手紙
どうも、星野紗奈でーす。
どうやら私、2018年にもエッセイを書いていたようです。意外と小説以外にも手だしてるな、なんてびっくりしました。
さて、あらすじの方ではなんとなくかっこいい感じに書きましたが、ざっくり言えば、私のパソコンに閉じ込めておいても仕方がないので投稿しようかな、という次第です(笑)こんな人もいるんだな~くらいの気持ちでゆるっと読んでいただければと思います。
それでは、どうぞ↓
ああ、なぜこんなに窮屈なのだろう。なんて息苦しい世界だろう。そういう風にネガティブに考える癖がついてしまったのは、確か小学校を卒業したくらいの頃だったと記憶している。というのも、私は典型的な真面目で、ふとした瞬間に、今まで無意識だった「責任」の存在に気がついてしまったのだ。金銭を所持すること。リーダーになること。発言すること。それらの行動全てに「責任」があり、私はそれを背負う必要がある。誰も教えてくれないから、そうやって見えない何かに追われながら生きていくしかないのだと、私は幼いながらに理解した。
高校生になると、「責任」を果たす「義務」があると考えるようになった。また、それらを踏まえて「生きる」ことについても思考を巡らすように、私は変わった。
私たちは「生きる」ことに対して、命を抱えるという「責任」を負っている。ということは、そこには必ず「義務」が伴っているはずだ。具体的には何だろうか、と少し考えてみる。例えば、そう、誰かを笑わせること。それから、人と人とのつながりの輪を広げること。そして、誰かの支えになること。
では私はどうだろう。自分に置き換えると、途端に自信がなくなってしまった。友人を笑わせるようなジョークは言えないし、コミュニケーションをとるのは苦手だし、何でも批判的に見てしまう癖がついてしまったから相手を慰める言葉を探すことさえままならない。このような状況で、私は「義務」を果たせていると言えるのか。
――――なぜ私は生きているの?――――
結局、毎回そこにたどり着いてしまう。ああ、どうしようもないな、なんて。辛くて、苦しくて、むなしかった。そんな運命に抗えないのが悔しくて、懲りずにまた考え直す。何度も違う答えを出そうとしているのに、いつも上手くいかなくて、何度も落ち込んでいる。こんな時、無性に必要とされたくなる。名前を呼んでほしくなる。気が滅入るときにそういう欲が出てしまうのは、なぜだろうか。本能が求めているような気がするだけで、はっきりとした理由が見つからないから、誰かに助けを求めることも出来ない。真面目というのは、こういうときに厄介だ。自分でいうのもおかしいが、真面目すぎるがゆえに、というやつだ。私は自立しようと努力し続けていた。誰かに頼ってばかりではいけない。誰かに心配されるようではいけない。自分が欲張ることもいけない。常に周りを考え、周りを思い、周りのために行動しよう。そういう心持で六年間を過ごした結果、今は甘え方もわからなくなってしまった。最初は、笑顔になって、名前を呼んで、褒めてほしかっただけなのに。
一度そういう思考に陥ると、そこから抜け出すのはとても難しい。前述したような体験したことがある人ならば、きっとわかるだろう。前向きに考えようとしても、全てに裏が見えてきて余計に自分を苦しめる。表裏一体とはよく言うから、仕方がないことではあるのだが、頭では理解していても心は追いつかないものだ。つくづく息苦しい世界だと思う。涙がにじむほど私は憂鬱な気分になってしまい、静かに階段を上って、誰もいない部屋に座り込む。不意に浮き上がった、孤独、の二文字。そんな言葉を振り払うように、棚の奥にしまわれた箱を取り出した。
小学校の卒業制作のオルゴール。表面には桜の花びらが風に乗ってどこかへ飛んでいくような絵がカラーペンで描かれていて、中央には学年の集合写真がはまっている。中を開いて蓋の裏側をのぞき込めば、一生懸命考えたであろうサイン達がこれでもかとちりばめられていた。まあ、実を言うと、そこだけではスペースが足りなくて、オルゴールの外側にも沢山書いてもらったのだが。それはもう、学年全員のサインがあるのではないかというくらい。それにしても、よくこんなに集めたな、私。必死に友人に声をかける自分の姿が脳裏に写って、思わず笑みがこぼれた。オルゴールの中身はというと、今まで様々な人にもらった手紙が大切にしまってある。親が授業の企画でくれた名前に関する話だったり、友人からもらった誕生日プレゼントについていたものだったり。大きさも様々で、普通の印刷紙くらいの少し大きめのものから附箋と同じくらい小さなものまである。個々に詰まった思い出は、私自身も計り知れない。これを言い換えるならば、宝箱、だろうか。私にとって、一番と言っても過言ではないほど、大切なものだ。
その中に、「生きる」ことの意味が分からなくなったときにいつも読み返す手紙がある。
記憶上、それが私の手元に収まったのは、小学校六年生のホワイトデー。バレンタインに友チョコを渡していたある男の子が、市販のお菓子と一緒に渡してくれた。放課後、公園に呼ばれて自転車で行ったら、チョコレートをあげた男子たちが、何も言わずにお返しを自転車の前かごに入れてきた。いや、つっこんできた、と言った方が正しい気がする。驚いたけれど、照れくさそうにしながらも律儀にお返しを渡してくれたということが、少しくすぐったかった。決して、恋なんてものではなかったけれど。その様子がなんだか可愛らしくて、思い出すとまた笑みがこぼれた。もらったお返しの数はそれなりに多かったが、家に帰って一つずつきちんと確認した。その時に、私は彼からの手紙を見つけたのだった。
取り出してみると、それは、彼に似合わないような可愛らしいキャラクターがあしらわれた、いかにも女子が喜びそうなレターセットだった。封を開けて、便箋に目を通す。その手紙の書き出しは、私を少し馬鹿にしたようなあだ名で、初めて読んだときには少しむかついたけれど、今となってはそれも良い思い出だったと思える。
『チョコありがとう
すごいおいしかったよ!
中学校は、はなれちゃうけどがんばってね。
いっしょにあそんでくれてありがとう
おしゃべりしてくれてありがとう
ともだちになってくれてありがとう』
最後に、控えめそうに送り主の名前が右下に、わざわざフルネームで書いてある。自分の名前をそうやって書くのなら、私の名前もちゃんと書いてほしかったな、と少し残念に思う。しかし、過去を改ざんしてまで美しい思い出にしようとは考えていないので、今もあえてそのままの状態で残してある。
一通り、と言っても数行しかないのだが、目を通した後、もう一度じっくりと読み直す。
――――『ともだちになってくれてありがとう』――――
そんなことを言われるとは、当時は思ってもいなかった。今になって、この言葉にこんなにも支えられることになるなんて、本当に思いもしなかったのだ。それは私も、そしてきっと送り主の彼も。まあ、もう五年近く前のことだから、彼は覚えていないだろうけれど。
私、生きていてよかったのか。私は、誰かに必要とされていて、誰かを支えることができていたんだ。たとえ、それが過去の出来事であったとしても。深い考えなどない子供の戯言であったとしても。手紙を読み終えると、何かあたたかいものがじんわりと心に染みていくのがわかる。満たされている、というのはまさにこの感覚のことを言うのだろう。
誰もいないのに、ありがとう、なんて言葉がこぼれてしまうほど。涙でまた視界がゆがむほど。こんなにも私がほしい言葉をくれた。
本当に、ありがとう。心の中でもう一度そう強く唱えて、私は立ち上がる。前を向いて、長い人生を再び歩み出すことができる。それは、まぎれもなく、彼のおかげ。
――――私は、また生きていける。――――
もし彼がこの事実を見つけたら、会いに行って、直接お礼を言おう。
ありがとうございました( *´艸`)