするけれど、しょんぼりと涙を流していた理由をロッテとハンナに打ち明ける。
「船では水や燃料が貴重なのは何度も船をご利用なさっている辺境伯はご存知でしょうから、お気になさることはないのでは?」
ロッテはそういうけれど、、、
「殿下は疲れた姿ではなく、綺麗な姿でお会いしたいのですよね。」
ハンナがそう言ってくれた。
綺麗かどうかはわからないけれど、少なくともヘロヘロな姿はイヤ!ちょっとでも綺麗な姿で会いたい。思い出、というか記憶は美化されることが多いから、ギルベルト様の記憶の私も少し美人になっているかもしれない。なのに、それでなくても不細工な私のヘロヘロ、ヨレヨレな姿にガッカリされたくない。また、涙が出てきた。
ロッテが「ケプラー子爵に相談してみます?」と言って、出て行った。ケプラー子爵はお父様の学友で、私のことを小さい頃から知ってくれている。何か力になってくれるかもしれない。して欲しい。
しばらくして、ケプラー子爵がロッテと一緒に部屋にやって来た。
「殿下、私にお話がお有りだとか。」
いくらケプラー子爵がお父様の学友で私のことを小さい時から知っているとは言っても、泣いた理由を話すのは少し、いや、かなり恥ずかしい。どれだけ自意識過剰なんだ、と思われたらどうしよう。そう思ったら、引っ込んでいた涙がまた出始めてしまった。
ハンナが持って来てくれた椅子にケプラー子爵は腰掛ける。子爵は何も言わず、優しく微笑んだままだ。私が話す気になるまで待ってくれるつもりらしい。私は意を決して子爵に理由を話した。
ケプラー子爵は笑わなかった。
「申し訳ございません。殿下のお気持ちに気づけず。私が公爵に相談して参りましょう。何度も船をご利用なさっている公爵なら、何か良い知恵をお持ちかと。」
「待って。公爵に『なんて自意識過剰なんだ』と思われたくないわ。」
ケプラー子爵は笑った。
「大丈夫ですよ。」
そう言って、部屋を出て行った。何が大丈夫なのかしら?でも、私にはいい案は浮かばないし、ケプラー子爵もいい案を持っていないみたい。公爵の知恵を借りるのが一番いいとは思うけど、、、
夕食前、ノーザンフィールド公爵が私の部屋を訪ねて来た。
「殿下、殿下の方から出迎えは不要と仰ってくださり、ありがとうございます。この船は夜遅くに王都に着きますが、ギルベルトは翌日、学校がありますので、私も気を揉んでいたのです。」
公爵のその言葉を聞いて、私は安心した。けれど、どうやって「出迎え不要」を伝えるのかしら?
夜遅くに、船はエルメニアの王都の港に着いた。船の荷を降ろすためか、港には沢山の人が働いていた。こんな夜中まで働いているんだ。公爵の話では夜に着く荷も多いとのこと。
「客船は日のあるうちに着く必要があるでしょうけど、貨物船は夜の方が具合が良いこともあるのです。夜の内に下ろした荷を仕分けして朝早く各地に出発できますから。この船着場から続く門だけは夜も開いています。事前に届けを出しているので、問題なく王都に入ることはできるでしょう。」
そう公爵が教えてくれる。
公爵家の馬車は公爵が用意してくれた屋敷に向かっている。エルメニアの王都は夜遅いというのにあちこち灯りがついていた。それだけ繁栄しているということだ。
一軒の屋敷の門をくぐり、馬車は玄関の車寄せに止まる。夜遅くなのに、使用人は総出で私を迎えてくれた。
「エルメニア滞在中はこちらの屋敷をお使いください。何かご要望がありましたら、マーサにお申し付けください。
明日、夜会のお迎えにギルベルトと共に参ります。」
そう言って公爵は再び馬車に乗った。
マーサと呼ばれたメイドが部屋に案内してくれた。そんなに大きな部屋ではないけれど、手の込んだ装飾、一目で高価とわかる調度類。
「いつでもお呼びください。屋敷のご案内は明日いたします。今夜はゆっくりお休みください。」
マーサはドアを閉めた。
ロッテがキョロキョロする。
「すごい部屋ですねぇ。これが別邸の別邸、、、」
別邸の別邸。貴族の本拠地は自領でそこにある屋敷が本邸、王都にあるタウンハウスは別邸といえる。その別邸とは別にあるから「別邸の別邸」。間違ってはないけれど、何か変な言い方。だからといって、どう呼ぶのがいいのか私にもわからないけれどね。単に「別邸」でいいのではと思う。
ハンナが旅行カバンの整理を始めている。
「ハンナ、今いる物だけ出したら、整理は明日でいいわ。それより、お湯を使いたいわ。さっきのマーサって名前のメイドの話ではお湯の準備はできているらしいし。冷める前に早くしましょう。」
ハンナはお湯を使うのに必要な物を取り出した。
ノックがある。ドアのそばにいたロッテが開けると、マーサの他に二人のメイドがいた。
「お湯を使われると思いまして。侍女のヘルマン夫人もミュラーさんもお疲れでしょうから、殿下のお世話は私達に任せて、今日はお休みください。」
え、ハンナやロッテと引き離されちゃうの?以前、想像したように、ヴェストニアから侍女を連れてくるのは許されないの?私は独りぼっち、、、
マーサの後ろにいるメイドが驚いた顔をする。
「殿下!」
ドアの近くのロッテが駆け寄って来た。
「泣かないでください。大丈夫ですよ。絶対、殿下から離れませんから。」
ロッテがそういって私に抱きついてマーサ達メイドを睨む。その様子からすると私は涙を流しているらしい。
ハンナが苦笑いをしている。
「ありがとうございます。しかし、殿下のお世話は私達の仕事ですから。」
相手のマーサも苦笑いをする。
「申し訳ございません。大変差し出がましい真似をしたことをお許しください。
私達も旦那様やギルベルト様より殿下がご不自由の無いようにお世話するように言いつかっておりますので、何かお手伝いできることがありましたら、いつでもお申し付けください。
それでは、失礼いたします。」
ドアを閉めて、出て行った。
私を独りぼっちにさせるためじゃなかったんだ。なんか、悪いことをした気分。旦那様というのは公爵のことでしょう?公爵だけでなく、ギルベルト様も気にかけてくれているんだ。会いたいなぁ。でも、こんなヨレヨレ、ヘロヘロな姿は見られたくない。私が美人だったら、長旅で草臥れた姿も絵になるのになぁ。そう思ったら、また、涙が出てきた。
お湯をつかってさっぱりしたら、少し、前向きな気持ちになれた。
「そうですよ、殿下。カードゲームだって、自分に無い札をアレコレ言って羨ましがってもしょうがないんです。今持っている札で勝負しないと。
殿下には『王女』という最強の札があるじゃないですか。この国のどんな美人も持っていない最強の札ですよ。」
失礼なことを言うロッテ。けれどその通り。自分の手持ちに無い札のことをアレコレ言っても仕方ない。ある札をいかに有効に使うか考えた方が建設的だわ。ベッドに押し込まれた。ハンナにも「明日は夜会の準備でゆっくりできませんから」と言われた。
ベッドに入るといろいろ考えてしまう。正式に婚約してから何度か手紙のやり取りをした。手紙には贈り物がついていた。万年筆だったり、髪飾りだったり。あの手紙からは私のことを婚約者として想ってくれているように思えたし、贈り物も万年筆以外は婚約者に贈るに相応しいものだった。きっと、ギルベルト様は私のことを婚約者として、結婚すれば妻として相応しい待遇で迎えてくれるでしょう。でも、なんで王都の本邸ではなく、別邸なのかしら?普通、大事な客は本邸に招くよね。私を別邸に滞在させるということはそういうこと。
そう思ったら涙が出てきた。せっかく前向きになれたのに。やっぱり、下手でも刺繍のハンカチをつけた方が良かったのかなぁ?婚約者に贈る定番だものね。それを贈ってないのはギルベルト様のことを婚約者として認めてないというメッセージになっていたのでは?ギルベルト様にそう思われても仕方ない行動だったわ。
けれど、ギルベルト様と想いあっていても、その待遇どころか表に出すことさえ許されない人がいるかもしれない。心まで得ようとするのは欲張りなのではないかしら。でも、ギルベルト様の心も欲しい。私はなんて欲深い人間なのだろう。
明日はギルベルト様に会える。ギルベルト様の心には私ではない誰かが住んでいても、きっとギルベルト様は私を婚約者として扱ってくれる。ルイーゼ、それでいいじゃないの。貴女が夫に望んだことは「顔は人並みで私を正妻として遇してくれる人」だったでしょ。望みは叶ったじゃない、それ以上だったでしょう?他に何を望むの?人の欲望には限りがないのよ。無いものを嘆くより、あるものを喜んだ方が幸せになれるのよ。あとは、そうね、ギルベルト様に好かれるように努力するしかないわ、取り敢えずギルベルト様の好みを知ることから。そう思いながら、眠りについた。
外が明るい。ウトウトしていると誰かがノックをして入ってきた気配がする。頑張って目を開けるとハンナだった。
「ハンナ、おはよう。」
「おはようございます。お目覚めでようございました。
ルイス伯爵と第一宰相のロイド伯爵がお見えです。」
え?私、寝起きなんだけど。何でこんな時間に来るの?未来の公爵夫人として相応しいかの抜き打ちチェックなの?
ワタワタしていると、ハンナが笑った。
「まだお寝みですと申し上げましょうか?お目覚めかどうか見て参りますとしか申し上げてませんし、お目覚めでなければ遠慮すると仰ってましたから。」
「ちょ、ダメよ。すぐに起きるわ。寝坊するような娘は相応しくない、なんて思われたくないもの。初っ端からつまずきたくないわ。」
私は慌てて起きた。
ロッテが「もう、昼前ですよ。朝食、食べ損ねましたね。すっごく、美味しかったのに。ジャムだって何種類もありましたよ」と笑った。うるさい、それは明日食べるからいいもん。そんなことより、支度!
なんとか支度を整えて、応接室に行く。
「おはようございます。」
男性が二人いる。一人は以前会ったことがある。婚約の書類を持ってきたルイス伯爵だ。もう一人の男性がエルメニア王国第一宰相ロイド伯爵なのでしょう。宰相って、もっとでっぷりとしてるのでは?お父様はお腹が少し、、、お母様が仰るには「お若い頃はとても精悍で素敵だったのよ」と。その後「今でも素敵だと思うわ」と付け足された。うん、明らかに付け足した感じだったわ。
二人は立ったまま。私が座らないから二人は座れないわね。小娘といえども、王女ですもの。私は自分が腰掛けてから、二人にも椅子を勧めた。父親のような方を立たせたまま、自分だけ座れないと言って。
ルイス伯爵が口を開く。
「ルイーゼ殿下、お久しぶりです。私のことを覚えていらっしゃいますか?婚約の書類をお待ちしたルイス伯爵ドミニク・ルイスです。こちらは我が国の第一宰相ロイド伯爵ハロルド・ロイド卿です。
ご挨拶に伺いました。」
ただのご機嫌伺いのようね。でも、油断はできないわ。夫人に相応しいかのチェックも兼ねているかも。
私はニコニコ笑いながら、
「ええ、覚えていますわ。とても嬉しい書類を持って来てくださったんですもの。」
そう返事をした。
「しばらくエルメニアにご滞在と伺っております。王太子殿下から、ご不自由のないようにと仰せつかっております。」
ロイド伯爵がそう言う。王太子殿下の命があるから宰相が来たわけね。三番目とはいえ、私が王女だから粗末には扱えないものね。
ロイド伯爵は王宮図書館の利用許可証を持って来てくれていた。たとえ貴人の付き人といえど許可証を持った人しか入れないらしく、ハンナとロッテの許可証もとってくれていた。エルメニアの宰相はやり手だとの話だけれど、その通りだと思う。その人の許可証だけとって、付き人の許可証はとり忘れると思うもの。
ロイド伯爵はゆっくりと部屋を見回した。
「お疲れのところを申し訳ございません。まだお寝みのところを起こしてしまったようで。」
なんで寝起きだってわかるの?顔は洗ったし、髪もハンナがキチンとしてくれている。何で?私は疑問が顔に出ていたらしい。
「私にも殿下と同じ年頃の娘がいるのです。」
ロイド伯爵はそう言って笑った。伯爵の娘の寝起きと私の様子がよく似ていたとのでわかったということね。
二人は少しだけ話をして、「お疲れでしょうから」とすぐに帰って行った。
二人が帰ると、マーサというメイドがやってきた。屋敷内をしたいと言う。そう言えば「屋敷の案内は明日する」って、言っていたわね。部屋数はそんなには多くないけれど屋敷全体が手の込んだ装飾に一目で高価とわかる調度類で揃えてあった。さらに温室があって、そこでお茶会が開けるようになっていた。
一通り見て回ってから、食堂で昼食をとる。これは予行演習。ギルベルト様と結婚してエルメニアに来たら、普段私はここで一人で暮らすのね。そしてギルベルト様の妻として出しゃばらない程度に最低限の社交をする。夜会も帰りに私だけこの屋敷で降ろされて、ギルベルト様は公爵邸に帰る。そこで、私ではない誰かと暮らすんだわ。だって、普通なら自分の屋敷に招待するのに、私をこの屋敷に泊めたんだもの。将来私はここで暮らすから、この屋敷に泊めたのでしょう?
そう考えたら、また、涙が出てきた。ルイーゼ、貴女、愛人はいてもいいけど妻妾同居は嫌だったでしょ。ここなら同居にはならないじゃない。希望通りじゃないの。何を泣く必要があるの?
ちょうどそこへ、マーサが食後のお茶と果物を持って入って来た。私が泣いているので驚いている。
「申し訳ございません。何か不手際が。」
慌てた様子のマーサ。
「いえ、なんでもありません。多分、お食事があまりにも美味しくて感動なさっているのでしょう。
さ、殿下、早く召し上がって、夜会の準備をなさらないと。」
ありがとう、ハンナ。代わりに答えてくれて。でも、もうちょっと答えを考えて欲しかったな。まるで私が食いしん坊みたいじゃない。あっているけど年頃の乙女なんだから、ね。
安心した顔になるマーサ。その微笑みは残念な子を微笑ましくみる顔なのでは?
「どのような小さなことでも出来るだけご要望に添えるようにいたします。ですので遠慮なさらずに仰ってください。旦那様だけでなく、ギルベルト様からも強く言われているのです。もし、殿下のご要望に添えないことがあれば私達が旦那様やギルベルト様に叱られてしまいます。」
そう言われてしまった。そうね、私が悪くても叱られるのは使用人のあなたですものね。
「それから、ギルベルト様から今夜の夜会のドレスが届いております。後ほどお部屋にお持ちします。」
マーサはそう言って、食堂を出て行った。私は急いでお茶と果物を食べた。急いでいたけれど、果物は味わって食べた。珍しい果物だったから。
部屋に帰ると箱がいくつか置いてあった。手は綺麗に洗ったでしょう。口も綺麗に拭いたし。今着ているドレスには食べこぼしは無いはず。よし、開けるぞ!
一番大きな箱から開ける。これはドレスが入っている。お父様からデビュタントのドレスを贈られたから知っているもんね。ほら、ドレスだったでしょう?
黒いドレス?
「シュバルツ染めです。シュバルツ辺境伯領の特産品で、以前、グロリア様が王宮主催の夜会でお召しになって以来大変人気があります。中でもこれは染め、織りともに最高級品で、一般には出回っていないものです。」
部屋にいたマーサが教えてくれた。そんな生地で作ったドレスを贈ってくれたんだ。私のこと、婚約者として大事に思ってくれているのかな?この別邸に泊まったのも、私が「疲れてボロボロの姿を見られたくない」と言ったから、今日だけかな?でも、どうやって知らせたんだろう?
小さな箱には靴やアクセサリー類。どれも一級品。うう、ドレスやアクセサリーに負けるような気がする。
「殿下、支度をいたしましょう。」
ハンナが声をかけた。マーサ達も手伝ってくれる。
湯につけられてゴシゴシ洗われる。その後、全身に化粧水やクリームを塗られる。喉の渇きを訴えて、果実水を飲ましてもらった。下着をつけて、コルセットをつけて。
「コルセット、締めすぎじゃないの?」
「いいえ、緩いくらいです。普段、殿下ががなさらないからそう思われるのです。」
「ウェストも細く見えるし、夜会でご馳走出てもパクつかなくて済むし、で、良いことばかりじゃないですか。」
ハンナもロッテもひどい。向こうでマーサも笑っている。だいたい夜会って、ご馳走出たっけ?
次は髪。櫛でとかして髪油を塗って、結い上げる。これはマーサがしてくれた。エルメニアで流行の髪にしてくれる。お化粧をして、ドレスを着る。最後にアクセサリーをつけて完成!
鏡の前に立ってみる。すごい!私じゃないみたい。
笑ってみる。うん、可愛い!
回ってみる。裾がフワっと広がる。これでダンスを踊ったら、少しくらい下手でも、とても優雅で綺麗に見えちゃう!
ロッテが拍手をしてくれる。
「殿下、とっても綺麗です。堂々と辺境伯の横でエスコートされてくださいね。」
もちろん、そのつもりよ。ギルベルト様の横は私の指定席なんだから、当然じゃないの。たとえトレアのロクサーヌ様にだって譲らないわ!私はギルベルト様の婚約者なんだもの。ギルベルト様は私を選んでくれたんだもの。
ノックがあってメイドが入ってくる。ギルベルト様が迎えに来てくれたらしい。支度を始めたのはたしか昼過ぎで、、、そんなに時間が経ってるの?
「何を仰ってるんですか、殿下。朝から、いえ、前日からお肌の特別マッサージとかされる方もいるんです。今回は大変な強行軍で時間が無かったので本当に最低限のことしかできませんでしたが。それすらもいくつ飛ばしたか。」
ハンナが悔しそうに言った。
そうね、随分と急な夜会のお誘いだったわね。理由はわからないけれど、まあ、そんなこともあるわよね。誘ってもらえて嬉しいから、気にしないことにするわ。
「ですから、殿下、いつ招待されても良いように、普段から毎日お肌やお髪のお手入れを、、、
まだお話は終わっていませんよ。どこへ行かれるんですか?」
「だって、ギルベルト様がお迎えに来てくださってるのよ。お待たせしては申し訳ないもの。」
ギルベルト様がお迎えに来てくれたもの。早く行かなくちゃ。
裾を踏んでこけないように、慎重に歩く。階段は手摺を持って、ゆっくりと。一段一段、用心してね。
あー、緊張してきた。いい、ルイーゼ、貴女はとても可愛いわ。みんな私のことを可愛いって言ってくれたじゃない。ハンナやみんなが可愛くしてくれたでしょ。自分でも鏡で確かめたでしょ。自分に自信を持って!貴女はこの国の誰も持っていない、最強の「王女」というカードを持っているの。誰にも負けないのよ。どんな女性がいたって、ロクサーヌ様がどんなに美人だって、ギルベルト様の婚約者は貴女。堂々としていればいいの。
応接室の前についた。ロッテがドアを開ける。心臓が爆発しそう!
部屋には公爵とギルベルト様が立っている。ギルベルト様、なんか緊張しているみたい。でも、相変わらず美し過ぎて尊い!
あ、緊張しているのは私だけじゃないんだ。そうだよね。初めて婚約者をエスコートするんだもの。何度も会って気心が知れているわけじゃない。一度会ったきり。それも相手は一言も口を聞いてくれなかったんだもの。
ルイーゼ、昨日、会ったら何を言うか考えたでしょう?みんなが私の支度をしてくれている間、何度も頭の中でシミュレーションしたでしょう?落ち着いて、ルイーゼ。貴女はできる、できるんだから!
私は息を吸い込んだ。
「素敵なドレスをありがとう。」
ローゼニア語で言った。
ギルベルト様が固まっている。
え?私、何か間違った?発音が変だった?文法が変なの?どこがいけなかったの?
どうしよう。どうしたらいいの?ここにはカタリーナお姉様もケプラー子爵もいない。私がなんとかしなくちゃ!
「お召しいただいて、幸せです。」
そう、フワッと笑ってくれた。
やったー!笑ってくれた。さっきまでの緊張した雰囲気じゃない。とても柔らかい雰囲気になってる。多分、私は嫌われていない。大丈夫よ、ルイーゼ。
公爵も微笑んでいる。
「殿下、ローゼニア語を勉強してくださったのですね。」
公爵もギルベルト様も嬉しそうな顔をしている。やっぱり、自分達の言語を勉強してくれるのは嬉しいよね。
「はい、もと、いっぱい、べんきゅうしました。」
うん?なんかおかしいような?
「ええ、ええ、是非、勉強なさってください。」
公爵もギルベルト様もとても嬉しそうだった。
公爵が立ち上がる。
「殿下、そろそろ出発なさいませんと。」
ギルベルト様が私の方へ来た。私はギルベルト様の腕をとった。
いざ、夜会へ!
川を遡るので、船よりも馬車の方が早いと思います。が、貨物船が一番早く着くということにしています。




