シーン8:お邪魔します
それから20分ほどのち、雨宮家のチャイムが鳴った。出てみて、と言われた美久が、玄関まで行ってドアを開けてみると、そこには高校生の制服を着た男の人が立っていた。肩から提げたバッグと黒いカバンの重さに背骨を盛大に曲げている。長い黒髪がかかった顔はよく見えないが、少し緊張しているようである。
「あの、雨宮さんは?」男の人はまごついた様子で美久に話しかけた。
「雨宮さんって?」
「えっと、名前、なんだっけ。あの、霧崎が来たって言ってくれれば…」男の人の言うことは要領を得ない。
高校生くらいの男の人だから、たぶん美緒おねえちゃんのことだろう、と美久は思った。呼びに行こうと振りかえったちょうどそのとき、
「なにやってんの霧崎ぃ」という姉の大声が飛んできた。
「居るんだったら自分で出てくりゃいいのに」と姉の声を聞いた男子はぼそっと呟いた。「あ、雨宮さん?これはこの子に預けときゃいいのかな」今度は家の中に声を張り上げた。
これというのはなんだろう、と美久が見上げると、男の人はスーパーの袋を提げた右手を差し上げていた。
「はい、これ」と男の人は姉の返事も聞かずに、美久にそのスーパーの袋を差し出した。最初の緊張はだいぶ解けてきた様子だった。受け取っていいのだろうか、とちょっと美久は戸惑った。
「美久。上がってもらって」また姉の大声が聞こえた。
「家に上がってもらった方がいいみたいだけど」と美久は男の人を見上げた。
「……いいのかなあ。ぼく人ん家に上がったことないからなあ。ほんと、雨宮さんは勝手な人だな…」目の前の男の人は美久のことなど目にくれていない様子で、独りで首をひねってばかりいる。
変な人だなぁ、と美久は思った。そんなことを考えていたから、「君はいいの?」と男の人が言ったとき、話しかけられたのだとすぐには気づかなかった。
「えっ?」
「いや、だからさ、ここは君の家でもあるわけだから、君の意向も聞いておかないとさ」
美久は今まで、きみ、なんて呼ばれたことがない。だからなんだかこそばゆかった。「あたしはべつにいいけど」
「じゃ、上がるか」
ようやく意思が決定したらしいと見て、美久は案内をした。男の人は、お邪魔します、と小さく呟いてから上がってきた。
美久がリビングまで行ってみると、姉はソファに寝そべってマンガを読んでいた。男の人はのっそりと美久の後ろから顔を出した。姉が「ようっ」と手だけを男の人に挙げる。
「…雨宮さん、暇なんなら自分で出てきてよ」
「うるっさいよ霧崎。見たらわかるだろ、今忙しいんだよ」
「ぼくにはゴロゴロしてるようにしか見えないけど?」
「マンガを読むのに忙しい」
「…そういうのは忙しいっていわねーよ」
男の人はいつまでもカバンもバッグもスーパーの袋も持ったままだ。重そうだ。早く下ろせばいいのに。
「それ、なんでずっと持ったままなの?」美久は思ったことを口にした。
「あ、はい」男の人はスーパーの袋だけ美久に渡した。
「いや、じゃなくて、他の荷物とか」
「いやこれは、……えーと、……どこに置けばいいんだろう」
「そこら辺に置いとけば?」マンガに目を戻したまま、姉が言った。
「いや、でも、すぐに帰るし」
「せっかくだから晩飯食べてきなよ。カレー、嫌い?」
「え。…嫌いじゃないけど。いいの?」その疑問はむしろ美久に向けられているらしかった。
「べつにいいよ?」美久は答えた。実際、食卓に一人増えるくらいなんでもない。
「はい決まりね。そもそも、材料のメモにはあんたの分も足してあるから。あんたが食ってかないとうちはあさってまでカレーになる」
「あさってまで?」
「うちはカレーの時は最低でも2日連続だから」美久が男の人の疑問に答えた。
「おねえちゃん。一緒にご飯食べるのはいいけど、この人のこと、ちゃんと紹介してよ?」
「朝紹介しなかったっけ?」
「朝は時間なかったからなあ」
「名前、霧崎。同級生。性格、暗い。以上」姉は起き上がって伸びをしながら答えた。
「…暗いとか言わなくてもいいのに」霧崎は姉に聞こえないように呟いた。
「こっちは妹の美久。見ての通りの美少女で、あたしの手伝いを毎日してくれるとってもいい子。成績優秀。運動神経抜群。ほんっと、もう、あたしの妹にしとくにはもったいないほどのいい子だわよ」姉は美久を嬉しそうに紹介した。
「へ、へぇ」霧崎は雨宮の勢いに圧倒されているようだった。
「だからそこの根暗くんは美久の半径10km以内に近づかないでね。美久が穢れるから」
「…引っ越せっつーこと?」霧崎は嘆いてみせた。




