シーン86:泳げるようにしてあげよう
霧崎は25Mプールに入り、プールサイドにいる美久と隼を見上げた。
「ではこれからぼくが美久ちゃんと隼を泳げるようにしてあげよう。ぼくは先生になるわけだから、二人とも、ぼくを尊敬するように」
「無理です」美久と隼の声が唱和した。
「はい、わかってました。じゃ、二人とも、水に入ってください」
「泳ぐのに入るの?!」隼が言った。
「入るよ!どうやって陸で泳ぐんだよ」
「空を」
「泳げないよ!人間は空飛べない!」
「空を泳ぐ、かあ。いいねえ。泳いでみたいなぁ」美久は隼に同調した。
「ぼくやったことあるよ」
「ええっ。隼くん、それは無理だよ」
「この前、そんな夢を見たんだー」
「夢かぁ。いいな。あたしもそんな夢見てみたいなぁ」
美久と隼はニコニコと微笑みあった。
「和やかに話してるんじゃない!早く水に入る!」
「よーし」
隼は立ち上がって後退した。
助走をつけて
「飛び込むな!禁止されてる」
霧崎の制止もむなしく、隼はドブンと水に飛び込んだ。
「ったく。顔を出したら叱らないと……」
隼が落ちた地点は盛大に泡立っている。
十秒経過。
隼はまだ上がってこない。
泡が引かない。隼が水の中でもがいているらしい。
「飛び込んだくせに溺れたのかよ!」
すぐ駆け寄って助けた。
「なにやってんだよ隼」
「ぷはぁ。びっくりしたぁ」
「いいな!これからは絶対に飛び込むなよ!」霧崎は涙目になりながら懇願した。
「で――」霧崎はプールサイドを振り返った。「美久ちゃん。早く下りてきな」
「う、うん」
「浮き輪は置いて」
「ええっ!!!!」
「そんなに驚愕されても……。これから泳ごうってんだから、浮き輪は必要ないよ」
「浮き輪がないと、溺れるに決まってるよ!!」
「決まってないよ!大丈夫だよ。ここ、足つくから」
25Mプールの水深は1.1M。小柄な美久でもなんとか足がつく高さだ。
「関係ないよ!足がついても溺れることはあるよ!」
「溺れたら助けるからさ」
「おにいちゃんには無理だよ!!!」
「……ひどい」
「ねーにいちゃん。まずにいちゃんが泳いでみせてよ」
「えっ?!でも、今日は二人が泳げるように……」
「見本を見せてもらえると、あたしたちもわかりやすいと思うんだけどな」
「………それも一理あるか」
霧崎はプールの端に向かった。美久と隼はプールサイドに上り、座って霧崎を見る。
「本音を言うと、あたしたち、泳げない人に教わるわけにはいかないもんね」
「にいちゃんがちゃんと泳げるかどうか、確認しないとね」
霧崎はプールの端から、泳ぎ始めた。
霧崎の泳ぎを見て、美久と隼は唖然とした。
一応クロールをしているのだが、お世辞にも上手いとはいえない。
「あれは……溺れてるんじゃないのかな?」美久が呟いた。
「でも、ちゃんと進んでるよ。一応」
「……何分かかるんだろう」
約三分後、ようやく霧崎は端にたどり着いた。
却下。
「あたしが教えるからにゃー、ビシバシ行くぞ!二人とも、まずは泳ぎを見せてみろ!」美羽がビシリと言った。霧崎に代わって、美羽が泳ぎを教えることになったのだった。
美久と隼は横目で目を合わせ、ニヤリと笑った。
「まず、美羽ちゃんにお手本見せて欲しいな」
「ぼくら、美羽ちゃんの泳ぎをさんこーにするからさ」
霧崎の時と同じ手だ。美羽が下手な泳ぎを見せたときは、指導者を変えてもらうつもりだ。
「いいぜ。目ん玉かっぴらいて、よーく見てろよ」
プール内には美羽だけ残り、美久と隼は霧崎のときと同じようにプールサイドに上った。
美羽が構えた。
頭を水にもぐりこませ、プールサイドを蹴ってスタートした。
美久と隼は絶句して美羽の泳ぎを見ている。
「上手い」
ただそう呟くことだけ出来た。
美羽の体は安定して水の表面を滑っており、腕はリズミカルにかつ綺麗に伸びながら回転し、息継ぎの時は腕の回転に合わせて斜め後ろに顔が向けられ、バタ足も整然とした調子でなされていた。
基本に忠実で、綺麗なクロールと言えるだろう。
三十秒ほどで、美羽は端に辿り着いた。
「ふう」と一度大きく息を吐いたのみで、息は上がっていない。
顔を上げると、美羽の目の前のプールサイドに、美久と隼が来ていた。
「やっぱ25くらいじゃもの足りねーな。50は行かねーと」
「ごめんなさい!」二人はいきなり謝った。
「なんだよいきなり」
「美羽ちゃん、あたし、今まで真面目にやってなかった。今からは心を入れ替えてやるから」
「ぼくもあまりやる気なかったんだ。でも、今からは頑張って、美羽ちゃんみたいに泳げるようになるよ」
美久と隼は、美羽の泳ぎに感動したらしかった。
「そ、そーか。じゃ、さっそく始めるか」
美羽の指導が始まった。
「違うよ美久!」
美羽の厳しい声がとんだ。
「さっきから何回も言ってるだろーが」
「ご、ごめん」
「もっと、こう、ほら、えーと、あの、すごく……きれいなって言うか、正しい、そう、正しいやり方で泳ぐんだよ。ほら、もっかいやってみ」
「……その、正しいやり方をちゃんと教えてもらいたいんだけど」美久は呟いた。
「隼も!全然出来てないよ」
「だってさー、美羽ちゃんがちゃんと教えてくれないもん」
「なんだと?!」
「……なんでもありません」
「さっきから言ってるだろ。ほら、こうやって、……どういえばいいのかな。バンバンってやって、ヒューって回して、ガバッと上げて、グイッと……」
「……隼くん」
「……美久ちゃん」
二人はうなずきあった。
却下。
「ほら隼くん、宙返りしてないで、真面目にやりな」雨宮の射るような声が響いた。
「むー。はい、ねえちゃん」
「美久は、真面目なんだけど、ちょっと水を怖がってるね。肩の力抜いて。少しずつでいいから」
「うん。頑張ってみるね」
美羽の次に泳ぎを教えることになった雨宮の指導は、滞りなく行われていた。
美久と隼の泳力チェックも「美緒ねえちゃんの泳ぎかっこいい」「おねえちゃんの泳ぎ、すごくきれいだな」と、難なくクリアし、指導もやさしく的確で、二人の泳ぎはかなり上達してきていた。
「なんだ、二人とも結構泳げるじゃん。一体霧崎も美羽もなにしてたんだ?」
「ほんと!あたしたち、泳げてる?」
「バタ足しか教えてないから、5・6Mくらいしか泳げないけどね。それ以上泳ぐには、もっと精進が必要」
「そっかー。にいちゃんくらいには泳げるようになりたいんだけどなー」
「25くらいならすぐだよ。腕と息継ぎを覚えれば」
パア、と美久と隼の顔が明るくなった。
「頑張ろうね、隼くん」
「うん、美久ちゃん、頑張ろうね」
「あ、でも二人とも、今日はもうこの辺にしとこうよ。一日で一気にやろうとしたって無理なんだからさ。それに、今日は遊びに来たんだし」




