シーン84:たった5メートルじゃダメだ
チャイムが鳴らされたので出てみると、そこには隼の姿があった。
「ああ、やっぱり隼くんか。おはよう」
「美緒ねえちゃん、おはよう!」
「もうみんな準備はできてるから、さっそく行こっか。……隼くんの後ろにいる立ったまま寝ている猫背はなに?」
「あれ?ねえちゃん知らなかったっけ?ぼくのにいちゃんだよ」
「知ってるけど、今日来るんだ?」
「そうだよ。今日はぼくと美久ちゃんと美羽ちゃんと、ねえちゃんとにいちゃんの五人で行くんだ」
「聞いてなかった。霧崎と一緒にプール行くのか」
「どーしたのねえちゃん」
クラスメイトの男子とプールに行くことになるわけですか。
ふーむ、そんな経験は初めてだが。
雨宮は霧崎を見た。だらけた寝顔だ。
まあいいかこいつなら。どうでも。
「で、なんでこいつは眠ってんの?」
「なんか、昨日夜更かししてたんだって」
「ふむ。今日起きなきゃならないのに夜更かししたのか。けしからんな」
「そうじゃなくて、ぼくが言い忘れてたんだー。もし事前に聞いてたらちゃんと寝てたよって、にいちゃん言ってた」
「なるほど。そりゃ隼くんが悪いね。これからは気をつけなよ。で、寝られてても困る」
雨宮は霧崎に近寄っていった。
ペシッ。
霧崎は起きた。「む、んーどこだここは……。あ、雨宮さん、おはよう」
「おう霧崎おはよう」
「……なんだか知らないけど頭頂部にすげぇ痛みがある。しかも何回か感じたことのある痛みだ。なんだこれは」
「目ぇ覚めたか?それならさっさと行くぞ」
霧崎たち五人は朝の道を歩いていた。小学生三人が並んで前を歩き、高校生二人は見守るように後ろからついてくる。
「なー、隼は泳げんの?」
「ちゃんと泳げるよ。5Mくらい」
「……たいしたことねーな。せめて10Mは泳げて、泳げるって言おうぜ」
「でも、5Mでも泳げるのはうらやましいなあ。あたしはまったくだもん」
「美久は浮き輪に掴まってばっかだもんな。あたしみてーに、少しは泳げるよーにならねーとな」
「美久ちゃんがんばれー」
「隼もだよ。たった5Mじゃダメだ」
「雨宮さんは行ったことあるの?今向かってるプール」
「あるよ。毎年家族と行ってる。去年も美羽と美久連れて行ったかな。霧崎は?」
「今のが出来てからは行ったことないんだよね。どんなとこ?」
市立プールは四年前に、市の広場にあるプールの老朽化を受けて別の場所に作られた、比較的新しいプールだ。50Mプールを持った県内でも有数のプールで、夏の人気レジャースポットの一つだ。
「どんなとこって言われてもな。流水プールがあって、スライダーがあって、あとは覚えてないや」
「ま、平均的なプールか」
「そうだね。そうそう、去年は盆に行ったからかな、客が多くてうんざりしたよ。もう歩くスペースもないくらい。あれはもう経験したくないな」
「ふうん。それは災難だったね」
「今日は大丈夫だろうけど。ああ、見えてきた」
遠くの高いところに、空を背景にしたウォータースライダーが見えた。その下の方に目をやると、プールの外壁になっている背の低い植樹林によってよく見えないが、そこにプールがあるらしかった。
「横に大きな建物があるけど?」
「エントランスホールと……ああそうだ、屋内プールがあるんだった」
「結構広いんだね」
「迷子になるなよ?」
「子どもたちに言ってください」
「にいちゃんすっげぇ!」隼は叫んだ。
霧崎は振り返った。「え?なんで?」
隼は天井を指さした。そこには入場する際通らなければならないシャワーがある。
霧崎と隼は着替えを終えて、入場しようとしていた。雨宮たちとは更衣室で別れ、シャワーを浴びた先で合流することになっている。
「にいちゃんこれ通ったんだもん。すっげぇよ」
「いや、通らなきゃいけないもんだからさ……。ていうかなぜ隼は通らない?」
「だってさー、寒いよ」
「寒い?」
「水冷たいよ」
「ふむ」霧崎は思案した。
「……隼、いいか、楽しいことの前にはいつも試練が待ってるんだ。試練を乗り越えてこそ、楽しいことも一層楽しくなるとも言える。だから、頑張りな」
「ううう」
「それとも、隼がプールに行かず、ずっとそこにいるってんならそれでもいいけどな。じゃ、にいちゃんだけ楽しむとするかなあ」
「そんなのやだよ!……よぉし」
目を瞑って。
やっ、と隼は降り注ぐシャワーの中に飛び込んだ。
「ひゃあ、冷た――くないよ!これお湯じゃん!」
「へぇ、そうだったのか」
「うん。これなら寒くないよ――って、にいちゃん先に浴びただから知ってたでしょ!」
「へっへっへ。あ、美羽ちゃんに美久ちゃんだ」
男子更衣室へ続くシャワーと女子更衣室へ続くシャワーとは壁一枚隔てた隣どうしとなっている。壁一枚を境に、左右対称にシャワーが並んでいるといってもいい。シャワーの向こう側は壁で、男子の場合左(女子の場合右)に曲がった先に更衣室がある。
その女子更衣室側のシャワーの向こう側に、美羽と美久がいた。
「雨宮さんは?」
「あたしたちに先に行ってなさいって」美久が答えた。
「ふうん。で、二人ともなんでこっち来ないの?」
「水浴びんのさー、絶対さみーじゃん」
「やっぱりそう思うよね!」隼がうれしそうに言った。
「でもさー、楽しいことの前にはいつも、えーとなんだっけ、なにか忘れたけど、なんか待っているんだ。そんで、それを乗り越えてこそ、楽しいことはもっと楽しくなるんだ。だよね、にいちゃん」
「うむ、その通りだ。だから二人とも頑張りな」
「……なんだあの兄弟は」
「ニヤニヤしてるね。気持ち悪いよ」




