シーン74:ただセミの鳴き声だけがかしましい
夏には夏の記憶を思い出す。
なぜだろうと思う。
きっとそれは、身体が覚えているからなのだ。
父に手を引かれた記憶。
母の背中に負われた記憶。
姉を夢中で追いかけた記憶。
汗と、陽射しと、ひまわり。
「暑いな」雨宮は呟いた。手を掲げて、空を見た。真っ青な空だった。視界の端には、濃い緑色の葉がある。街路樹だ。
「そら、暑いよ」霧崎は手であおぎながら言った。「夏だからさ」
「なんで夏は暑いんだ?」
「地軸と公転のせいらしいけど?」
「ほう、霧崎にしてはわかってるじゃないか」
「ドクショカですからね」
「それでなんで成績が悪いんだ?」
「やる気がないからね」
信号が赤だった。止まる。
正午の陽光が容赦なく地面に射し込み続けていた。温暖されたアスファルトから放出された熱気が、周囲の空気にうだるような暑さを付加していた。
目の前がよどんでいる――陽炎だ。暑さは視認できるんだな、と雨宮は思った。
「暑いな」今度は霧崎が呟いた。「ああ、プールでも行きたいな」
「へえ、霧崎、泳げんのか?」
「甘いな雨宮さん。世の中には浮き輪というものがありましてね」
「高校生がなに言ってやがる」
「冗談だよ。25Mくらいはなんとか泳げるよ。そういう雨宮さんは泳げんの?」
「泳げるよ。そりゃ、得意ではないけどな」
青に変わった。雨宮は歩き始めた。
プールか、と雨宮は思った。プールはいいな。今度美羽と美久を連れてってあげよう。楊は来るかな。来ないだろうな。やつはいつもなにを考えて生きているんだろう。
大きなお世話か。自分だって、自分がなにを考えているのか、知らないじゃないか。
美久はまだ泳げなかったな。今年こそは泳げるように教えてあげよう。
美羽はもうかなり泳げる。けど、まだ小さいから、水は危ない。目を離さないようにしなければな。
車がどんどん雨宮を追い抜いていった。七月下旬の正午は、なぜか車が多かった。車のスピードは速い。歩行者は置いてけぼりを食らう。
雨宮は取り残されてしまった。
しばらくすると、車が途切れた。偶然車が続いていただけのことらしい。
昼頃になると、町はしばしの休憩に入る。車も人も少なくなり、音がなくなる。歩行者の靴音も、自転車がカーブを切る音も、車が出す排気ガスのうなり声もなくなった。
ただ、セミの鳴き声だけがかしましい。
抑揚のない音の中を、雨宮は歩いた。額を滴り落ちる汗を制服でぬぐいながら、雨宮は歩き続けた。
「雨宮さん、どこ行くの?」霧崎の声が聞こえたので、顔を上げた。遠い声のような気がしたが、すぐ斜め後ろに霧崎はいた。
「どこって、帰ってんだよ」
「そっちに雨宮さん家はないよ?」
言われて、あらためて周りを見ると、確かに自分はいつも通らない道を行こうとしていた。前を見ると、見慣れない風景が続いていた。
「うるせーな。たまには道を変えてみようと思っただけだよ」
「なるほど。いや、ぼくは雨宮さんが暑さでおかしくなったのかと」
ひっぱたいた。
「いてぇ」
雨宮は正しい道に戻さずに歩き始めた。こうなれば、意地だ。間違えたなどと言えるものか。
「ねえ、こっちでも本当に帰れるの?」霧崎がついてきた。
「ついてくんなよ」
「うるせーな。たまには道を変えてみたくなっただけだよ」
「……マネすんなよな」




