小噺38 雪
図書館から出ると空は鉛色の厚ぼったい雲に覆われていた。まだ降っていないけど駅から降りるころには、東京にも雪が舞うかもしれない。
私は教科書とノートで重たくなった鞄を肩にかけ直す。マフラーに顔を埋めると落ち着く。きっと周りとの空気が少しだけど違ったものになると思うからだ。
市ヶ谷から阿佐ヶ谷まで20分程度。いつも私は本を読んでいる。いまは読んでいる本は少し難しい。主人公が殺人を起こすのだ。だが、彼には彼なりの思想がある。それで自分自身の行動を正当化させているつもりだろうけど。でも、そんなことが可能なのだろうか。私だったら犯罪を起こした途端にどうしていいか分からずに途方に暮れるだろう。この話の主人公みたいに計画的に行動、なんて私にはとてもできない。きっと呆然として街を彷徨い疲れたら家に帰って眠るのだ。
阿佐ヶ谷で降りても雪は舞っていなかった。私は雪が降る前にアパートに着きたくて歩を速める。夕暮れ時だから駅の周りは人がわんさかいる。真っすぐ歩きたくても自転車やゆっくり歩くおばあちゃんを避けるので、どうしても右に左に移動しなければならなかった。
アパートは誰もいない。けど、それは私にとって普通のことだった。
子どものころからこのアパートで暮らしている。母と二人で。母は色々な仕事をして私を育ててくれた。事務員や電話の案内員、土方もした。いまはスナックで働いている。だから母と直接会うことは難しいことだった。
いつか、定職に就かない理由を母に聞いたことがある。『それは私の信条に反するからよ』と真顔で母は答えた。要するに自分のしたい仕事をしたくなくなるまでする、というのが母の『信条』らしい。さすが14歳で家を出て、19か20で私を生んだ母の言葉らしい。
「絹も生きたいように生きなさい。その気になれば、どこにでも飛べるわ」
母は笑って私の髪の毛-「絹」という名前の由来になった、私自慢の長く艶のある黒い髪の毛-に優しく触って言った。
でも、私は母を置いてどこかに飛んでいくことはしない。それは私の『信条』に反するからだ。私は母と違って根を張って生きていきたいタイプだ。だから母が引っ越そうと駄々をこねても、私は断固認めなかった。
確かにこのアパートで生活をして15年経つ。身体が大きくなるにつれて、部屋を狭く感じることは多くなった。でも、私にとってこの場所は帰るべき場所なのだ。どんなに遠くに行こうが、必ず戻って来る場所。戻る場所がないなんて考えただけでぞっとする。宙を漂う綿毛のように風に流されあっちにこっちに飛ぶだなんて真似は私にはできない。
夕飯はもやし炒めを作った。炒めながら私は缶チューハイを飲む。炭酸が喉に通るとピリッとした刺激がして、すっきりする。飲み干す頃にはご飯も炊きあがったので私は母の分と自分の分を皿に盛りつけた。
一人の夕食も子どもの頃からの日常だ。だから、私は同年代の子よりも料理がうまい、と自負している。それもスパゲッティとかハンバーグだなんて可愛らしい料理だけでなく揚げ物や煮魚や漬物といったちょっと面倒なものもそれなりに作ることができた。
母は、というと作るよりも食べる方が専門だった。『あそこのパン屋がおいしい』とか『渋谷にある、あのバーはおしゃれだけど私好みの味じゃない』とかよくお話をしてくれた。
夕飯を食べ終え、食器を洗い終えると私は二本目の缶チューハイを冷蔵庫から取り出す。未成年がお酒を飲むと体に悪影響が出る、と丁寧に書いてある説明書きが目に入る。いや、でも大人が飲んでも影響はあると思うよ、と私は意地悪く考えて缶の口を開けた。
夕食後は決まって読書をする時間だ。さっき電車で読んでいた本の続きを開く。
主人公の内面が残酷なまでに丁寧に書かれた文章を読んで、どんな人が書いたのか少し気になった。名前からしてロシアの小説家のようだ。
時計が午後11時を回ったので私は本にふせんを挟み、お風呂に入った。入りながら、ふとあの小説の主人公のことを考えてみた。立派な思想-母だったら『信条』という言葉を使うけど-だけど自分がその思想に押しつぶされている可哀想な主人公を。
髪を丁寧に拭きながら、ふと母を想った。自由に生きる私の母、私と正反対の母を。女性として母を考えると少し複雑だ。ああはなりたくない、けどちょっと憧れるところもある。
布団に入るともう日付が変わっていた。
一人の部屋で私は母の何に憧れたかを考えた。自由なところ、我儘なところ、好きなものを好きだと堂々と公言できる気の強さ…母をここまで深く考えたことはこれまでなくちょっと新鮮な気分だった。
考えた末、『信条』で生きているところだ、と私は納得した。
他の人のように打算とかステータスとか出世とかお金とかで母は動かない。母は自分を律する筋のようなものが通っている人物だ。
馬鹿げていると人は思うかもしれない。正直、私も馬鹿げていると思う。反面、私にないものがあり羨ましく思う。そういえば、あの小説の主人公にも理想があり、その理想を徹そうといま苦しみ悶えている。だから、あの本の主人公は時代を経ても人に愛されるのでないかと、論評者っぽく考えた。
ぼんやりと頭が軽くなってきた。アルコールも手伝って眠くなってくる。
じゃあ、私の信条は…?私にもあるかしら。母のような筋が…。
くらくらする頭で考えたが、眠気に負けてしまった。
不思議な夢を見た。
自分が綿毛みたいに空から地上に落ちてくる。綿毛…?それよりももっと小さくて軽いもの…。雪?
とにかく高い空から自分は街を、人を見下ろしていた。忙しく動き回る人々を。私の母もいた。母は私を見つけると、手を振っている。笑顔で。
「絹。そのままだと遠くに飛んでっちゃうよ」
母は空に浮かぶ私に叫ぶ。飛ぶ?飛んでいるのは母の方では?とムカッとした。が、実際に(夢の中で)飛んでいたのは私の方だった。どうして私が?と辺りを見ると、他にもいろいろな人が飛んでいた。圧倒的に私と同じぐらいの年齢の子たちが多かった。途中、いい年して髪を染めている中年の男女も幾人か見えたかが。
「絹」
母が叫んでいる。私は母に手を伸ばそうとする。が、地上にいる母と空中を漂う私とじゃ距離もあって全然届きそうにない。
「お母さん」
私はようやく怖くなった。いままで一人で生きていたと勝手に思っていた。料理だって家事だって少しだけど勉強もできるから。だからもう自立した人間だって思っていた。
でも、そんなの私の思い上がりだ。私はまだ綿毛のように弱弱しくちょっとした風にだってあっちにこっちに飛んでいく子どもだ。それに比べて母は地面に根っこを下ろした木のようにしっかりと立っている。どんなに風が吹いても母は屹然と立っていた。
「絹もそのうち根が出るわよ」
空に浮かぶ私に母は大きな声で話しかけてくる。
「でも、それは時間のかかること。根を大きく深く出したかったら、今はいっぱい見て、聞いて、食べて、感じて、経験を積みなさい。そのためにはね、いろいろな人に会ってこなきゃなのよ」
母が私に話を続けていた。私は宙を漂いながらいつの間にか泣いていた。肌を伝わる涙は下に流れず、小さな粒になって空に舞い上がっていった。
目を覚ますと母が私の手を握ってくれていた。私はベッドの上で母を、次に清潔そうな白い天井を見た。
「具合はどう?」
母は優しく私に聞いた。
「ちょっと、眠いかな…」
「そう。じゃあ、もう少し眠る…?」
「…うん」
私は答えるとまた目を瞑った。
鼻で深く息を吸う。病院独特の匂いがする。消毒液と薬の混じったような匂いが。
不登校になって3年。順当にいけば私は中学校3年生だった。でも、私はクラスに馴染めずに学校に行きたくなくなった。
母に心配をかけさせたくなかった。だから、学校に行くふりをして図書館によく行った。でも、私の母はとっくに気づいていた。私から学校の匂いがしなかったこと。だるさとか、友人関係での煩わしさとか、宿題だとか、とにかく学校に関係するものが私からほとんど感じないことに。
自由に生きる母の邪魔をしたくなかった。でも、母が気づいてしまった。本当はあの晩、母は私にいろいろとお話をするつもりだったのだ。でも、母は急遽仕事に行かねばならなくなった。
私は死のうと思った。大好きな母をこれ以上、煩わせたくないから。薬とお酒を飲むと頭がガンガンしてきた。死ぬ前にお風呂に入ればと後悔した。綺麗な身体で死にたかった。でも、もう遅かった。息をしようにも自分の意思で身体はもう動かない。私は天井を見上げるようにその場に倒れた。
「そうそう、もやし炒めおいしかったわよ」
母は眠っている私に話しかけた。私は目を閉じたまま「うん」と答える。
「あの味、私にはできないわ」
母が料理の味を褒めるとき、嘘を言わない。「うん」とまた私は答える。
「また、作ってちょうだい」
「うん」
「ねえ、お母さん」
「うん?」
「学校に行こうと思うんだ」
「そう」
「うん。色々な人を見てこようと思う」
「それはいいことね」
「うん」
私は言い終わると、どっと疲れた。眠たくなったのでもう一度、あの夢を見ようと思った。




