シーン2:また明日
その男子の名前は霧崎鋼といい、雨宮と同じクラスだということがわかるのは、3日後のことであった。その日は途中で暴風を伴って襲った大雨がようやく通り過ぎ、うそのように晴れ上がった日であった。雨宮が自クラスに入ってみると、その男子は席に座っていた。霧崎は相変わらずの長い髪で、近寄りがたい雰囲気を周囲に放ちながら最後尾の自席に座っていた。なるほど同じクラスの人間だったから自分の名前を知っていたわけだ。
霧崎は友達の少ない人間だった。というより、雨宮はクラスで霧崎が誰かと話しているのを見たことがない。暗くて近寄りがたいやつ、というのがクラス全員の霧崎評ではないだろうか。だからこそ自分も今まで霧崎について印象がなかったのであり、見かけても名前が出てこなかったのである。そもそも霧崎という名前でさえ、友達に聞いてから思い出した。
「霧崎」
雨宮は霧崎の席まで行くと、彼に話しかけた。
「傘、ありがと」
霧崎は顔を上げて首を振った。おそらく気にしなくていいという素振りだろう。それだけでなにも言わずにまた顔を伏せてしまった。
雨宮はイライラしてきた。なんでこいつは人とコミュニケーションとろうとしないのだろう。それでつい大声をあげてしまった。
「霧崎!」
クラス中に響く声で、全員の注目が雨宮と霧崎の元に集まった。霧崎は霧崎で、急に大声を出されてビクっとし、注目が集まった恥ずかしさからかより顔をうつむけ身を縮こませている。
雨宮はため息をついた。
「みーお、どうしたのよ朝っぱらから大声あげて」さっき霧崎の名前を教えてくれた友達が雨宮の方を叩いた。
「ちょっと顔くらい上げてくれないと話し続けられないんですけど」友達はとりあえず無視しておいて雨宮は続けた。「あんたにはもうちょっと言いたいことが」
霧崎は恐る恐るといった様子で顔を上げた。雨宮の目に髪の毛では顔の半分が埋まった霧崎の顔が映った。もう一度、雨宮の口からため息がこぼれる。
「いいじゃん霧崎のことなんてほっといて」なんのことだかよくわかっていない友達も、とりあえず雨宮をなだめようとしていた。
「そんなの、だめだよ」という雨宮の呟きは、始業のベルが鳴り響いたことでかき消され、クラスの誰にも聞こえなかった。ドアから担任の教師が入ってきて、生徒はみな自席へと戻った。
「あ、」霧崎がなにか言おうとして発した音が、席に戻る雨宮の背後から聞こえた。
結局霧崎と話すことができたのは放課後になってからだった。授業の合間の休み時間や昼休みは、移動教室があったり友達が話しかけてきたりして、霧崎と話すタイミングが掴めなかった。放課後帰ろうとする霧崎を掴まえると、霧崎はやっぱり顔を伏せた様子でそれでも「なに?」と呟いた。
「ちょっと、話す時間ある?」
「ない」即答だった。
「………」
「………じゃ」
「いや、ちょっと待って。なに?なんか用事でもあるの?」
「いや、部活が…」
「なにぃ」また大声を出してしまった。
「何部?」
「文芸部」文芸部?よかった、それならイメージに合う。こいつの口から野球部とでもほざかれたらどうしようかと思った。それでも帰宅部じゃなかったなんて。こんな根暗で対人能力ゼロ男が部活に所属していたなんて。
「世界の不思議ここに極まるって感じかな」
「何?」
「なんでもない」
「雨宮さんはなんかやってんの?」
「ん?いやわたしはなんもやってないよ。さっさと帰って家事やらなんやら…」
「ふうん、あ、でも前は図書館に遅くまで残ってたねえ」ん?
「あれは図書委員の仕事だったから仕方なかったのさ」んん?
「そっか大変だねえ。でも家事だって大変だもんねえ。雨宮さんは偉いなあ」んんん?
「てかなんであたしら普通に話してんだよ。霧崎部活行くんじゃなかった?」
「うん。でも文芸部ぼく一人だからさ。行っても行かなくても問題ない」
「そうなんだ。ってじゃあなんでさっきは時間ないって言ったんだよ」
「そりゃ…あねえ、…あれだよ…。今日は晴れてよかったね」
「話そらしてんじゃねえよ」雨宮はため息をついた。本日3度目のため息だ。
「…霧崎、わたしと話すの嫌?」
「そういうわけじゃないよ」
「嫌なら嫌って言っていいよ」
「嫌じゃないよ、だいたい、話すのも嫌な人に傘貸さないよ」
「だったら……、まあいいや。とにかく傘の話だよ。傘、今日は持ってきてないから明日返すから」
「うん、べつによかったのに」
「何で?」
「いや、なんでもない」
「それで何で傘貸してくれたの?あれじゃあ、あんたが濡れちゃうじゃない」
「雨宮さんが持ってなかったから」
「うん、そういうこと言ってんじゃないよね」
「それで充分じゃね?」
「充分じゃねえ」
「しつこいな雨宮さんは。それは…要するに…あの。今日晴れてよかったよね」
「それはさっきも聞いた。…、まあべつに理由がなきゃいいんだけどさ。ええとあと、前あんな時間まで何してたの?」
「さっきも言ったと思うけど?」
「え?なに?」
「文芸部」霧崎は自分を指差した。
「?あ、つまりあそこに文芸部の部室があるわけだ。ああなるほど」
「これで聞きたいことは聞いた?」
「うん。じゃわたしも帰るとしますか。霧崎も悪かったね引き止めて。文芸部かなんか知らないけど、まあ頑張って」
霧崎は黙って立ち上がって歩き始めた。こいつはじゃあねも言えないのか、と雨宮はまたため息をついた。
「あ、言い忘れてたことがあった」
「ん」
「…ありがとね。じゃまた明日」
雨宮は元気よく走り出して、霧崎を追い越して行ってしまった。また明日なんて、今まで言われたことがあっただろうかと、霧崎は思い、笑った。




