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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十話「黙過」
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父王の手

 

 ***


 不思議な心地よさを感じる。清らかな冷たさと、優しい温もりを兼ね揃えた手が、ニーダーの顔に触れている。髪を梳かれている。額や頬をそっと撫でる掌は、しっとりと肌に吸いつき、肌に馴染んだ。


 繊細な愛撫は、ニーダーを包み込む雲のように柔らかな寝具よりも、もっとずっと心地よいものだ。ニーダーは夢うつつ、瞼の裏に母のふうわりとした笑顔を見た。


「母上……」


 ニーダーがうっとりして母を呼ぶと、優しい手は弾かれたように離れてしまう。母の拒絶は、ニーダーの優しい気持ちにまたひとつ、小さな穴を穿つ。


 母はいつもそうだ。ニーダーを招いてくれる。頼りにしてくれる。望みを叶えれば感謝してくれる。けれど、追いすがることは許してくれない。


(仕方がないことだ。母上はひどく傷ついていて、縋りついたらきっと壊れてしまうだろう)


 それで良いと、割り切らなければいけない。与えられることは望まない。求められることの方がずっと、尊い筈だから。


(母上に助けを求めちゃいけない。僕が母上をお助けしないと……それなのに僕は、自分のことばかりで……ゴーテルの胸に逃げてしまった。申し訳ございません、母上。あなたを、こんなところに一人きりにしてしまった。さぞ、心細かったでしょう。陛下に乱暴されませんでしたか? ああ、母上……本当にごめんなさい)


 赤く透ける瞼をそっと持ち上げた。ごちゃごちゃと散らかった薄暗い部屋で、ニーダーは目覚める。寝起きのぼんやりした頭でも間違えようがない、ニーダーの自室である。どうやら、ニーダーは無事にブレンネン王城へと帰還を果たしたようだ。


 火に入る羽虫のように明るい方へと寝惚け眼を向けると、窓辺に背の高い人物が黒々と立っていた。カーテンが開けられる。


 目が眩んだ。手を庇がわりに目の前に翳し、ニーダーは小さく呻く。燦々と輝く日射しが、暗闇に慣れた瞳を突き刺す針のようだ。もぞもぞと体を丸めて、シーツの中に隠れる。つかつかと足音が近づいて来て、傍らでぴたりと止まった。


 誰だろうと訝る前に、落とされた氷塊のような溜息で、その人物の正体がわかる。それと同時に、タヌキ寝入りを決め込みたくなったが、そうもいかない。ニーダーはシーツの端を両手でつかみ、恐る恐る顔を出した。


 父王だった。寝台の傍らで腕を組み、威圧的に顎を上げてニーダーを見下ろしている。父王の溜息は、ニーダーの胸に鉛となって落ちた。


(……陛下がいらっしゃるのか……)


 父王の険相。起きぬけに見るのは、最も遠慮したい顔だ。いつなら良いのかと言われると、返答に困ってしまうけれど、少なくとも、これ以上ないくらい無防備な状態で会いたくはない。


 旋毛のあたりが、父王の鋭い視線に穿刺されている。父王は眉間に深い皺が刻まれるほどに眉を顰めていた。その下で、怜悧な瞳がすうっと動き、部屋を見回す。


「散らかり放題だな。足の踏み場もないとはまさにこのこと。呆れが礼に来る」


 ニーダーはぱっと上体を起こして居ずまいを正した。そんなことをしても、部屋が片付くわけではないけれど、背筋を伸ばさずにはいられない。

 部屋の散らかりようは、今更、見て確かめるまでもないけれど、つい、首を巡らせて見回す。

 思った通りの惨状である。王城を抜けだす前と変わらない。こんな有様の部屋がもぬけの空だったら、誰だって、王子が癖者に浚われたのではないかと、疑うだろう。


 ニーダーはおずおずと父王を見上げた。体が緊張に強張っていて、動きにくい。上目使いに見上げるかたちになってしまう。悄然と肩を竦ませて、ニーダーはしゃがれた謝罪の言葉を絞り出す。


「も、うしわけ、ございません」


 ニーダーに出来るのは、千篇一律の、実を伴わない謝罪の言葉を、泡のように吐き出すことだけ。父王の顔を見られない。これだから、父王の溜息は尽きないのだろう。


 ニーダーは首筋を固くして俯いている。シーツを握りしめる掌がじんわりと汗で湿っている。ニーダーは、何も言えない。父王は、何も言わない。


 ニーダーには、心配ごとが山ほどあった。


 まずは、ルナトリアの安否だ。父王がニーダーを探す為に暗い森を訪れたことから、ルナトリアは城に戻り、ニーダーの危機を伝えてくれたのだろう。だから、無事であるとは思うが、足に怪我を負っていた。慌てふためいていたから、城に戻る道中でまた怪我をしてしまったかもしれない。

 それに、目の前で人喰いに襲われたニーダーが、なかなか戻らなかったのだから、きっととても心配している。心ない大人たちは、ルナトリアを責めたかもしれない。父王に忠誠を誓うイレニエル公爵の怒りを買い、酷い仕置きをされたかもしれない。こうしている今も、可哀そうなルナトリアはひとりで泣いているかもしれない。


 さらに、ゴーテルの処遇についても気がかりだ。未遂に終わったけれど、ブレンネン国王に斬りかかってしまった。いくら、ニーダーの命の恩人であり、ニーダーが彼の助命を乞うても、父王が是と言わなければ、良くて幽閉、悪くて処刑だ。

 高い塔の前で、意識を失う直前に、父王はゴーテルを城に連行するように騎士に命じた。あの時は、ゴーテルを高い塔の家族から助けられたように錯覚したが、冷静に考えると、脅威の源が変わっただけだ。それも、もっと恐ろしいものになったかもしれない。父王がなんのつもりでゴーテルを城へ連れて帰ったのか。ことと次第によっては、ニーダーがゴーテルの逃亡を手引きしなければならない。


 それに、母の心配もある。ニーダーが何故、暗い森に赴いたのか。ルナトリアには口止めしてあるし、ニーダーは何があっても口を割らない。だけど、父王は真っ先に母を疑うだろう。父王はニーダーの落ち度をなんでもかんでも、母のせいにしたがる。


 ニーダーの胸のなかで、心配事がぐるぐると渦を巻いて締めつける。父王に訊ね、必要であれば進言する必要があるだろう。しかし、何から、どうやって切り出せばいいのか、わからない。下手なことは言えない。


 沈黙の終わりが見えない。ニーダーは、ふと、奇妙に思った。


 ニーダーがぐずぐずと何も言えないでいることは、珍しいことではない。しかし、父王がいつまでも沈黙を守っているなんてことは、稀だ。父王は時間の浪費を嫌う。


 父王にも、言いたいことが山ほどある筈なのだ。ニーダーを詰問し、叱責したい筈だ。それなのに、何も言わない。


 いつまでも何も言わない父王。ニーダーは途方に暮れた。凄まじい閉塞感。つい、窓に目をやる。


 日射しの角度と影の長さから、無意識のうちに時間を割り出す。そして、おかしなことに気が付いた。


(あれ……どうして、この時間に、陛下が僕の部屋にいるんだ……?)


「あの……陛下……今朝の引見は……一般の謁見は……おとりやめになったのですか?」

「それが何か」


 父王はやけに軽々しく言った。ニーダーはぽかんと口を開けて父王を見上げた。穴があくほど、父王の顔を凝視する。これは本物の父王なのかと疑わしく思ったのだ。なぜならば、今の無責任な発言が、とても父王の口をついて出るものとは思えなかったから。


 おかしい。礼儀にうるさい父王が、ニーダーのぶしつけな視線を鷹揚に受け止めているのも、するべきことがあるのに、引っ張って来た椅子に呑気に腰かけているのも。


 ニーダーはへどもどしながら、父王の矛盾を指摘した。


「恐れながら……謁見は国王陛下の義務にございます。はるばる遠方から王城に赴いて参る者たちにお言葉をおかけあそばすことにより、民の陛下に対する尊敬と愛情が深まり……また、陛下は王城の外の……地方や民に対するご理解を深められると、陛下は仰いました。それを、何故なにゆえおとりやめに……?」


 父王は国民を愛し愛される、賢明な王だ。一般の謁見は、民を思いやり、彼らの小さな声にも耳を傾けようとする父王が、最も大切にしている務めのひとつだった。たとえどんな不都合があっても、謁見を求める者が一人でもいれば、それを優先していた。そうすることが、王としての義務であると、父王はニーダーに厳しく教えていた。


 それなのに、父王はその重要な務めをほっぽりだして、ここにいるという。何をするでもなく、言うでもなく、ただ、ニーダーの傍らにいるのだ。意味がわからない。


 父王は顎に手をやって、ふむ、と考え込んでいるようなポーズをとった。けぶるような睫毛に半ば隠された瞳をどれだけ熱心に覗いても、父王の心の内はわからない。


 わからない、わからない、わからない。わからないから、空回りする頭が、痛い。ニーダーは頭を抱えた。すると、父王は躊躇いなく、至極当然そうに、手を伸ばしてくる。


 唖然とするニーダーの頭を、父王が撫でている。羽根で撫でるようで、優しいと言っても差し支えのない手付きだ。しかし、ニーダーの緊張は張り詰める。刀の刃で頬を撫でられているようなものだからだ。


 父王は、竦み上がってしまったニーダーの頭をしばらくの間、撫でていた。屍象にでもなってしまったかのようなニーダーが、警戒を解かずにいると、零すように失笑した。


「まだ、本調子ではないな」


 ニーダーははっとして顔を上げた。父王の顔を見上げて、どきりとする。爽やかな朝日を浴びているというのに、父王の顔にくっきりとついた陰影は、傷ついた心の翳りのように見えたのだ。


 まんじりと見つめるニーダーの視線から逃れるように、父王は目を逸らした。その小さな動きのひとつひとつが、やはり、悲しそうに思えて、ニーダーは戸惑う。


 その時、窓の外に視線を逃した父王の目が見開かれた。


 訝る間も与えずに、父王は素早く立ち上がった。勢いで椅子が後ろに倒れたが、父王はそれに頓着しなかった。大股で窓辺へ行くと、引きちぎらんばかりの力でカーテンを引いて閉めた。


 倒れた椅子に気を取られていたニーダーだったが、部屋が薄暗くなると驚いて、父王に視線をうつす。


「あの……陛下……?」


 目が暗さに慣れない。すれ違いざまにニーダーの頭に軽く手を置いた父王の表情が見えなかった。


「養生しなさい」


 そう言い残して、父王は部屋を出た。ひとり取り残されたニーダーは、しばらくの間、呆気にとられていた。


(なんだったんだ、いったい……)


 首をひねりながら、ニーダーは寝台をおりる。父王が倒したままにしていった椅子を立てなおそうとしたところで、画架に足をぶつけて倒してしまった。


(あっ……暗くて、よく見えない……)


 父王は、休んでいろという意味でカーテンを引いて閉めて、出て行ったのだろうが、生憎と、ニーダーはもう眠れそうにない。父王に驚かされて、眠気なんて吹き飛んでしまった。


 ニーダーはカーテンを引いて開けることにした。窓に体を向けたとき、ニーダーの目もまた、見開かれる。


 カーテンにうつりこんだシルエットに見覚えがあった。細く頼りなく、ぷらぷらと揺れている。


 ニーダーは飛び付くようにしてカーテンを引いて開けた。そこには案の定、シーツを結んで作られた命綱が垂れていた。


 体中をめぐる熱い血潮が、足元に落ちていくようだ。冷え冷えとした体が、落ちて行く。


(陛下はこれを見つけてしまったんだ!)


 ニーダーは床を蹴って駆けだした。倒れた画架に躓いてしまったけれど、転がるようにドアに突進する。


 両手で取手を握って、強く引く。拒絶が伝わる固い手応え。ガチャガチャと音をたてて揺さぶる。ドアはびくともしない。


(やられた……外から鍵をかけられた! どうしよう、陛下は母上のお部屋に向かったに違いない……母上!)


「陛下! 陛下! 開けて下さい! 僕の話しを聞いてください! 母上は悪くありません! 僕が、僕が望んだのです! ……誰か! 誰かいないのか! ここを開けてくれ! 誰か!」


 ニーダーはドアを乱打して、腹の底から叫んだ。しかし、どれだけ声を張り上げても、拳を叩きつけても、助けが来る気配はない。ニーダーは半狂乱になっていた。


 父王は、上の階から垂れ下がるシーツの命綱を見て、すべてを悟ったのだろう。ニーダーと母の密会も、それと今回のニーダーの失踪の関連性も。引き離された母子が、一目を盗んで会っていたからと言って、そこまで勘ぐるのは飛躍のし過ぎに思えるが、母を目の仇にしている父ならば、当然の如く、その二点を結び付ける。


 そして、噴き出す火柱のような、恐ろしい怒りにかられて、母の部屋へ向かっているのだ。


 落ち度がなくても、母は責められるのだ。それが、母がニーダーの非行を促していたと知ったからには、もうとまらない。


 ニーダーの脳裏を、父王に暴力をふるわれる母の痛ましい姿が過る。頬を張られ、長い黒髪を鷲掴みにされ、引き上げられ、また頬を張られる。床に倒れた母の体に馬乗りになり、首を絞める父王の、悪鬼のごとき形相は、思い出すだけで背筋が凍る。


 さっき、ニーダーの頭を撫でていた大きな手。あの手が母の細頸を締めつける。暴力をふるわれても、侮辱の言葉を投げかけられても、母は一切、抵抗せずに、父王に身をゆだねる。


 力尽きた母の白魚の手が、ぱたりと力なく床に落ちる様子を想像してしまう。


(どうしよう……母上が……母上が殺される……!)


 ニーダーは焦った。頭が焼き切れるほどの焦燥にかられて、やっと思い出した。


(落ちつけ! シーツのロープを伝って登ればいいんだ!)


 ニーダーは窓辺に駆け寄り、窓を開け放つ。掴もうと腕を伸ばす。

 ところが唯一の命綱は、指先をかすめて引き上げられてしまった。


(あっ)


 その瞬間に、世界が凍りついたように、ニーダーには思えた。精彩を失い、温度を失う。鼓動すらとまる。


 呆然自失としているニーダーの耳に、母の悲鳴と父の怒声が聞こえた。



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