シーン96:この世に悪い本なんてないよ
「先に言っとくけど、美久ちゃん、はしゃがないでね」歩きながら霧崎は隣の美久に話しかけた。
「大丈夫だよおにいちゃん。あたしはしゃいだことなんてないよ」美久は微笑んでみせた。
「……どの口が」
店内に入った瞬間、美久は目を輝かせて飛び出していこうとした。
「わぁ――ってあれ?先に進めない」
「予想済みなので手をつないでおきました」
「おにいちゃん。もう。こんなに本がたくさんあるのに!」
美久は目の前の光景をあらためて見回した。
そこは家から歩いて十分ほどの位置にある本屋だった。市内に数多く出店しているチェーン店の一つで、市内では三指に入る有名な書店だ。霧崎は広い店内とそれなりに品揃えがいい点を気に入っている。
「そもそも美久ちゃんだって来たことあるでしょう」
「本に囲まれてるのはいつになってもいい気持ちだよ」
「変な性癖だ」自分にもその傾向があることを自覚しながらも霧崎は呟いた。
「で、なにを買うの?」
「ええと、おねえちゃん」美久は霧崎の後ろにいる姉をうかがった。
「何冊くらい買ってもいいの?」
雨宮は小さくため息をついた。「何冊買いたいの?」
「うーん。それは買いたいものを選んでみないとわからないかな」
「まあ基本的に一冊にしといてもらえるとありがたいけど」
「がんばります」
「つーか、霧崎せっかくいるんだから、買ってあげてよ」
「いや、ぼくだって自分の分だけで精一杯なんだけど」
「じゃああんたなんでいるんだ?」
「さあ」
「おにいちゃんもおねえちゃんも、話しこんでないで、早く行こうよ」美久は霧崎の手を引きちぎらんばかりに前に進もうとしていた。
「犬の散歩みたいだ……。あ、実の妹を犬扱いしてしまった」
美久に引かれるように、霧崎たちは文庫本コーナーを歩いていた。背の高い本棚が両肩にあり、最上辺に出版社のラベルが貼られている。本棚には色とりどりの背表紙が突き出るように並べられており、膝くらいの高さにある突き出た部分には小説が平積みで置かれている。美久も霧崎も歩きながら本を物色する。
「ねえおにいちゃん、どの本がいい本?」
「この世に悪い本なんてないよ」
「そっかぁ。だから迷っちゃうよね」
霧崎の後ろからついてきていた雨宮が足を止めた。
「この作家の名前、どっかで聞いたことある」
「ん?ああ、そりゃ日本で一番有名な歴史小説家だからね」
「なんでそんなこと言い切れるんだ?」
「雨宮さんが聞いたことあるからだよ」
「馬鹿にすんな!……なあ、時代小説と歴史小説ってどう違うんだ?」
「名前が違う」
バシッ。
「いや、本当に。それ以上の違いはないし、少なくとも区別する意味はないとぼくは思う」
「ミステリーと推理小説の違いは?」
「永遠の謎」
「あ、おにいちゃん、これなんて良さそう」美久が一つの小説を指さした。
「ハードボイルド超えてノワールまで行っちゃったよ」
「ダメかなぁ」
「美久ちゃんが良ければいいんじゃないかな」
「ノワールってなんだ?」
「フランス語で、黒、だね」
バシッ。
「ぼくもよく知らないけど、暴力的な小説だよ」
「ふうん。美久、それ買うの?」
「うーん。でも今日は、もっと純文学的な小説を買うつもりだったから」
「……なんかおれ、美久ちゃんには絶対に勝てないという気がしてきた」
「あ、これなんて霧崎向けぽくないか?」ある一角に目をとめて、雨宮が言った。
「ラノベ、か。ラノベ馬鹿にしちゃいけないよ。ここ見るだけでもわかるけど、ラノベはもう一大産業なんだから」この本屋では、文庫本コーナーのある一列のほとんどを、ライトノベルが占めている。
「昔のことはあんまり覚えてないけど、こんなに場所を設けられてるってことはなかったと思う」
「違う違う違う。あたしが言ったのはこっち」
雨宮が差した場所にある本の表紙には、突き刺さりそうなくらいあごがとがり、自信満々な細い目をした男性と、目が大きく気が弱そうな男の子が描かれていた。
「BLかよ!さすがにその属性はねーよ」
買う本も決まり、雨宮と霧崎はレジに向かった。
「結局美久の買う本は――これ、どんな作品なんだ?」
「日本人ノーベル賞作家の作品ですね。いや、小学生でも問題ないんじゃないかな」
「霧崎はなに買うんだ?」
「ぼくはこれだよ」霧崎は週刊少年誌を持っていた。
「結局雑誌かい。てか最新号出てたのか。あたしも買わなきゃ」




