プロローグ
陽が落ちて来た。
夕焼け色に染まる分厚い雲は、昇りはじめる月明りを遮る。わずかにこぼれる光すら、この深い森のせいで地面が照らされることはない。
人間の何倍もの高さがある木は枝が太く、そして多い。付近の幹をお互いが交わらないように生えている。地面には胸から腰あたりまである草が乱雑に生え、人が通る道ではないことがわかる。時折聞こえる小さな虫の音も、生い茂る草木に掻き消えて行く。
そんな暗闇の中に人影が一つ。
濃い藍色の服は彼を闇と同化させ、深くかぶるフードにより表情は見えない。人形のように佇む青年の姿は、あまりにも無防備で、そして異質だった。
風や、虫の音が不意に止む。
青年の背後の草木がざわめいた。彼は振り向くことなく、手にしていたナイフを肩越しに投げた。ナイフは草を何枚か切り裂いた後、トンッという音をたて太い幹に突き刺さる。
ナイフが外れた音を聞き、彼はうつむく。薄く開けた口から小さなため息が出る。
少し疲れているのか。自分でも疑問形になっている気がするのは、管理能力が無いと思う。
さっきの気配と、音をたどる。ナイフを避けたらしい獣は、がさがさと木々を器用にかき分け、彼と一定の距離を保つように左側に回っている。ふとその動きが止まったと思うと、大きな影が横から飛び掛かって来た。
とっさに頭上の枝まで跳躍し、ぶら下がった状態で獣の頭を蹴り上げる。ぐしゃっと獣の首が曲がる感覚が、足に伝わり塊が下に落ちた。
動物にしては奇妙な体躯、人より一回り大きいが筋張った細い体、全身は硬いこげ茶色の毛で覆われ、長い手足の先には鋭い爪が伸びている。背中の背骨にあたる部分にうなじを過ぎた辺りから、三本角のような物が生え出ている。こいつらは魔族の歩兵にあたり、名をルゾフという。
このまま下りたら、残骸の上に乗ってしまう。体を揺らし、鉄棒の要領で自分がぶら下がっていた枝の上に飛び乗る。
ほっとするのもつかの間、三本前の木の枝に猿のように長い手でぶら下がるルゾフが、こちらを見下ろすように牙を向けている。爛々と輝く黄緑色の大きな目が暗闇に浮かび上がる。
「しゃっ」いう声と共に頭上から飛び掛かってくるルゾフ。
その大きな光る目に向かって2本のナイフを音もなく投げつけ、そのナイフを受け止めた塊は、奇妙なうめき声と共にドサリと崩れ落ちていった。
この森に入ってから一刻余りが過ぎ、最初は30対ほどだったルゾフたちも20体以上にとどめをさしてきた。所詮は雑魚だが群れで動くため、数が多いのが難点だ。
あとは相手からの出方を見るかこちらから仕掛けるか、と考えあぐねていると、数体、動く気配を感じた。大きく深呼吸をし、嗅覚と聴覚に集中する。見回しの良い高い枝へ、しなやかに木々の枝を飛び移り、周囲を確認する。残り6体、それ位ならいいだろう。
小さなため息が口から自然と出てしまう。最近多いな。先ほど倒したルゾフのもとまで、飛び降りた。
人間よりも赤黒い奴らの血が、回収したナイフにべったりとついている。同じ色に染まった自分の手で、ナイフを一本ルゾフの眼球から抜く。軽く上に抛ると、くるくると回りながら重力に任せてナイフは手のひらに落ちてゆく。このままだと掌は、切り裂かれてしまうだろうに。
ナイフが顔の高さまで落ちた時、突如小さな赤い円形の魔法陣が現れ、その円をナイフが通りすぎるとナイフは、淡い光を放つ魔法陣に飲み込まれるように消えた。
掌には、血だけがべしゃりと落ちてきた。足元でも淡い光が出ていた。ルゾフの両目に刺さっていたナイフは、2本とも無くなっている。すべてのナイフが消えるのは同時だった。
雲が少し途切れたようだ。青い月明かりが静かに夜の森を照らす。木々と暗闇に覆われた青年には、光は落ちてこない。風に乗って小さな鈴の音と数人の足音が近づいて来た。ちょうどいいタイミングだ。
「あとは勇者さまに任せるか。」
彼は小さくつぶやくと、深い森の奥へと消えていった。